2022年4月18日月曜日

やってしまった…

ナナホシテントウを写そうとすると、腰に痛みが走った…
ギックリ腰…
しゃがんで写すのをサボって前屈みで構えてしまった(-_-;)
歩けなくなる痛みでなさそうなので、距離を短くしてゆっくり歩きました。

テントウムシの育ち方」(小学3年)

マクロレンズでは遠かったのだけど…
冬に蕾をヒヨドリなどに食べられているキリの花が咲いていた。
木に咲く花は
  ―― 木の花は 
(第37段)

 木の花は、こいのもうすいのも紅梅。
桜は花びらの大きい、葉の色のこいのが細い枝にさいたの。
藤の花はしだれた房が長く、こい色のがよい。
 五月(旧四月)の終わり、六月(旧五月)のついたちごろ、橘(たちばな)の葉のこく青くしげったところに白い花が雨にぬれて早朝さいているさまなどはいいようもなく美しい。
 黄金(こがね)の玉が花の木にさいたとばかり思われる実の美しさは朝露にぬれる桜の花におとらない。
ほととぎすが好む木だときけばいっそう心ひかれる。
(『現代語訳 枕草子』大庭みな子 岩波現代文庫 2014年)
  梨(なし)の花はつまらないものだとされて、手紙をむすんで人におくるにもつかわれないし、愛らしくない人の顔つきをたとえて、その色気のなさからも梨の花のようだといったりする。
けれど、唐(中国)ではほめたたえられる花で、文学のなかにもよく登場する。
それなりの理由もあるのだろうとよく見れば、花びらのはしにほのかな色つやがある。
かの楊貴妃(ようきひ)が帝のお使いにあって泣いた顔を「美しい梨の花が春の雨にぬれたようだ」と、白楽天(はくらくてん)の「長恨歌(ちょうごんか)」の一節に歌われたものも思いだされる美しい花である。
 桐(きり)の花が紫にさくのはみごとだ。
ひろがった葉のつきぐあいがぶざまのようにも思えるが、格別の木であるらしく、唐では鳳凰(ほうおう)がとまる木であるそうな。
また琴はこの木でつくり、さまざまな音をかきならすのだから、やっぱりふつの木ではないのだろう。
 木の見ばえはしないが、ふうがわりな楝(おうち)の花はおもしろい。
とだえとだえにさいて、五月五日の節句のころはかならずさいている。
『現代語訳 枕草子』大庭みな子 岩波現代文庫 2014年)
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戦争反対と声をあげていても
進んでいくのが戦争

それでも戦争反対といい続ける

侵攻も内戦も戦争もすべて反対
 若い人たちへ
          北御門二郎
 この本を16年ぶりに復刊するにあたり、特に多くの若い人たちに読んでいただきたく筆をとりました。
 もう、今から60年前になります。
すぐる太平洋戦争の折、国をあげて戦争に熱するさなか、私は、やむにやまれぬ気持ちで戦争を「否(いや)」といい、「人を殺すくらいなら殺されるほうを選ぼう」と徴兵を拒否しました。
トルストイにめぐり逢ってのことです。
きっと軍法会議にかけられて、銃殺刑かしばり首になろうと死を覚悟していた私は、幸か不幸か、狂人として扱われ、生き長らえました。
(『ある徴兵拒否者の歩み』北御門二郎 地の塩書房 1999年)
「人は何のために生きるのでしょうか」そのことは人間一生のそして永遠の問題ですが、すくなくとも、人は人を殺すために生れてきたのではないはずです。
 どうか、若い皆さんをはじめ、この本を読んでいただける読者の皆さんが、私の体験と思いをつづったこの一冊に、生きていくうえでの何かを感じていただけるならば、どんなに嬉しいことでしょう。
 私は今年で86才になります。
この世からいつ旅立つことになるのか、それは神様におまかせするとして、私が生きてこの日本を思うとき、私はトルストイの『イワンの馬鹿』に出てくるイワンの二人の兄の国が重なって見えます。
一つは金銭に執着し、大金持ちになり、揚げ句に滅んでいくタラスの国。
二つは兵隊をうんと集め、やられたらやりかえそうと軍備をさかんにして、よその国民までもみんなが自分をおそれるように威嚇して、揚げ句の果てはやっぱり滅んでいく軍人セミヨンの国。
この日本は外敵の侵略による滅亡よりも、むしろ内から滅びるのではないか……
  〝なんみんの人たちに、日本であまっているおこめをあげないのですか。テレビで一日に一かいしか、しょくじできない人の、かわいそうなところをみました。
   わたしたちのがっこうで、きゅうしょくが、よくのこります。わたしでも、パンを二まいたべれないときが、よくあります。男子でも、じかんないにたべきれなくて、おしこんでたべる人がたくさんいます。
   のこったのは、どうぶつのえさにするのだそうです。あまっているおこめは、なんみんの人たちに、あげたらどうでしょう。わたしたちのは、もうすこし、へらしたらどうでしょう。〟
 『なんみんにおこめをあげて』いしまる・じゅんこ(小学一年生)(朝日新聞)

 このような若き光の子等がすくすくと育つ国であるように、私は願ってやみません。
  はじめに

 私はこの書の中で、私が青年時代にトルストイにめぐり逢って以来今日までのほぼ半世紀間に、いかなる人生を歩んで来たかを、なるべき正直に、ありのまま皆さんに語りたかった。
そのために戦中戦後の私の日記や、折にふれて新聞や雑誌に書いた文章なども引用させていただいた。
 正直に、ありのままと言っても、私にはまだ告白する勇気のない罪の思い出が多々あるけれど、偏見なしに最後まで読み通して下さる方にとっては、それがまぎれもなく純粋にトルストイに心を寄せつづけた男の、半世紀を超える歴史の、すくなくとも一側面であることを理解していただけると思う。
そしてまた、トルストイに心を寄せるということは、同時にイエスに心を寄せることであり、仏陀に、孔子に、老子に、ソクラテスに、カント等々に心を寄せるゆえんであることもご理解いただけると思う。
 トルストイは私にとってまさに光だった。
そして私にとっての光は、同時に万人にとっての光であることを信ぜざるを得なかった。
だから私は、その光についての証言がしたかったのである。
 私はトルストイについての評論も解説もできないし、しようとも思わない。
しかしながら一人の人間が時空の距(へだた)りを超えてトルストイに心を寄せ、トルストイと共に生きて来た、否、少なくとも生きようと努力して来た略半世紀の歴史を語ることは、より多くトルストイの光についての証言とならないだろうか?
 要するに私としては、トルストイに関する教科書を書くことよりも、トルストイを愛してもらえるための書物が書きたかった。
そしてそれを通じてなるべく多くの人々と、トルストイへの愛を分かち合いたかった。
そのことこそまさしく深奥からのトルストイの紹介であり、トルストイへの勧誘であると私には思われたのである。
そうした自分の意図が、今この書物によってどれほど果たされたか、謹んでここに、読者の皆さんの審判にゆだねる次第である。
(『ある徴兵拒否者の歩み』北御門二郎 地の塩書房 1999年)