2022年4月10日日曜日

昭和8年

今からこんなに暑いとは…
タケノコもポコポコ出てきました。
台風も次々発生するのかな?

 キランソウが咲いていました。
この場所は、初めて気がつきました。
去年、あぜ道のキランソウが急に少なくなったと思ったら
生えていたところが丸く掘られていました。
今朝も自然探検観察園のあぜ道に咲いていないかと見ているのだけど見つかりません。
タケノコも採取禁止の貼り紙があるのに採って行く人がいる。
先日、ツクシが生えていますよと教えてあげたら
翌日、全部なくなっていました…
1本でも残しておけば、胞子が飛び出すのに…

飛び出す胞子 ツクシの秘密」(ミクロワールド)
題詠四十首 46

   花衣に落つ
 さそひつる 風は梢(こずゑ)を すぎぬなり 花はたもとに ちりかかりつつ

現代語訳
  花は衣に落ちる
花を誘うように散らしていった風は もう梢を通りすぎたようです 舞う花びらがひらひらと わたしの袂(たもと)に散りかかってくる

語意
花衣に落つ 花が衣に散りかかる、という題意。
さそひつる 「花さそふ比良(ひら)の山風吹きにけりこぎゆく舟の跡みゆるまで」(宮内卿、『新古今集』春下)のようにしばしば用いられた。 
(『建礼門院右京大夫集 全訳注』糸賀きみ江 講談社学術文庫 2009年)
 題詠・題詠歌

 平安末期ごろの家集は、題詠が次第に主流になっている。
題詠によるものは厳しい作品の鑑賞に耐える半面、作者の人間性の陰影は稀薄(きはく)である。
こうした時期に、『右京大夫集』のように長い詞書と詠歌が緊密に結び合い、作者の抒情を伝える作品は多くない。
『右京大夫集』は、このような意味でも注目される私家集といえる。
(『建礼門院右京大夫集 全訳注』糸賀きみ江 講談社学術文庫 2009年)
 さくら花(ばな)風にふかれてヒラヒラと老いたる母の背につもりたり  K.M〔少年〕1958

 足萎あしな)えの妻をのせたるリヤカーを吾(わ)れは曳(ひ)きゆく桜見せむと  松村扇風 1958

 杖になります桜見に行きましょう  辻村みつ子 1992

(『訴歌 あなたはきっと橋を渡って来てくれる』阿部正子編 皓星社 2021年)
 昨日の朝日新聞「天声人語」には、ロシアの世論調査について書かれていました。
最後に

▼報道統制下にあるロシアの人々は、国家の言い分を信じ切っているのか。
それとも疑いつつ、信じたい自国像を見ているのか。
先の世論調査で、ロシア軍の行動を「支持しない」人はわずか14%にとどまった。


わずか14%にとどまった
とあるのですが、報道統制下でも支持しない人がいるのはすごいなと思います。
今、国連でロシアを非難する決議などが採択されています。
このままゆくと、もしかしたらロシアは国連を脱退するのではないかなぁ…
昭和8(1933)年、日本は、国際連盟を脱退します。
この年、大きな出来事が続いて起きています。
第二話 満州事変を中心にして――昭和5年~8年
 ●二つの大国の国連脱退


 さらに昭和8年が歴史的に注目すべき年であったいくつかの事実をつけ加えます。
 まず日本帝国の国際連盟脱退があります。
リットン調査団の調査報告にもとづく国連の対日勧告案が国連総会に提出されたが8年2月のこと。
それには、わかりやすくいうと
①満州は中国に主権のあることの明記、
②日本軍のひとまずの撤退、
③国連外にある米ソ両国を加えた関係委員会による日中交渉の促進など、
日本としてはうけ入れ難い事項がふくまれていました。
(『世界史のなかの昭和史』半藤一利 平凡社ライブラリー905 2020年)
 ときの斎藤実(まこと)内閣の閣議は連日のように大もめにもめるのです。
2月15日の閣議で陸軍大臣荒木貞夫(さだお)大将と外務大臣内田康哉(こうさい)が、「かくなる上は、連盟から脱退だ」と強硬に主張します。
そして新聞各紙がさながら応援団のように、いま脱退しないのはいたずらに諸外国の軽侮の念を深めるのみであると、さかんに脱退を煽ります。
「十字架上の日本」が8年に入った時点での最新の流行語になり、輿論もその方向にどんどん傾斜していきます。
たしかに、日本に不利と思われる勧告案が総会で採択されれば、経済制裁が科せられるかもしれない、いや除名されるかもしれない。
そのような不名誉な処分をうけるくらいなら、脱退したほうがマシだと、民草が誇りをもって考えるのはわからないでもありませんが。
 2月24日、国連総会は勧告案を42対1で可決しました。
反対の1票は日本のもの。
日本全権松岡洋右(ようすけ)たちは「サヨナラ」を正式に表明し退場します。
日本が栄光ある「世界の孤児」になった瞬間でありました。

(「国際聯盟脱退ニ関スル措置案」国立公文書館)
 いずれにせよ、民草は、一方的かつ確信的な新聞報道を吹きこまれ、国際的な被害者なのに〝加害者〟として非難されていると信じ、強烈な危機感と孤立感と、それにともなう排外的な感情とをつのらせていきました。
そのことが何をうんだか、あとの歴史が示すとおりです。
 それを考えてみると、ドイツの国会議事堂の炎上が日本の国連脱退の三日後の27日。
また、その日、天皇はヒトラー政権樹立の報告をはじめてうけている。
またまた歴史的偶然とはつまり神の思(おぼ)し召し、必然なのだといいたくなってきます。
 ドイツが話題にのぼったところで、ついでにナチスの焚書(ふんしょ)についてかいておきたいと思います。
ヒトラー独裁確立後のベルリンで、中世さながらの焚書の愚挙が再現されたのが5月10日のことでした。
非ドイツ的・マルクス的・ユダヤ的なものとみなされる書物が、この日、すべて炎のなかに投げこまれたのです。
アインシュタイン、フロイト、トーマス・マン、ツヴァイクなどの著書2万冊が灰と化す。
 同じように火あぶりの刑に処せられたものに、『エーミールと探偵たち』『飛ぶ教室』などの作家ケストナーの著書もふくまれていました。
「将来の告発者として居合わせたい」と決意した彼は、多くの作家が亡命するなかで、ベルリンにとどまっていました。
そしてこの日、わざわざ自分の本が燃やされる現場を見物に出かけたのです。
 「私たちの本がめらめらと燃える炎のなかに投げこまれるのを見、うそつきゲッペルスの長広舌を聞いた」
 その『日記』にかかれたこの個所を読むたびに、この作家の精神の強さにはげしい感動をおぼえるのです。
 その野蛮なナチス・ドイツが国際連盟から脱退するのがこの年の10月14日。
進んで「世界の孤児」となることをこの国も選びとったのです。
孤児の淋しさをかこつ日本の眼前に突如としてこの大国が現れた、といっていいかと思います。
そして孤児同士の視線は妙に交錯し合って、両国はこのあと急接近していく。
昭和史にナチスがからみだしたことになるわけで、いっぽうで、この二つの大国の連盟からの脱退は、せっかく世界が模索してきた集団安全保障体制をガラガラと崩したことにほかなりません。
世界情勢のこのあとがぜん怪しくなり、不安となる。
が、当座はそれほどの危機感をもって欧米列強はうけとめようとはしなかったのです。
(『世界史のなかの昭和史』半藤一利 平凡社ライブラリー905 2020年)
今朝の父の一枚です(^^)v
スズメが桜に潜んでいる虫を探し出していました。

今日は母の命日です。
あの日、父と妹の三人で代わる代わる声をかけたり、手をさすってあげたりしました。
最後に、母の目から涙が流れたのを今でも思い出します。

叔母は、入所していた施設でクラスターが発生し、感染しました。
従弟は見舞いにも行けず、遺骨になって帰ってきた。

母は昭和8(1933)年に生れました。
戦争への道を突き進み、学校では、朝礼の時に日本軍の勝利を聞いていました。
日本軍が勝っていると信じていました(父も)。
1945年3月アメリカ軍が沖縄に猛烈な鉄の雨を降らせました。
鉄の雨の中を母は逃げ惑っていました。
父によると、海が真っ黒に見えるくらいの米軍の艦艇が沖縄の海をうずめ
遠く離れた徳之島まで地響きがしたそうです。

沖縄戦」(小学6年)