2022年4月9日土曜日

五月上旬…

今朝も4月の暖かさでないなぁ…
天気予報を見ると5月上旬の気候だとか…
台風も発生している。

台風1号が発生 日本に近づく可能性も 今後の情報に注意」(NHK 4月8日)
  頭巾(ずきん)

白い頭巾で
隠した顔を
梨の花かと
見違うた。

そっと忍んだ
そなたの顔を
月が出たかと
見違うた。
(『朝鮮民謡選』金素雲 岩波文庫 1933年)
 弁護士でテレビのコメンテーターをされている方が4月8日のtwitter
東欧の歴史くらい知らないで公で堂々と持論を展開できるか!っていうの。
と書き込んでおられますが
東欧の歴史を知りながらウクライナに降伏をすすめるような発言を繰り返していたんだなぁ…
知識はあっても人々の苦しみへの共感や連帯を求めるのは無理なのか
第3章 二つの世界大戦
 冷戦時代


…前略…

 アメリカによるマーシャルプランやその他の助成金、および低利の長期融資によって、第二次世界大戦直後から1951年にかけて西欧諸国では生産性を劇的に向上させ、労使間および加盟国間の協力を促進する近代的な経営が始まりました。
経済の成長・安定とともに政治も安定していきました。
 ドイツとイタリアの経済は急速に回復し、フランスでも30年間にわたる継続的な成長を経験しています。
1945年からオイルショックの余波を受ける1973年までの「栄光の三十年間」です。
西側は1970年から1990年にかけて発生した経済危機にもかかわらず、いつまでも経済的停滞から脱出できなかった東側諸国より先を進んでいました。
対する東側は、ソ連をのぞいて状況はずっと厳しいままでした。
(『ヨーロッパ史入門 市民革命から現代へ』池上俊一 岩波ジュニア新書 2022年)
 たとえば東ドイツでは、60年までにいわゆる社会主義的生産関係が大いに展開して、農業でも工業においても、社会主義的な所有のもとにある公的な企業(人民所有企業や協同組合)の生産が、私企業の生産を凌駕(りょうが)しました。
 ところがこの過程で、政府・党には官僚主義がはびこり、腐敗が忍びこんで、人民の言論・政治活動は制限されていきました。
経済は上向かず、消費財が欠乏して、生活は貧窮(ひんきゅう)します。
これに対する不満が高まり、ベルリンその他の東ドイツの都市でストライキや暴動が起こりました。
ある程度の政策是正がなされても、西ドイツに比べて、その生活水準は低いままでした。
 ソビエト連邦は、東欧諸国の犠牲のもとに、自身の回復に集中しました。
たとえばソ連は東ドイツの産業プラントのほとんどを押収して移転し、また東ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアからの戦争賠償を厳しく取り立てました。
首都モスクワは衛星国を統治する共産党を支配し、彼らはクレムリン(ソ連共産党の中枢、図3-10<省略>)からの命令にしたがうことを強制されました。
つまり西欧が完全に民主主義へと歩みを進めた時期に、東欧では共産主義体制とソビエト支配が強要され、各国の政権が国民を抑圧し、ときには銃口を向けることも辞さない独裁制がつづいたのです。
 民衆蜂起・反抗運動がまったくなかったわけではなく、1953年のスターリン没後の「雪解け」の雰囲気のなか、ハンガリーでは、1956年10月、学生と市民の連帯デモに治安部隊が発砲したことをきっかけに蜂起が始まり、新政権が国民からの強い要望によりワルシャワ条約機構からの脱退を宣言、ついで共産党が少数派連立政権を樹立すると、ソ連軍が全土を占領し弾圧、数千人の犠牲者が出ました(ハンガリー事件)。
 チェコスロヴァキアでは、党第一書記に選ばれたアレクサンドル・ドプチェクが「人間の顔をした社会主義を掲げて検閲を廃止し改革を始めたプラハの春(1968年)がありましたが、やはりソ連軍が侵入・占領して弾圧しました。
 ポーランドでは1980年8月、食品価格値上げに反対するストが拡大してできた、電気技師のヴァウェンサ(ワレサ)を委員長とするストライキ委員会についで、9月に自主管理労働組合「連帯」が発足、年末までに950万人の労働者が集結しました。
しかし戒厳令が出されて「連帯」関係者が拘束され、2年後には「連帯」は非合法化されてしまいます。
 つまり東欧のどの国においても、いささかゆさぶられることはありましたが、全体としてソビエト支配は変わりませんでした。
(「ポーランド戦後政治略史」在ポーランド日本国大使館)
 ところが1985年以降、ソ連の民主化の機運が熟してきて、事態は大きく変化していきました。
内政ではミハイル・ゴルバチョフ書記長を中心にペレストロイカ(「立て直し」の意)という体制内改革が唱えられました。
それは、経済システムを根本的に改革して停滞から脱出すること、および政治改革をし、権威主義的=官僚主義的体制から人間的・民主的社会主義社会へと移行することを目指していました。
そのような改革によって、社会主義を再生させようとしたのです。
改革の重要な柱となったのがグラスノスチ(情報公開政策)でした。
 そうしたなか、1986年4月26日、キエフ地方のチェルノブイリ原子力発電所4号炉が爆発して火災が発生、大量の放射性物質が噴出しました。
ところが一大事故が起きたにもかかわらず、情報統制でほとんど実情が報道されませんでした。
このような旧来の体制への反省も、グラスノスチを進展させたのです。
(「史上最悪 チェルノブイリ原発事故」 NHKアーカイブス 1986年)
 グラスノスチは東欧の共産主義政府を弱体化、多党制と自由選挙の出現をうながし、ついで1989年を中心とする東欧諸国での共産主義体制崩壊、東西ドイツの間の「ベルリンの壁」崩壊へとつながっていきました。
1989年12月には、マルタ島沖で米ソ首脳会談が行われ、冷戦の終結が宣言されました。
そして1990年10月の東西ドイツ統一の後、ソ連でも連邦機構解体が進みました。
1991年12月にソ連を構成していた共和国のうちバルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)とジョージア以外の11か国により独立国家共同体(CIS)ができ、ソ連の初代大統領となっていたゴルバチョフが辞任して、ついに東側超大国は解体しました。

(「ベルリンの壁崩壊」 NHKアーカイブス 1989年)
 こうして、戦後40年以上継続した緊張に満ちた国際政治の枠組みである冷戦は終焉を迎えました。
(『ヨーロッパ史入門 市民革命から現代へ』池上俊一 岩波ジュニア新書 2022年)

ソビエト連邦 崩壊」(NHKアーカイブス 1991年)