2016年11月14日月曜日

墨絵のような空…

今朝の天気予報ではしだいに雨模様になる…
空にはどこかお伽話に出てきそうなおじさんがいた(^▽^)
これは恐竜の頭かな( ^-^)
カルガモと視線が合いました(^。^)
連れ合いがご飯を食べている時,まわりを警戒していますp(^-^)q
巻第五 秋歌下 309    素性法師
  北山に僧正遍昭と茸(たけ)狩りにまかりけるによめる
もみぢ葉は袖にこき入れてもて出でなむ秋は限りと見む人のため

紅葉の葉は袖にしごき入れてでも持って出よう。
秋はもう終わりだと見るひとのために。
○僧正遍昭 素性の父。
○茸狩り きのこ取り。
○こき入れ 「こく」は,枝から花や葉をもぎとること。
『万葉集』に「袖にこきれ(「こきいれ」の略)」という表現で
梅や橘などの花を袖に入れる例が散見するが,紅葉は例がない。
(『新版 古今和歌集』高田祐彦訳注 角川ソフィア文庫 2009年)
人の子を登攀らせて慾る木の熟柿
(『しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って』 川村蘭太 新潮社 2011年)
柿の実ではありません(^▽^)

枯蔓をもがき抜けたる鶲かな  水原秋桜子
(『俳句の鳥・虫図鑑』復本一郎監修 成美堂出版 2005年)
鶺鴒のいそがしそうに振る尻尾  北 勝美
(『川柳歳時記』奥田白虎編 創元社 昭和58年)
   落 葉  

赤い葉が
しづかな地面におちてゐる
命はもってゐないが
華やかにちらばってゐる
みる人のきもちを清く幼くする

(『八木重吉全詩集2』ちくま文庫 1988年)
銀杏踏(ふん)でしづかにい児(ちご)の下山(げざん)哉   与謝蕪村

○児―天台・真言などの寺院で教育がてら召し使う童子。
○下山―寺にて修行中の者が宿下がりすること。
子供らしからぬが哀れである。
(『蕪村集 一茶集』暉峻康隆 川島つゆ校注者 岩波書店 昭和34年)
   囁きは秋の風にも齢(よはひ)にも   河野多希女(たきじょ)

 風は空気の動きをいうが,そのために動揺を来(きた)し不安定な気分にさせることもある。
秋風は夏と冬における季節風の交代期で,定まった風位はない。
秋風はなんとなく後ろ暗いひそひそ話にも受けとれて,古来詩歌ではこころ寂しく,
うら悲しい風として詠む場合が多かった。
掲出句もそういった秋風の本意をうけて,愁風ともいえるものだ。
そしてうら寂しい<囁(ささや)き>は自分の年齢からも聞き取れるというのだ。
 老化を意識しての作だろう。
俳句についての評論でも一世を風靡した山本健吉が書いている一文が印象的だった。
「老年の居場所とは,もっと安らかなものだと思っていた。
だがこれはどうやら私の見込違いであったようである。
老年とは,その人の生涯における心の錯乱の極北なのである」と。

  河野多希女  1922~ 神奈川県生まれ。河野南畦夫人。「あざみ」主宰。
句集『花の韻』『戀句流麗』など。
(『きょうの一句 名句・秀句365日』村上護 新潮文庫 平成17年)
生えるだけ生えたコスモスなら咲かう
(『山頭火大全』講談社 1991年)
雨も降り出して空が暗く,
高い木の上でピントの山が分からなかった…
綿玉(わただま)のひそかにはぜる時雨(しぐれ)

綿玉―繰り綿の玉
(『新訂 一茶俳句集』丸山一彦校注 岩波文庫 1990年)
   も ず 
          尾崎喜八

秋の夕日をつんざくもずの高音(たかね)
冬の飛将軍、彼は
(こずゑ)のもつとも高い尖端(せんたん)で光と空気とに酔ひ、
遠方の地平線に
おもひを飛ばして鳴きしきる。
あの国境の山脈を、
其処(そこ)をいろどる朝夕の寒さを、雪を、
いちはやく無心に感じながら、
放胆に、不敵に、
ロバート バアンスのやうに彼は歌ふ。

・ロバート バーンス・・・当時作者の傾倒していたスコットランドの農民詩人。
(『日本の詩歌17』中央公論社 昭和43年)