2026年5月16日土曜日

検査の後、白峯神宮~慶長天主堂跡

来週、診察があるので血液検査と尿検査を終えて京都にやってきました。
今日は、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅に出発した日にちなんで「旅の日」。
1689(元禄2)年3月27日ですが、新暦に換算すると「5月16日」。

きょう5月16日は『旅の日』…」(毎日新聞 余録 2022年5月16日)

旅といっても電車とバスに乗って日帰りの旅です(^_-)
出町柳から203号系統のバスに乗って堀川今出川で下車
 白峯神宮 

 当神宮は、崇徳天皇及び淳仁天皇を祀る。
 明治天皇は父孝明天皇の遺志を継ぎ、保元の乱により讃岐国(香川県)へ配流になった崇徳天皇の慰霊のため、明治元年(1868)讃岐の白峯陵より神霊を迎えて、創建された。
 次いで明治6年(1873)には奈良時代に僧道鏡と恵美押勝の争いにより、淡路島に配流の淳仁天皇の神霊を迎えて合祀された。
 この地は蹴鞠・和歌の宗家飛鳥井家の邸跡で、同家の守護神「まり精大明神」が祀られ球技愛好者に崇敬されている。
他に「伴緒社」「潜龍社」などの境内社があり、「おがたまの木」は京都市の天然記念物に指定されている。
   京都市
手水舎(飛鳥井)」(境内のご案内

 162 井は 

井戸は、ほりかねの井。玉の井。
走り井は、逢坂(おうさか)にあるから素敵。
山の井は、どうして古歌に詠まれるように「浅いもの」の例になったのだろう。
飛鳥井(あすかい)は、催馬楽(さいばら)で「みもひも寒し(水も冷たい)」と褒めているのがいい。
千貫(ちぬき)の井。少将の井。桜井。后町(きさきまち<常寧殿(じょうねいでん)>)の井。
(『枕草子』清少納言著 佐々木和歌子訳 光文社古典新訳文庫 2024年)

(章段の分け方は底本により違っています)
  白峯神宮のオガタマノキ 

 慶応4年(1868)創建の、ここ白峯神宮の社地は、蹴鞠(けまり)と和歌の家元であった飛鳥井(あすかい)家の邸跡にあたる。
このオガタマノキは、樹齢が数百年と考えられることから飛鳥井家の邸宅であった時代に植えられたものと見られる。
 オガタマノキは、春に芳香のある花を咲かせ、その名は招霊(おきたま<神霊を招く>)がなまったものという説もある。
社寺の境内によく植えられる木であるが、この木が京都市内で最大のものである。
 昭和60年6月1日、京都市指定天然記念物に指定された。
       京都市
昭和天皇 御手植の松
 史上最強の怨霊を鎮める
 白峯神宮

 …前略…

 三年がかりの呪いの血書経


 讃岐での崇徳の幽閉生活は荒んだものだったと伝えられている。
『保元物語』によると、上皇はせめて来世では幸せになりたいと願い、『大乗経(だいじょうきょう)』五部(華厳経・大集<だいじっ>経・大品般若<だいぼんはんにゃ>経・法華経・涅槃経)を3年がかりで書写した。
しかも、たんなる写経ではない。
指先から滴らせた自らの血によって写経したというのである。
 そして完成すると、「遠島に置いておくのはしのびがたい、都に奉納しよう」と思い立ち、書状でその旨を都に申し入れた。
(『京都異界に秘められた古社寺の謎』新谷尚紀編 ウェッジ 2020年)
 ところが、無常なことに都から返事は「ノー」だった。
「本人は配所に留まっているのに、写経だけ都に帰ってくるのは不吉きわまりない」 
そんな理由で血染めの写経は入京を拒絶されたのだ。
 返事を聞いた崇徳上皇は悲嘆にくれ、髪を剃ることもなく、爪も切らず、生きたまま天狗の姿になった。
あげく、「日本国の大魔縁となり、皇を取(とり)て民となし、民を皇となさん」と祈誓し、舌の先を食い切り、流れる血で写経の末尾に誓状を書き付けたのだった。
「皇を取て民となし、民を皇となさん」とは、天皇を民の身分に引きずりおろし、民をして天皇の地位につけてみせる、つまり天下を徹底的に転覆してみせるということだろう。
悲運の上皇の深い怨恨がこめられた、すさまじい呪詛(じゅそ)の言葉である。
 崇徳の火葬の煙は都に向かってたなびいたが、それは深い執念のあわられかとささやかれたという。

 …中略…
 明治維新で再び恐れられた崇徳の怨霊

 …前略…

 白峯神宮が歴史に登場するのは、ずっと後の明治維新さなかのことである。
 崇徳上皇の死からおよそ700年後の慶応4年(1868)8月下旬、前年に践祚(せんそ)したばかりの明治天皇は、崇徳が葬られている讃岐国の白峯陵に勅使を派遣した。
その神霊を京都に迎え入れるためで、御陵を訪ねた勅使一行は8月27日、崇徳上皇の御霊代(みたましろ)として御真影(ごしんえい<崇徳院像>)と遺愛の笙(しょう<雅楽などで使用する管楽器>)を神輿(みこし)に奉じて下山した。
そして9月6日には神輿は飛鳥井家別邸の跡地に新たに造営された神廟に迎えられた。
これが、崇徳上皇を祀る白峯神宮(当初は白峯宮)のはじまりである。
 白峯神宮創祀の二日後の9月8日には改元が行なわれ、明治元年となった。
ちなみに、明治天皇が京都御所で即位礼を行ったのは8月27日である。
 この時期、東日本では新政府軍が対峙する戊辰(ぼしん)戦争がいまだ継続してり、会津若松では鶴ヶ城に会津藩士が籠城して死闘が繰り広げられていた。
 京都における白峯神宮の造営は悲運の天皇霊のために孝明(こうめい)天皇が企図し、それを明治天皇が引き継いで実現されたものだったが、この背景には、新政府側が抱いた、崇徳上皇の祟りへの恐れがあったことは間違いない。
 天皇中心の近代国家を新たに築き上げようとしたこの一大変革期にあって、「皇を取て民となし、民を皇となさん」と誓った崇徳天皇の怨霊がふたたび目を覚まし、敵方の旧幕府勢力に味方するようなことは、断じてあってはならない。
そのためには、無念のうちになくなった崇徳上皇の霊に帰京していただこう、そして、これからはその強烈な霊力で皇室を守ってもらおう――。
 明治維新の裏で推進されていた白峯神宮の創祀からは、当時の権力者たちがいかに天皇(上皇)の怨霊を恐れていたかを伺い知ることができる。
 明治6年には、藤原仲麻呂なかまろ)の乱(764年)で失脚して皇位を廃され、淡路に幽閉されて没した淳仁(じゅんにん)天皇の神霊も白峯神宮に合祀されている。
(『京都異界に秘められた古社寺の謎』新谷尚紀編 ウェッジ 2020年)
白峯神宮から5~6分歩いた所にあるのが

 此付近慶長天主堂跡(このふきんけいちょうてんしゅどうあと)

 この付近は、慶長9年(1604)頃に復興されたヤソ会の天主堂教会があった。
京都でのキリスト教布教は、織田信長の保護のもとに本格化し、南蛮寺も建てられたが、天正15年(1587)豊臣秀吉が宣教師追放令をしき、弾圧した。
秀吉の死後、宣教師らは布教の許可を得ることと寺の再建に努力した。
 関ケ原合戦で徳川政権が確立すると、再びキリスト教布教が自由となり、この地に、新しい天主堂が復興された。
旧南蛮寺よりはるかに美しい建物といわれ、宣教師が常駐し、荘厳なミサが行なわれた。
付近には学校も設けられた。
 しかし慶長17年(1612)、徳川幕府はキリシタンの大弾圧を開始、天主堂も焼き払われてしまった。
慶長天主堂が立ったのは、10年に足りない期間であった。
   京都市
以前は、金網で囲まれていました

 一条の辻
 上京教会跡(慶長天主堂)


 これから訪れるのは、都の上京教会跡です。
堀川の元誓願寺通りを東に入ると、金網の中に立つ石碑を見ることができます。
説明板には、この地に慶長の天正堂上京教会が建っていたことを記しています(1600年、下京教会の分教会としてイエズス会の聖堂が建てられ、初代司祭はエマヌエル・バレト。毎年百名をこえる受洗者がいたと言われている。1612年、キリシタン禁令で閉鎖され、のちに破壊される)。
(『京のキリシタン史跡を巡る』杉野榮著 嶋崎賢児写真 三学出版 2007年)

南蛮寺跡(なんばんじあと)」(フィールド・ミュージアム京都)

通院が続くので今回の町歩きの記事を何回かに分けて更新します。
コメント欄は、最後に表示しますのでご了承ください。