朝には雨が止んでいたので出かけました。
花が咲き出したセンダンの木にまだ実が残っているので
撮そうとしたけど強風で揺れるゆれる…
夕方、買い物に出かけると寒いこと…
風が冷たかったです…
「低気圧の影響で各地に強風被害 東北は暴風警戒 関東は真夏日も」(NHK)先週、風、薫る(24)第5週「集いし者たち」
看護の「看」という字で「看(み)る」とも書きますでしょう?
「手」の下に「目」と書いて。
手と目を使って看る。
と、捨松が「observe」について説明していました。発病後に読んでいた本を思い出したので転記しますφ(.. )
久しぶりに本をひらくと付せんをいっぱい貼っていました。
おわりに 手から始まる究極のケア
死を免れる病気の種類も範囲も拡大し、医用電子工学(ME)機器の普及による医療現場が変化するなかで、最も顕著なのが、医師も看護師も患者のからだにほとんど触れなくなったことかもしれません。
…中略…
(『看護の力』川嶋みどり 岩波新書 2012年) 看護師の仕事に限ってみても、従来は、五感をフル稼働して、時には「おや! 変だな、いつもと違う」といった直感にも頼っていた「観察」という行為が、すっかりなくなりました。
計器によるデータ収集が可能になって、そのデータを読みこなすことに力を注ぎ、データなしでは不安で足が一歩も前に進まないといった看護師も珍しい存在ではありません。
呼吸が苦しいと訴える患者の苦しみをよそに、血液ガスの分析や電解質バランスの結果に関心を寄せて、サチュレーションモニター(血液中酸素濃度測定器)によるデジタルな数値を知らないと落ち着かない風潮が強まり、患者の背中をさすったり、気道の分泌物や痰を出すことを促すために温かい飲み物を供するといったことなどは、非科学的なこととして斥けてしまう傾向さえあります。 阪神・淡路大震災の時に、アンビューバッグ(小型の蘇生器)がないので人工呼吸ができなかった看護師の話を聞きましたが、東日本大震災では自動血圧計がなくて、脈拍が測れなかった看護師の話を聞きました。
これらのエピソードは、医療全体がいかに機械化されてしまい、それが当然となってしまっているかを物語っていると思います。
一方、被災地では、電子カルテも流され医療機器がほとんどなくなって、医師も看護師も旧来からの自分の身体ツールをフル稼働して救護や看護に当たらなければなりませんでした。
寒い時期の津波で、低体温症で運ばれた高齢者を、ただ両手でさすり続けて回復させたという話や、すべてを失って意気消沈している方に対して、衣服の上から軽くマッサージをするだけで、涙を流して喜ばれた話など、数多くあります。 そこで、私は、改めて看護の原点である手を用いたケアの回帰を主張します。
看護師に限らず人間の手の多様な働きは、直立二足歩行を獲得して以来の人間特有のものです。
朝起きてから就寝するまで生活行動の多くは手を用いて行わなければ目標を達成できません。
人間は一日にどれだけ多く手を用いることでしょう。
ものを書いたり作ったり、整えたり、あらゆる労働、芸術の基本でもある手によって、文化を発展させてきたのです。 赤ちゃんを抱っこする手から始まって、手によって人と人とはいろんなつながりや関係を持ってきました。
「肌の触れあいは、百万言を用いるよりもどんな視聴覚の方法よりも、より効果的にお互いの心を一体化し心の連帯をつくってくれる」、「意識も定かでない重篤な病人と、何とか心を通わせたいと願うとき、知らず知らず行うことは、手を握りしめたり足を擦ったりする」こと(時実利彦『人間であること』岩波新書、1970年)であることは、日頃よく経験することです。 看護師の指先が脈を数えその性状を知ることができることは前にも述べましたが、それ以外にも、皮膚表面の温度や湿度を感知し呼吸の質(空気の通り具合、分泌物の有無など)を知ることもできます。
ケアの場面では、その目的によって「触れ、支え、抱き、揉む、さする、撫でる、つかむ、動かす、叩く」など、多彩な手の働きがあります。
手の温度は一定でサーモスタット不要です。
この手を用いて、病人や高齢者の不安や不快や苦痛を緩和し慰めたり励ましたりすることの可能性は無限だといってもよいくらいです。
そっと肩に手を触れるだけでコミュニケーションの手段なることは、ICUなどで意識のない状態の患者さんの反応からも知ることができます。
心をこめて患者さん手に触れるだけで多かった心拍数が減り、高い血圧が低下したという報告もあります。
看護師の手を通してメッセージを受け取っているのでしょう。 出版社で編集者をしていた小川多美子さんが私に語ったことです。
「卵巣のう腫の手術を受け、病室に帰って来た時のこと。麻酔から醒めかけていたけど頭は朦朧として身体は鉛のように重たく、だるくって身の置きどころのない状態でした。そこに、足音もなく入って来た看護師さんが無言で、首すじから背中に向かって手を差し入れて、静かにマッサージをして下さったのです。その時の暖かく乾いた手の感触を忘れることができません。100の言葉よりも、一回のこの看護師さんの手の感触、心のこもった看護とはこのようなことをさしているのではないでしょうか」と。
それ以来、彼女は、手術した友人や知人のお見舞いには、小さなベビーパウダーの袋を持参し、それを両てのひらにつけて肩や足をさすって上げることにしたと話していました。 また、次は私が直接経験した患者さんのことです。
肺がんの末期で入院中のその方は高齢で気難しく、看護師たちは「ケアを拒否する患者さん」と言って、用事のあるとき以外は訪室を避けていました。
そのことを聞いた私は、両手を温めてよく乾かしてから様子を見にその病室を訪ねました。
眉間に皺を寄せて目を閉じているその方のそばに行き、手首に触れて脈拍を見た後、掛け物の下にそっと手を入れ足先を軽く揉み、膝下のマッサージを行いました。
薄目をあけてその方は私に顔を向けました。 「ご気分悪いですか?」「いやー気持ちいいですよ、しかし冷たい手であったらもっと気持ちが良いはずです。そこのポットの氷を出して手を冷やしてみて下さい」というのです。
私は、すぐ手を冷たくしてまたマッサージを続けました。
患者さんは満足されて「ありがとう。とても足が楽になりました」と、少し笑顔を浮べて「疲れませんでしたか」と、ねぎらいの言葉さえ聞かれました。
ケアを拒否するどころか、自分にあったケアを提案されたことに私も感動していました。
そして、温かく乾いた手でマッサージをするという常識も、かならずしも一般的でないことを教えられたのでした。
まさに病室は看護の教室、患者さんは最高の看護の教師であることを物語っています。 世界中の赤ちゃんからお年寄りまで、あらゆる年代の人たちの「肌が飢えている」(スキンハンガー)といわれています。
看護師の身体ツールである手を用いるケアの実践例を豊富にし、その効用を再認識することの意味は、合理性と経済性追求に走りがちな医療を、人間性尊重の医療に変えていく契機にもなります。
高度医療はますます機械化の一途をたどるにしても、看護はその原点である手を用いたケアを回帰させ、その有用性を看護の価値につなげるために行った共同研究、(「治療的介入方法としての看護師の〝手〟の有用性――統合医療における手当学の構築」平成21~23年度科学研究補助金(研究代表者、川島みどり))の成果を、臨床や教育の場で活かしていただきたいと思います。 現代の華やかな高度医療からみれば、その人の持つ自然の回復過程――治る力を引き出し整えるケアは、一見遅れているように見えるかも知れませんが、これこそまさに人間が人間に働きかけるという意味から究極のケアといえましょう。
相手の思いに寄り添いながら直接触れる看護師の手の有用性を発揮することを通じて、医療のありようを変えることにも近づけるのではないでしょうか。
(『看護の力』川嶋みどり 岩波新書 2012年)
「いつも元気、いまも現役」(一般社団法人「日本て・あーて,TE・ARTE,推進協会」代表理事 川嶋みどりさん)龍谷ミュージアム元館長のつぶやき(4月30日)
今朝の朝ドラで、observeの訳語として西周が仏教語の「観察」をあてたということが言われていました。
そうなんです。
「観察」はもともと仏教語なんです。
私たちは「あるがままにみる」ということはなかなかできません。
「思い込み」「偏見」に支配されてものごとをみているのです。
事実をあるがままに今朝の父の一枚です(^^)/
ムクドリが朝ご飯を探していました。
スズメは、幼虫?を捕えていましたが子育て中なのかもしれませんね。
「花にくる昆虫」つづき
美しい紅色(べにいろ)をした小さなベニシジミは、近くに田んぼがあったり、川の土手に咲くタンポポにもっともふつうに見られるチョウです。
チョウの幼虫は食べる植物が決まっています。
その植物のことを〝食草(しょくそう)〟と呼んでいます。
ベニシジミの主な食草はギシギシです。
ベニシジミは幼虫で冬を越し、早春から葉をのばすギシギシを食べて育ちます。
東京付近では三月中旬にはもう羽化したベニシジミが見られます。
ギシギシは日当たりのよい、やや湿った場所にはえるので、田んぼのまわりや川の土手にこのベニシジミが多いのです。
花や葉の上にとまっているベニシジミが、近くを通る他のベニシジミを追いかけているのをよくみかけることがあります。
これはテリトリー(自分のすんでいる領域)をはっている雄のチョウで、近くを通る仲間をみつけては、それが雄だと追い払い、雌だと求愛するのです。
チョウは仲間を見分けるのに色や動きを第一の手がかりとします。
ベニシジミの場合、最初は、すばやく飛ぶ小さなものを追いかけるので、しばしば他の種類のチョウも追いかけます。
花の上にとまっているチョウは、いつも蜜を吸っていると思いがちですが、ベニシジミの場合、翅(はね)をほんの少し開いて動かずにじっとしているのは、たいていテリトリーをはっている雄で、蜜を吸っているわけではありません。
よくみると口をのばしているかどうかで判断できます。
(『自然観察12ヵ月』海野和男編著 岩波ジュニア新書 1983年)













