晴明神社(せいめいじんじゃ)
晴明神社の鎮座する地は、平安時代中期の陰陽師である安倍晴明の邸宅があった地と伝わる。
安倍晴明は藤原道長と親交を持っていた。
道長の日記である『御堂関白記(みどうかんぱくき)』には道長が娘彰子(しょうし)の立后、寺院の造営や神社参詣など、様々なことを晴明や他の陰陽師に相談し、占わせたことが記される。 平安時代中期の貴族層にとって、陰陽道は日常に根差したものであり、『源氏物語』にも複数の場面で登場する。
「葵」の章では光源氏が賀茂祭(葵祭)に出かける前に、紫の上の髪が長く伸びている様を見て、暦博士を呼び、髪を切るのに良い時間を調べさせた。
暦博士は陰陽師が就く役職である。
紫式部が道長と晴明の親交を物語に反映させた可能性もあろう。 京都市内の発掘調査で呪術に用いた遺物が多数出土している。
例えば、平安京左京九条三坊十町では平安時代後期の池跡から「天●(てんこう)」に続いて符籙(ふろく)が書かれた呪符木簡が出土した。
この時期、この地は貴族の邸宅であったとされる。
呪符の作成も陰陽師が担っており、平安時代における陰陽師の活躍の一端をうかがい知ることができる。
令和5年12月 京都市
「●(こう)」(足の口が四)
平安京左京九条三坊十町から出土した木簡
旧「一條戻橋(いちじょうもどりばし)」 この欄干親柱は、大正11年から平成7年まで実際に使用されていたものです。
御祭神安倍晴明公ともゆかり深い橋ゆえ 境内に復元しました。
現在の戻橋は 神社から南へ
百米の処に架かっています
左隅に見えるのが(^_-) 式神石像
「【晴明神社】旧・一條戻橋」(YouTube)
鴨さんもお参りしています。
「晴明神社にて」(2013年12月14日 土曜日)
お散歩がてら織成館と西陣織会館に勉強に行ってきました。
西陣織の美しさには時間を忘れ魅入ってしまいます。
でもお値段に現実に引き戻されますけど・・・
その帰り道、ちょっと気になって立ち寄りましたのが
ここ「晴明神社」。
陰陽師・安倍晴明を祭神とする神社で
五芒星の神紋が神秘性を増しています。
場所は西陣の一角にあって御所の方を向いていますが
ここは安倍晴明のお屋敷があったところです。
そして堀川通を挟んであの一条戻橋もあります。
残念ながら?私は式神さんにお会いしたことはありませんね~
そいうえば今では「陰陽師」という役職・資格はないそうです。
でも大安、仏滅など暦注のひとつである六曜は気になります。
私も修行すればなれるかな~?
まえがき
「陰陽師(おんみょうじ)」を代表する人物といえば、多くの方にとっては、やはり、安倍晴明(あべのせいめい)なのではないだろうか。
平安時代に陰陽師としての名声をほしいままにした陰陽道(おんみょうどう)の第一人者、それが安倍晴明である。
念のために申し添えておくと、その安倍晴明というのは、「王朝時代」とも呼ばれる平安時代中期――今からだいたい千年ほどの昔――の日本に実在した、歴史上の人物である。
彼は、けっして架空の存在などではない。
ただし、実在の人物としての彼の名は、われわれの耳に馴染(なじ)んだ「アベノセイメイ」ではなく、平安時代の男性名としてより自然な「アベノハルアキ」であったろう。
(『陰陽師 安倍晴明と蘆屋道満』繁田信一 中公新書 2006年)
おそらく、小説・映画・漫画といった娯楽メディアを通じて安倍晴明の存在を知ったという方は少なくあるまい。「陰陽師(おんみょうじ)」を代表する人物といえば、多くの方にとっては、やはり、安倍晴明(あべのせいめい)なのではないだろうか。
平安時代に陰陽師としての名声をほしいままにした陰陽道(おんみょうどう)の第一人者、それが安倍晴明である。
念のために申し添えておくと、その安倍晴明というのは、「王朝時代」とも呼ばれる平安時代中期――今からだいたい千年ほどの昔――の日本に実在した、歴史上の人物である。
彼は、けっして架空の存在などではない。
ただし、実在の人物としての彼の名は、われわれの耳に馴染(なじ)んだ「アベノセイメイ」ではなく、平安時代の男性名としてより自然な「アベノハルアキ」であったろう。
(『陰陽師 安倍晴明と蘆屋道満』繁田信一 中公新書 2006年)
そして、そうしたメディアに登場する安倍晴明(せいめい)は、ときとして凄(すさ)まじい力を発揮する。
その力は、王朝の都であった平安京どころか、この世界の全てをも滅ぼしかねない。
だから、娯楽作品を通じてしか安倍晴明を知らない方であれば、彼を架空の人物と見做(みな)すことも不思議ではない。
それどころか、そうした方々にしてみれば、安倍晴明に代表される陰陽師そのものが、架空の存在に思えてしまうのではないだろうか。
しかしながら、「陰陽師」と呼ばれる人々は、この国の歴史の上に確かに存在していた。
少なくとも、王朝時代の平安京では、安倍晴明(あべのはるあき)をはじめとする幾人もの陰陽師たちが、盛んに卜占(ぼくせん)や禊祓(みそぎはらえ)を行っていたのである。
したがって、安倍晴明(せいめい)の登場する小説などに何か虚構があるのだとすれば、それは、安倍晴明(はるあき)や陰陽師の存在に関してではなく、むしろ、彼らが発揮する超人的な力に関してである。
安倍晴明が実在の人物であったとすれば、当然、彼が人類を滅亡させかねないような力を持っていたはずがない。 では、平安時代の中頃の王朝時代に実在した陰陽師たちは、本当はどんな力を持っていたのだろうか。
実在の人物としての安倍晴明は、どのような活動によって陰陽師としての名声を博していたのだろうか。
実のところ、先年までのブームおかげで「安倍晴明」という名前が広く知られるようになったにもかかわらず、彼の陰陽師としての活動がどのようなものであったかということは、世間ではあまりよく知られていない。
そして、それは、「陰陽師」と呼ばれる人々の仕事の中身が正確には理解されていないことを意味する。 そこで、本書においては、安倍晴明をはじめとする平安時代中期の陰陽師たちについて、彼らがどのような活動をしていたかということを、同時代の証言から検証していきたいと思う。
要するに、安倍晴明が実際にしていた仕事の内容を、安倍晴明の同時代人たちの証言を手がかりとして探ってみようというわけである。
幸いなことに、安倍晴明が活動した時代には、貴族層の人々の間で日記を付ける習慣が広まっていた。
そして、平安貴族の日記には、しばしば陰陽師のことも記されている。
そのため、そうした日記を手がかりとすれば、当時の陰陽師たちがどのような活動をしていたのか、その概略を知ることくらいは、十分に可能なのである。 たとえば、平安中期の中盤に代々の天皇や叔父や祖父の立場で朝廷を牛耳(ぎゅうじ)った藤原道長(ふじわらのみちなが)は、『御堂関白記(みどうかんぱくき)』と呼ばれる日記を残しているが、その日記にも安倍晴明の名は幾度も登場する。
また、書家として三蹟(さんせき)の一人に数えられる藤原行成(ゆきなり)も、『権記(ごんき)』の名で知られる日記を残したが、この日記にもしばしば安倍晴明の活動が記録されている。
そして、藤原道長の『御堂関白記』や藤原行成の『権記』からは、当時に人々が日々の暮らしの中でかなり頻繁に陰陽師を必要としていたことが読み取れる。
どうやら、平安時代の人々にとって、陰陽師というのは、日常生活を送るうえで不可欠の存在であったらしい。 われわれ現代人にとってみれば、陰陽師というのは、ある意味で「異常」な存在である。
だからこそ、われわれは陰陽師に対して強い好奇心を持つのではないだろうか。
だが、平安時代の人々にとっては、陰陽師はきわめて「普通」の存在であった。
彼らにしてみれば、陰陽師が存在している日常生活こそが「普通」だったのであり、むしろ陰陽師を欠いてしまうと、「普通」の生活を送ることが困難になってしまいさえしたのである。 この事実は、われわれ現代人と平安時代人との間に大きな心性(メンタリティー)の違いがあることに気付かせてくれる。
とすれば、本書においては、平安時代に特有の心性に光を当ててみることも必要であろう。
この点については、陰陽師の活動と絡めながら、折に触れて言及することにしたい。
…後略…
(『陰陽師 安倍晴明と蘆屋道満』繁田信一 中公新書 2006年)次の目的地に向かって歩いているとかわいいお地蔵さまに出会いました。
一、京の地蔵信仰 序にかえて
京都はむかしから地蔵信仰の盛んなところで、今も市内至るところに小さな石地蔵が祀られているのをみかける。
その数は八千から一万に及ぶといわれるが、正確にはわからない。
どうしてこんなに多くの石地蔵が、いつ頃から祀られるようになったのであろうか。
ここにその造立の理由や由緒について簡単に述べてみよう。
(『京のお地蔵さん』竹村俊則 京都新聞社 1994年) 【地蔵菩薩】
地蔵菩薩は、釈迦が入滅して五十六億七千万年後、弥勒菩薩があらわれるまでの五濁(ごじゅく)悪世の無仏の世界にあって、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上に至る六道の衆生を救う菩薩といわれ、とくに地獄に堕ちた人々の救済者とみなされた。
その姿は右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠をささげ、僧衣をつけた比丘(びく)の姿が多い。
これはいかめしい菩薩の姿より、六道の衆生に親しみをもたらすために法師像としたものであって、手にもつ錫杖も六道をくまなく巡って、衆生を救うというその本願を強調したものであろう。 また子供を守護する仏として崇敬されるのは、地蔵が「小さき僧」「若き僧」に身をかえてあらわれ、霊験をしめすという信仰によるものとみられる。
とくに冥土の旅の途中にあるという賽(さい)の河原で、父母を慕って嘆き悲しむ子供達を慈しみ守る仏として信仰がよせられ、今に至るも庶民大衆に尊信される因となった。
(『京のお地蔵さん』竹村俊則 京都新聞社 1994年)朝ドラ「風、薫る」第8週「夕映え」では、乳がんの公爵夫人を担当しますが、
発見が遅れていて手術の成功率は2割だと言っていたと思います。
キューブラー・ロスの定義したどの段階(否認・怒り・取引・抑うつ・受容)にいるのでしょうか?
この当時は、このような受け止め方はなかったでしょうから
一ノ瀬りんは、相当苦労するのでしょうね…
鴨さんのブログを初めて読んだ記事は
「みたらし団子」(2011年9月4日 日曜日)
京都盆地に広がる大きな緑の森「糺の森」。
下鴨神社、河合神社が鎮座しています。
この広~い神域を抜け南北に走る下鴨本通に出たところに
「加茂みたらし茶屋」が暖簾を下げて迎えてくれます。
ここは「みたらし団子」発祥の地。
もともとは神撰菓子として作られていたといわれています。
3本で一人前で、一串に5つの団子がついていますが
これは人間の五体を表すとされ、一つは頭、残りが4つが四肢。
つまり人形なのです。
無病息災を願うものだったのですね。お持ち帰りもできます。
バス停下鴨神社前すぐ。
当時、余命3年の宣告を受けた直後だとは、思いもよりませんでした。
…つづく…


















