2026年5月19日火曜日

戻橋~京都御苑(5月16日)

橋をくぐるとアーチ型の石橋が見えたのでそのまま歩いていくと
楽しそうに水遊びをする幼児が目に入りました。
お母さんと目があったのでつい
「気持ちよさそうですね」と声をかけてしまいました(^。^)

堀川水辺環境整備事業」(京都市情報館)
 京都市指定有形文化財
  堀川第一橋(中立売橋) 一基 

 堀川第一橋(ほりかわだいいちきょう)は、堀川の中立売通に架かる道路橋(どうろきょう)で、現在の橋に架け替えられる前から、地元では広く「中立売橋(なかだちうりばし)」と呼ばれてきた。
江戸時代に幕府が設置した中立売橋は、擬宝珠高欄(ぎぼしこうらん)付きの木製の橋であった。
「洛中洛外図屏風」には、後水尾天皇が二条城への行幸に中立売橋を渡る様子が描かれるなど、御所と二条城を結ぶ道筋に架かる重要な橋であり、幕府が直轄で維持管理する「公儀橋(こうぎばし)」であった。
 明治時代になると中立売橋は京都府に引き継がれた。
明治6年(1873)、中立売橋は永久に壊れることのないよう石の橋に架け替えられ、堀川で最初の「永久橋(えいきゅうばし)」として「堀川第一橋」と名付けられた。
度々修理しているものの改造は少なく、建設当時の姿が良く残されている。
 堀川第一橋は、伝統的な和風意匠を踏襲し、その構造は、石工(いしく)の伝統技術により造られた全国的にも数少ない真円の石造アーチ橋である。
近代的工法で建設されるコンクリートや鋼鉄の橋に移行する前の永久橋の形式が残るものとして、近代橋梁史上、価値が高い。
 堀川第一橋は、市内の公儀橋を永久橋として架け替えた現存最古の石橋として貴重な橋である。
  平成29年3月31日指定
    京都市

上京区の史蹟百選/堀川」(上京区)
 一条戻橋

 また、一条戻橋(土御門橋)は、キリシタン殉教者が通らなければならなかった苦難の場所でもあります。
長崎に二十六殉教者たち、ペトロ、バプティスタ以下24名がこの地で耳を削がれ、また鼻をそげと命じられた処刑の場所なのです。
 この地一帯は、少し道幅が広くなっていますが、堀川と加茂の小川の合流地で仕置場だったところだと思われます。
キリシタンたちにとっては、忘れることの出来ない、痛みの場所です。
 いま、そうした悲劇を想像することが出来ないほどに開けた場所になっていますけれども、実はこのキリシタンたちの処刑の地が、あの千利休の首をさらされた場所でもあります。
 大徳寺の山門に雪駄を履いた利休の像が置かれたため、下を通る秀吉が「俺を足蹴にするのか」と怒って、利休に切腹を命じたと言われていますが、その利休の木像が、この一条戻橋に十字架に掛けられて晒されました。
 それから数日、利休は切腹を命じられ、自ら太閤の前に謝罪をすることなく、潔く自分の生涯を果て、その首が木像の足下に晒されたのです。
茶道界にとっても、この地は嘆きの場所でもあります。
(『京のキリシタン史跡を巡る』杉野榮著 嶋崎賢児写真 三学出版 2007年)

都名所図会「一条戻橋 (戻橋)」には和泉式部の歌が書かれています。
 聚楽城(じゅらくじょう) 加藤清正邸跡伝承地(かとうきよまさていあとでんしょうち)

 当地は平安京の左京北辺二坊五町にあたります。
「蜻蛉日記(かげろうにっき)」の著者藤原道綱母(ふじわらみちつなのはは)が住まいし、のち武将源頼光(よりみつ)や道綱が引き継いだ一条邸跡とされます(中古京師内外地図)。
 付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地です。
応仁元年(1467)5月26日、東軍細川勝元(かつもと)方の京極持清(きょうごくもちきよ)は、この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め入り、一条大宮で戦いました。
そのため、当時この北方にあった革堂(こうどう<行願寺>)・百万遍(ひゃくまんべん<知恩寺>)・誓願寺(せいがんじ)などが焼亡しました(応仁記)。
以後洛中の寺社、貴族・武家邸(ぶけやしき)がまたたくまに被災し、古代・中世都市平安京は壊滅しました。
 羽柴(豊臣)政権期には、秀吉・秀次の聚楽城からみて東方にあたり、複数の大名屋敷が建設されました。
当地付近は、西隣地(にしりんち)「主計町(しゅけいちょう)」の地名によって加藤主計頭(かずえのかみ)清正邸跡と伝承されます。
尼崎本「洛中洛外図」には、正親町小路(おうぎまちこうじ<現中立売通>)と思われる道路(図の「一条戻橋」は誤りか)と堀川の交点東入ル北側に「加藤主計殿(かとうかずえどの)」とあり、その傍証といえます。
 徳川時代には、少なくとも文久3年(1863)以前筑前福岡黒田屋敷となりました。
 なお当地の向かいは、小出伊勢(こいでいせ)や上行寺(じょうぎょうじ)、ついで五摂家筆頭(ごせつけひっとう)の近衛家堀川邸(このえほりかわやしき)が建設されました。
 当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地でした。

 2018年6月
  特定非営利活動法人京都歴史地理同好会
       理事長
小さいから見つけられるかなと心配したけど通りをはさんで向かいにチョコンとありました。
小野小町双紙洗水遺跡」(フィールド・ミュージアム京都)

 草紙洗の水

 謡曲名所の一つで、小野小町が黒主の書入れした万葉集を「半挿に水を入れしろがね盥取出し」て「涙は袖にふりくれば、しのび草も乱るゝ忍び草も乱」れて洗い洗いて取上げれば、うれしや一字も残らず消えてしまったという。
そのときに用いたという伝説の水である。
 上京区一条通り堀川東入る北側の地にあり、清和水ともいい、ほぼ長方形の水溜りであった。
この水を使うと美人になるとて、京の街の人がもらいに来る風習があった。
いったん埋めて、また旧に復し、クロス会社の地面内(「縦覧謝絶」の札を掲げて人を入れなかった)になっていたが、同会社が祝融(しゅくゆう)の禍をこうむった後、幸い井戸だけは形を残した。
同所を小町屋敷といい、都名所図会巻一によると、傍に小町塔があったという。
(『改訂 京都民俗志』井上頼寿 東洋文庫129 1968年)

草紙洗(そうしあらい)」(the能.com)
一条通を歩いていくと中立売御門(「京都御苑案内図」環境省)
  車返桜(くるまがえしざくら) 

「車返桜」は、サトザクラの一品種の「御所御車(ごしょみくるま)返し」です。
花は八重咲きで、よく混同される「御車返し」は「桐ヶ谷(きりがや)」とも言われる別品種です。
車返桜は、後水尾(ごみずのお)天皇が外出された時に、あまりの美しさに御車を返され鑑賞されたことから、この名が付けられたとされています。

 参考文献:京都園藝第十七輯(しゅう)、京都園藝第四十一輯

桜の季節は過ぎましたが(^_-)
京都御苑 桜見どころ MAP」(環境省)
 清水谷家(しみずだにけ)の椋(むく) 

 この神々しい樹齢三百年の古木は、公家の清水谷家の邸宅の敷地内に数本あった椋の木のうちのひとつです。
清水谷家は有力貴族である西園寺(さいおんじ)家の分家であり、数多くの歌人や政治家を輩出しています。
江戸時代の清水谷実業(しみずだにさねなり)は当時を代表する歌人であり、新鮮で、時には遊び心さえも感じさせる歌風で知られています。
その和歌の弟子には、貴族階級の者のみならず上流庶民も数多く含まれていました。
こちらが彼が詠んだ和歌のひとつです。

  ながれゆく音ぞさびしき花鳥の
  春もとまらぬ庭のやり水
  (宝永仙洞着到<ほうえいせんとうちゃくとう>百首)
  (霊元院<れいげんいん>の仙洞御所で催された歌会で詠まれた和歌)
 1864年の禁門の変では、長州藩士、来島又兵衛(きじままたべえ)が遊撃隊を率いて奮戦しましたが、銃弾を受けて、この木の下で自決しました。
(案内板より)

 第三章 討幕強行
 御所蛤御門の激闘 


 8月18日の政変の結果、京都での立場を失った長州藩は、藩主父子と七卿の全精力を注ぐ。
 長州藩にすれば、これまで天皇の意志である攘夷のために働いてきたのだから、功はあっても、罪などないと考えている。
そこで、「奉勅始末」と題した弁明を使者に持たせ、京都に送り込むが、薩摩・会津藩に阻止され、うまくいかない。
 長州藩としては、今日の不遇はすべて薩摩・会津藩が謀ったからと考えている。
藩内の少壮血気の者のなかには、下駄の片方に「討薩」、もう片方に「会奸」と書き、踏み付けて歩く者もいた。
(『幕末歴史散歩 京阪神篇(書籍版)』一坂太郎 中公新書 2005年)
 そのうち、武力を背景に嘆願を遂げようとする進発派が勢いを持ち、京都になだれ込む。
時に元治元年(1864)7月19日、「禁門の変」とか「蛤御門(はまぐりごもん)の変」とか呼ばれる戦いである。
 長州藩は18日夜半から、各家老が率いる三手に分かれ、御所を目指して行動を開始した。
それは次のような奇襲作戦だった。

 …中略…

 以上の作戦は、三方すべての足並みが揃(そろ)わなければ成功しない。
ところが伏見勢は伏見街道で美濃大垣(おおがき)藩兵と激突して敗走する。
嵯峨勢の精鋭九百は唯一計画どおりに進んだが、御所を守る薩摩や会津の軍勢と蛤御門で激突して敗走した。
 この戦いで猛将とうたわれた遊撃軍を率いる来島又兵衛(きじままたべえ)は狙撃されて戦死、松陰門下の盟友だった久坂義助と寺嶋忠三郎は刺し違えて自決、入江九一(いりえくいち)は戦死、真木和泉や土佐脱藩の松山深蔵らは天王山(京都府乙訓郡大山崎町)まで逃れて自決するなど、長州藩尊攘派はその指導者の多くを失った。
 朝廷は御所に攻め込んだ長州藩に「朝敵」の烙印(らくいん)を押し、藩主父子の官位を奪った。
7月23日には幕府に対し、征長令を下す。
このようにして長州藩を叩く大義名分を得た幕府は、25日には江戸・京都・大坂の藩邸を没収した。
さらに7月24日、西国諸藩に長州征伐を命じる。
「第一次幕長戦争」だが、長州藩が恭順謝罪の意を示したため、不戦解兵で終わった。

 …後略…

(『幕末歴史散歩 京阪神篇(書籍版)』一坂太郎 中公新書 2005年)
清和院御門(苑内案内マップ)を出て歩いていくと

鴨さんが通院していた京都府立医科大学附属病院が見えてきます。

朝ドラ「風、薫る」(36)第8週「夕映え」で帝国医大病院長たちが
りんや直美、バーンズ先生たちの英語の会話を聞き取れなかったのは
森鷗外など東京医学校予科(後の東京大学)の留学先がドイツだったことが関係しているのかな?
でも、バーンズ先生のように分かっていながら黙っている人がいてるかも(^_-)
森 鴎外」(文京区立図書館)

道路を渡らずに右に曲がって
お昼を食べたいと思っていたお店。
順番を待っていると灯籠が目に入りました…

 …つづく…