日ざしが眩しい朝。
天気予報では、上空の寒気や湿った空気の影響で、雨や雷雨となる所があるようです。
昨日、父は、かかりつけの病院で帯状疱疹予防ワクチンを接種しました。
副反応として37.8度程の発熱がありました。
今朝は、36度と平熱になっていました。
母が亡くなった翌月、父は帯状疱疹を発症しました。
我慢強い父が「こんな痛みは今まで経験したことがない」と……。
「定期接種と自治体からの費用補助」(帯状疱疹予防.JP) 1本の茎に頭花が二つ咲いているタンポポ。
帯化(たいか)なのかな?
帯化について
「ケイトウという植物は何なのでしょうか?」(日本植物生理学会)
頭花ではありませんが、今朝のEテレ0655「仮説小学生」
「タンポポの茎、どうしてストローみたいにスカスカなっとんのか?」事件
解説編は、明日放送されます(^^)/
公園に行く途中にあるのが
「…宝篋印塔は、台座に北朝の年号で、康永三年(1344) 願主沙弥道延と銘が彫られた南北朝時代のもので、和泉式部供養塔と伝えられています」
和泉式部が生まれたのは天元元年(978年)頃だとする説があるので(没年不詳)
北朝の年号が書かれているのは(^_-)
「室町幕府の誕生」(小学6年)
和泉式部の伝説は、日本各地にあるそうです。
なお、先日訪ねた貴船で見た和泉式部の歌は、
『和泉式部集・和泉式部続集』(岩波文庫)には載っていません。 和泉式部歌のゆくえ
――宸翰(しんかん)本和泉式部集をめぐって
…前略…
ところで、この正続二集には見当たらないが、和泉式部の代表歌とされているものがある。
物思へば沢のほたるもわが身よりあくがれいづる魂(たま)かとぞみる
『後拾遺集』入集歌であるが、和泉の家集としては本書に採った『宸翰本和泉式部集』に初めてみえる。
正続二集が重出歌を加えて千五百余首にのぼるに対して、『宸翰本和泉式部集』はその一割にも満たない百五十首(和泉以外の歌五首を含む)を収めているにすぎないが、よく整頓され、後人の編集によるものか、と言われている。
その成立は早くとも『新古今集』成立後で、鎌倉期とされる。
その後、『松井本』その他の「和泉式部集」が多数編まれるが、『宸翰本和泉式部集』はその原点をなしたものである。
(『和泉式部日記 和泉式部集』野村精一校注 新潮社 昭和56年)「宸翰」とは、天皇の書いたもの、の意で、現在、後土御門天皇(1464~1500在位)の写したとされる本、および後醍醐天皇(1318~1339在位)の写したという本の転写本が一つ残されている。
本書は主として後者によった。
なお、最近では、この150首のうち前半80首ほどは、かなり早い時期に、もしかすると和泉自身がまとめておいたもので、後半は『新古今集』成立後に後人が補足したものだ、とする説が提出され、目下検討が進められている。
詞書や配列が勅撰集と深い関係にあることは、付録の「宸翰本所収歌対照表」によって明らかであろう。
因みに、54歌「忘れなむ……」は後代の『松井本』を除けば、この『宸翰本和泉式部集』にしか見られず、末尾の連歌は『松井本』にもない。
なお『松井本』とは、このグループの写本の中で最も善い本文をもつとされる静嘉堂本の旧蔵者松井簡治の名をとった通称であるが、15世紀末以降に、主として勅撰集に収められた和泉歌を編纂したものである。 ところで、「物思へば……」は、詞書といい歌の内容といい、これまた恋に部類されてもよいところなのだが、『後拾遺集』では神祇(じんぎ)の部に収められている。
これは撰者藤原道俊の判断によるのだろうが、「貴船明神」の返歌と組み合わされて、一種の歌徳説話(歌の功徳によって歌人が利益<りやく>を得るという形式の説話)的なものとなっている(「宸翰本所収歌対照表」参照)。
魂も身から離れてゆくほどの恋の苦悩を、「貴船明神」が「男」の声で慰藉(いしゃ)してくれた、というわけである。
神祇の部に収められていることは、『後拾遺集』では「貴船明神」の歌が録されたのであって、和泉の歌は従だった、ということであろうか。
更にいえば、この歌が入集する過程は、和泉側(サイド)からではなく、貴船側からのものであったかもしれない。
それが『正集』『続集』にこの歌を収載しない原因であろうか。
それはともかく、この「物思へば……」をめぐる状況は、実はその後の和泉式部歌のあり方を暗示するものとなっている。
すなわち説話化される和泉式部像である。
中世に入ると、その文明の核をなすといっていい説話・芸能の世界に、和泉式部はさまざまな形で登場してくるとともに、ほとんど彼女自身とは無関係と思われる歌が、彼女の作ということで流布されるようになる。
たとえば謡曲「貴布禰(きふね)」は、夫藤原保昌に捨てられた和泉が、貴船明神の霊験によって、復縁の機を得る、という話だが、その折の和泉の歌は、何故か「ちはやぶる神の見る目もいかならん身を思ふとて身をば捨てめや」である。
もちろんどの「和泉式部集」にもない歌であるが、謡曲作者の創作でもなさそうだ。
同趣の筋立てで多少卑猥な設定をも付け加えられた話が、中世の説話集の一つ『沙石集(しゃせきしゅう)』にも収められており、そこでも和泉の歌として「ちはやぶる神の見る目もはづかしや身を思ふとて身をや捨つるべき」とある。
もっとも、和泉の歌がいつのまにか他人の作となっている例(『古本説話集』第37話)も、説話の世界にはままあることなので、咎め立てすべきことでもないのだが、それだけに、話は思いもかけぬ方向へ拡がってゆく。 同じく謡曲に「法華竹(ほっけだけ)」(一名「歌薬師」)というのがあった。
これは、重病にかかった和泉が、「肥後肥前の境に」ある法華岳の薬師に祈願をこめ、「南無(なむ)薬師四十八願の願なれば身より仏の名こそ惜しけれ」と詠んだところ、本尊の薬師から「村雨は只一時(ただひととき)のものぞかしおのがみのかさここにぬぎおけ」との返歌の声があって、病が平癒した、という筋立てである。
これは先の貴船霊験譚と同様の歌徳説話であり、より現世利益的なものを含んでいる。
もっともこの話は近世初頭の咄本などでは、たとえば、場所は三河や日向、作者も小野小町や一休禅師だったり、時には歌句も異なったりするから、和泉式部に限られているわけではないが、それらでは病名は「瘡(かさ)」となっている。
「簔笠」から「身の瘡」になるわけである。
ここまでくると和泉式部は「瘡」を患っている、という形に付会され、柳田国男「和泉式部の足袋(たび)」「女性と民間伝承」などに紹介された日向法華嶽寺とその周辺の和泉伝承となる。
更にこの伝承を軸に、秋元松代氏の「かさぶた式部考」が書かれる。
そこでは、こうした土俗的な庶民の救済願望と、あえかな女人幻想をないまぜにして、現代の底辺の民衆の悲惨と怨念の世界が重たくくり拡げられている。
その美しい女主人公智修尼は何と「六十八代目和泉式部」なのである。
和泉式部は、庶民の幻像に一つとして、ここまで生きて、生き延びて来ていた……。 これら説話的世界の和泉式部は、まさに荒唐無稽というほかない。
その歌は、全く和泉式部とは無縁である、と学問的にはいわねばならない。
しかしながら、中世から近世を経て現代に至るまで、庶民の中に息づいてきた和泉式部とその歌の世界は、ただそう言ってすまされるべきものではない。
以上に述べてきた伝承は、歌徳説話を基底としているが、これは、和泉の歌のことばの持つ現実的な効験を前提としている。
木の葉よりも軽いことばしか持たぬ現代にとって、それは何という重たさか。
歌徳説話の担い手たちは、和泉がそのことばに託した苦悩の影を、確実によみとっていたのだ。
近代ロマン派が、和泉式部という女人を、自由奔放の個性の持主に仕立てて、きらびやかな愛の幻想をふりまいていたとき、地底にうごめく庶民たちは、読んだこともない古典世界の女人の苦しみを自らのものとして生き、かつそのことばの効力を信じつづけて来た。
それはおそらく、『和泉式部日記』の自作他作を問題にすることよりもはるかに重たい課題を、現代の読者に、われわれにつきつけているはずである。
(『和泉式部日記 和泉式部集』野村精一校注 新潮社 昭和56年)
文学座公演『かさぶた式部考』 「多少卑猥な設定をも付け加えられた話」ということで『沙石集』があげられていましたが
私には、現代語訳する能力がありませんので(^^ゞ
(二)諸宗ノ旨ヲ自得シタル事
…前略…
和泉式部、保昌(やすまさ)ニスサメラレテ、巫(カンナギ)ヲ語(カタ)ラヒテ、貴布禰(キフネ)ニテ敬愛(けいあい)ノ祭(マツリ)ヲセサセケルヲ、保昌聞(きき)テ、カノ社(ヤシロ)ノ木(キ)カゲニカクレテミケレバ、年(と)シタケタルミコ、赤(アカ)キ幣(ヘイ)ドモ立テメグラシテ、ヤウヤウ作法(サホウ)シテ後、ツゞミヲウチ、マエ(へ)ヲカキアゲテ、タゝキテ三度(サンド)メグリテ、「コレ體(てい)ニセサセ給ヘ」ト云(いふ)ニ、面(おもて)ウチアカメテ返事モセズ。
「何(いか)ニコレホドノ御大事思食立(おぼしめしたち)テ、今コレバカリニナリテ、カクハセサセ給ハヌゾ。サラバ又ナドカ思食(おぼしめし)タチケル」ト云(いふ)。
(『沙石集 日本古典文学大系 85』渡邊綱也校注 岩波書店 1966年)保政クセ事ミテンズト、ヲ(オ)カシク思フホドニ、良久(ややひさしく)思ヒ入(いり)タルケシキニテ、
チハヤフル神ノミルメモハヅカシヤ 身ヲ思(おもふ)トテ身ヲヤスツベキ
カク云(いひ)ケル事ノ體(テイ)、優(ユウ)ニ覺(ヲボ)ヘ(エ)ケレバ、「コレニ候」トテ、グシテ返(カヘリシ)、志(コゝロザシ)不レ淺(から)。
コレヲゾ、格ヲコエテ格ニアタレルスガタナレ。
若(もし)格ヲ堅ク執(しふ)シテ、マエ(へ)カキアゲテ、タゝキメグリタラマシカバ、ヤガテウトマレテ、本意モトゲジ。
…後略…
(『沙石集 日本古典文学大系 85』渡邊綱也校注 岩波書店 1966年)
和泉式部は巫に言われたことができませんでした。
もし、できていたら……










