2025年1月22日水曜日

曇ると…

初めは晴れて風もなかったので暖かい朝だなぁと思っていましたが
曇ってくると寒さを感じますね…
父は、かかりつけの内科を受診。
いつもなら月初めに通院するのですが、正月明けや連休明けを避けました。
看護師さんに聞くと、正月明けは、てんてこ舞いになるほど患者が多かったそうです。

インフルエンザ感染拡大 医療現場ひっ迫 119番通報相次ぐ」(NHK 1月20日)
聴覚障害の子の逸失利益 健常者と同じ基準と判断 大阪高裁」(関西NHK 1月20日)
人間味のある判決が出ましたね!
『労働能力に制限があるとはいえない』などとして健常者と同じように100%で算定する判断を示しました

ご両親にすれば金額の問題ではなく、娘が一人の人間として認められなかったことが口惜しかったのだと思います。
娘さんのために裁判を闘ったのだと思います。

聴覚障碍のある少女の裁判でしたが、障碍があっても活躍されている方はいくらでもおられます。
たとえば全盲でありながら日本科学未来館館長に就任されている浅川智恵子さん。
私たちは一人ひとりいろいろな可能性を秘めています。夢を持っていればその可能性をいかすチャンスはめぐってきます
NHKACADEMIAで2023年10月11日(前編)10月18日(後編)にお話をされていました。

そして小さな子どもの好奇心が大発見に繋がることがあります
「これ、なに?」3歳児が見つけたのは、実は八重山初記録のハチの繭だった〟(琉球大学 1月9日)
 〝皇居で新春恒例「歌会始」 お題は「夢」〟(NHK)

皇室に伝わる文化 歌会始」(宮内庁)

美智子さまの歌集(重版中)が出ました。
その中から永田和宏さんの解説の一部を転記します。

 解 説  永田和宏

 …前略…

 被災地に手向(たむ)くと摘みしかの日より水仙の香は悲しみを呼ぶ  平成9年
(『歌集 ゆふすげ』美智子 岩波書店 2024年)
 平成7年1月17日早朝、京阪神を襲った阪神・淡路大震災では、その二週間後に両陛下が被災地を訪問されました。
神戸市長田区の菅原市場と呼ばれた一画も、ほぼ焼失していましたが、そちらに向かって深く長く頭を下げられ、そのあと美智子さまは、その朝皇居で手ずから摘まれた水仙を、菅原市場の前の瓦礫の上に手向けられました。
これは後に復興のシンボルともなりましたが、水仙は十七本。
この数には、震災の記憶を風化させてはならないとの思いがあったに違いありません。
 2年後の平成9年に、その時を思ってお詠みになったのがこの一首です。
被災地に十七本の水仙を手向けてより、水仙の香を感じるたびに、あの震災の日の驚きと憂い、被災地訪問の日の悲しみが新たによみがえってくるというのです。
水仙の香に出会うたびに悲しみがよみがえると詠われる背景には、私たちはこの災害を、そして不幸にして犠牲になられた方々を決して忘れてはならないという強いメッセージが含まれているのでしょう。
 困難な状況にある人々に常に「寄り添う」こと、そして、大きな災害や戦争の悲劇を国民と共有し、それらを決して風化させない、「忘れない」ということ、この二つのメッセージは、平成の両陛下が象徴とは何かを突き詰めて考えてこられたなかで、もっとも大切にしてこられた姿勢であると私は考えております(拙著『象徴のうた』角川新書)。
先にあげた一首もまた、端的にそのことを示した作品であると思います。
 帰り得ぬ故郷(ふるさと)を持つ人らありて何もて復興と云ふやを知らず  平成26年

 この一首は、平成23年の東日本大震災の被災者を詠ったものでしょう。
被災後、二年、三年を経ると、新聞やテレビ、政府もできるだけ「復興」という言葉を使って、被災地がその打撃から順調な回復を遂げていることを強調するようになります。
人々を元気づけるために必要な姿勢でありますが、美智子さまのこの一首は、そのような「復興」という言葉の安易な使用に対して、鋭く警鐘を鳴らすものともなっています。
原発事故の影響も含めて、故郷に帰ることのできないこれだけ多くの人がいるなかで、何をもって「復興」と言えるのだろうかと、強い疑問を呈しているのがこの一首なのです。

 …後略…

(『歌集 ゆふすげ』美智子 岩波書店 2024年)
 「安克昌先生を悼む  中井久夫」つづき 

 きみと旅行したウィーン、ブダペストをなつかしむ。
あれは1992年の初夏だった。
あの旅はふしぎな魅力があった。
そして夫人へのきみのこまやかないつくしみと心くばりがよくわかった。
 ふだん、きみの貴重な家族との時間の多くを奪ったのは私だった。
きみは医局長として、私に人事の哲学を知っていたから、一人一人にできるだけチャンスを与え、希望をかなえようとして命をけずる思いをした。
それは私の考えに共鳴してくれるところがあったからにちがいない。
しかし、きみの肩を異常に凝らせていたのは私の咎である。
そして、きみの著書の序文を「若さと果断沈着さとに一抹の羨望を感じる」と終えた私が、その後五年ならずして、老いの身できみを送る言葉を書くということになろうとは。
孔子さまではないが、天われをほろぼせりといわずして何といおうか。
(『心の傷を癒すということ』安克昌 作品社 1996年)
 きみは切に生きたかったちがいない。
いや敢えて生きようとしていた。
私への手紙には、自然治癒率五〇〇分の一だそうですが、それでも医者にいわれたより希望を持たせる数字です、とあった。
きみはその五〇〇分の一に賭けた。
 それはただ生きのびることではなかった。
きみは二カ月前まで日本でももっとも難しい患者を診察していた。
おそろしい気力であり、臨床魂である。
私はついにきみに及ばない。
一カ月前には指定医資格更新のために敢えて東京行きをした。
それはきみが生きるだけでなく、前進を続けようとする意志であった。
 11月中旬、君は「六カ月の闘病にいささか疲れました」と書いてきた。
その時の腹水はすでに六リットルになんなんとしていた。
20日に二リットルを抜いて、きみはお母様に希望して好物の巻寿司を驚く程たくさん食べた。
そして「明日は食べられるとは限らないから」と言った。
 しかし、22日、私が田中究君とともに会った時、きみにはなお生きる意志があった。
子どもの名前を考えているところです、ときみは語った。
きみの意識は明晰だった。
むしろその数日は冴えて困ると言ったと聞く。
 専門家は一カ月の意識混濁を予言していた。
私が最後の別れと思わなかったのはそのためだった。
きみの頭脳は混濁を寄せ付けなかった。
だからこそ、きみの秋実さんは二日とはいえ、きみとこの世の時間を共にすることができた。
それは何とかけがえのない父親の贈り物であろうか。
 きみの死におもむく時、私は、いつになく夜中の二時半にめざめた。
五時をすぎて、急に私の身体の力が抜け、死んだように深く眠った。
一時間後、田中究君からの電話が鳴って訃報を知らせた。
 病院にかけつけてお母様と相擁した。
涙を払ったお母様は、開口一番「素敵でしたよ」と仰った。
「あんな素敵な死は見たことがありません」と。
 二日間の意識混濁ののち、きみは全身体をつっぱらせて全身の力をあつめた。
血圧は170に達したという。
そして、何かを語ってから、「行くで、行くで、行くで、行くで」と数十回繰り返して、毅然として、再びは還らぬブラックホールの中に歩み行った。
きみの死に方は素敵だった。
きみが好んだことばのようにワンダフルだった。
しかし、きみの人生はもっとワンダフルだった。
 きみは秋の最後の名残とともに去った。
生まれかわりのように生まれた子に秋の美しさを讃える秋実の名を残して。
 その国の友なる詩人は私に告げた。
この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凜然たる秋〝カウル〟であると。
その空は、秋には冴え返って深く青く凜として透明であるという。
きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。
少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。
 改めてきみをなつかしむ。
 きみは青く深い天〝ハヌル〟に去った。
しかし、はたして去ったのか。
きみは私たちの間にとどまりつづけもする。
私たちの生命ある限り、きみの俤も、ことばも何気ないしくさも、きみの残した希望も恨みも。
 精神科医は今、単純に安らかにお休みくださいといえず、おのれも安らかに眠ることができない。
精神医学で喪の作業といい、この列島では成仏といい、かの半島では恨(ハン)を解くというのであろう仕事がこれから始まるのを知っている。
その時まで、きみにさようならをいうのを待っていてくれたまえ。
 2000年12月2日

*2000年12月4日、安克昌告別式で、葬儀委員長として述べられた追悼の辞。『精神科治療学』(星和書店、第16巻第5号、2001年)に掲載され、『時のしずく』(みすず書房、2004年)に収録された。
(『新増補版 心の傷を癒すということ 大災害と心のケア』安克昌 作品社 1996年)

本を見ながら転記していますので、間違いがあると思います。
ぜひ、原本をご覧下さい。