2025年1月19日日曜日

暖かい朝

明日は、二十四節気の「大寒」ですが、
今朝は、風もなく日ざしが暖かったです。
今朝のニュースを見ていて初めて知ったと父と話していました。
三十三間堂の弓の引き初めは、二十歳の若者たちでしたが
こちらは、高校生が弓を引いていました。
どちらも弓を引く立ち姿が凜々しいです。

潮岬で広大な芝生を焼いて春を呼ぶ“火祭り” 串本町」(和歌山NHK)
追悼
  一条の光として 信田さよ子

 1995年1月17日、関西であの未曾有の震災が起きた日の午後、私はちょうど郊外の精神科病院で定期的に開催される事例検討会のスーパービジョンの講師として参加していた。
参加者全員が、神戸の地震に打ちのめされているような重苦しい雰囲気のまま会は終了した。
JRの駅まで送ってもらう車のラジオから、臨時ニュースが流れていた。
夕闇が迫る多摩川を眺めながら、震災の被害の全貌が見当もつかない中で、運転する精神科医も私も押し黙ったままだった。
もうすぐ駅に着こうかというころ、突然彼がしっかりとした口調で言った。
「きっと中井先生がこの地震のことを書いてくださる」
(『中井久夫 <増補新版>』河出書房新社編集部編 2022年)
 なんと返答すればいいのか、一瞬言葉に詰まったが、おそらくその精神科医はこう考えていたのだろう。
 巨大な震災が起きた地である神戸には、中井久夫が存在している。
崩壊、瓦礫、火災がどれほど悲惨なものであろうと、中井久夫の知性はそこからの出口を、一条の光のように示してくれるはずだ。
その言葉を待ち、信じることがかろうじてこの悲惨な状況を私たちは生きられる、と。
 精神科医に限らず、彼のように考えた人は多かったのではないか。
それにこたえるように、震災後に一冊の本が出版された。
心的外傷と回復』(ジュディス・L・ハーマン、中井久夫訳、1996、みすず書房)の訳者としてのあとがきで、中井はこう述べる。
震災後の神戸で今こそこの本を訳さなければならないと思った、それからはバス停でバスを待つ間にも、寝食を惜しんでこの本を訳すのに専念したと。

…中略…
 最後に治療者としての中井を彷彿とさせるエピソードを述べよう。
「僕、神戸大附属病院にも二回ほど入院したんです、そのときの主治医が中井先生だったんですよね。教授回診のときに先生から何か困っていることはあるかと聞かれて、夜眠れないんですって言ってみたんです。もちろん睡眠薬出してもらうためだけど。そしたら中井先生はう~んってちょっと考えて、こう言ったんです。『薬は飲まないほうがいいね、そのかわり、ミルクを温めたものを飲んでください。』って」
「不思議なことに、その晩看護師さんに温めてもらった牛乳飲んだら、夜ぐっすり眠れたんですね。今思ってもなんで眠れたのかわからないんですけど」
 (のぶた・さよこ=公認心理師/臨床心理士)
(『中井久夫 <増補新版>』河出書房新社編集部編 2022年)
2000年12月4日、安克昌告別式で、葬儀委員長として述べられた追悼の辞を転記します。

 増補第II部 安克昌と本書に寄せて
  安克昌先生を悼む 
 中井久夫

 安克昌先生は、2000年12月2日、四〇歳に四日を残してその短き生涯を閉じられた。
その恨みを恨みとし、その思いを同じくする人々が今ここに集まっておられる。
不肖、私、葬儀委員長として、皆様とともに愛惜、追慕の念を、まず、ご遺族にささげたいと申し上げます。
(『新増補版 心の傷を癒すということ 大災害と心のケア』安克昌 作品社 2020年)
 安君と、よばせていただく。
 きみは今死にたくなかったはずだ。
切に死にたくなかったろうと思う。
きみの仕事は花開きつつあったではないか。
すでにきみはきみらしい業績を挙げていたけれど、それはさかんな春を予告する序曲だった。
あたかも精神医学は二〇年の硬直を脱して新しい進歩と総合とを再開しようとしているではないか。
きみは、それを、さらにその先をみとおしていたではないか。
きみはそれを私たちに示さずに逝く。
 さらにそれにふさわしく、きみは新しい職場に迎えられ、足どり軽く出勤しはじめていたではないか。
職場の人たちはきみを心から喜び、きみの医学を理解する人たちであって、わずかな月日をともにすごしたのに、もう何年もいっしょに働いたような気がすると語っている。
きみはその人たちに、充実した臨床の時を与えるいとまもなくして逝く。
 さらに、多くの患者はきみに支えられ、きみを命として生きていた。
真実、多くの患者はきみに会って初めて本当の医者に会ったという。
誰にもまして、きみの死を嘆き悲しむのは彼ら彼女らにちがいない。
 精神科医の真の栄光は、もとより印刷物や肩書きにあるのではない。
その栄光の真の墓碑銘は患者とともに過ごした時間の中にある。
それは過ぎゆくものかもしれないが、それは石よりも確実であり、石よりも永続するかもしれず、きみの墓碑銘はまちがいなく、かけがえのない素晴らしい質のものである。
 精神医学にもっとも早く捉えられた人で、きみはあった。
精神医学にはじめて出会った時をきみは水面を踊る魚のようだと表現している。
学生時代、私の講義は、それをもとにした有名な「安ノート」に化けて、次の、次の次の学年にまで及んでいた。
そして神戸大学精神科も、きみにただちに新しい希望の星を認めた。
そしてきみのまわりにつどう人もはるかに仰ぎみる人もきみの人柄を愛した。
そしてきみは若くして多くの知己を国の内外に持った。
私は遠方の地できみはどうしていますかとたずねられた。
神戸大学精神科は多くをきみの名に負っている。
 1995年1月、阪神淡路大震災にあたって、いち早く立ち上がり、救援に乗り出し、そのネットワークをつくった、その一人できみはある。
それは、この国の精神医学に新しいインパクを与えた。
それはきみが心の傷についてかねて研究し臨床体験を重ねていたからこそであった。
きみの報告『心の傷を癒すということ』にはそれだけでなく、きみの臨床哲学が、きみのやさしさが、もろに現れている。
それが1996年のサントリー学芸賞に輝いたのも当然であったが、それは最初の前触れであったはずだ。
 乞われて序文を書いた私は「安克昌はナイスな青年であり、センスのある精神科医であり、それ以上の何かである」と書き始めた。
たしかにきみはナイスであり、センスのよいプロであったけれど、さらにそれ以上の何かだった。

 …つづく…

(『新増補版 心の傷を癒すということ 大災害と心のケア』安克昌 作品社 1996年)