2023年4月27日木曜日

目まぐるしくかわるなぁ…

昨日、駐車場まできたけど雨風が強いので引き返しました。
今朝は、青空!
最近の天気は目まぐるしく変わるからか、ソメイヨシノが咲いていました。
寒暖差が大きいので「春バテ」になる人が多いとか…
昔から「五月病」はよく言われていたけど…

寒暖差大きい4月、何を着て行けば…“春バテ”も」(NHK 4月26日)
シリーズ宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる (1)「法華経」との出会い
今月から月1回のシリーズで6回続きます(土曜日午後1時から再放送)。
番組とテキストの両方楽しんでいます。

第1回 「法華経」との出会い
 5 賢治が読んだ「赤い法華経」


 賢治が読んだ法華経の本は、島地大等(しまじだいとう)が編纂(へんさん)した『漢和対照(かんわたいしょう)妙法蓮華経』です。
大正3(1914)年8月28日、初版が東京の明治書院から発行されました。
この経本は、和装本のほか、装丁(そうてい)が異なるものも存在していますが、賢治の所持した経本は赤い表紙の法華経で、「赤い経巻(きょうがん)」と呼ばれています。
 背表紙には、「漢和対照妙法蓮華経」と印字されていますが、表紙には、不思議な文字が横書きで書かれています。
サンスクリットの「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」(妙法蓮華経)です。
その下には、お釈迦様を象徴する法輪(ほうりん)に供養(くよう)を捧げる図が描かれています。
…後略…
(『宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる』北川前肇 NHK出版 2023年)
 7 明治期の仏教改革という潮流

 明治期は、島地大等のほかにも、仏教の改革を試みる僧侶が各宗派にいました。
伝統的な仏教教団はいったん解体し、教義として「お釈迦様の教え」の原点に帰ろうとする運動が、当時の日本仏教に広まっていたのです。
 その背景には、明治政府による「神道(しんとう)国教化政策」という仏教界の危機がありました。
幕末から明治にかけて、西洋化の波が押し寄せた日本では、教育や政治、思想などが、あらゆる面で改革を迫られると同時に、国家としてのアイデンティティが問われていました。
そんななか、為政者(いせいしゃ)たちは、日本の宗教を神道に統一しようとしました。
この政策により、仏教寺院の建物や仏像、仏具などを破壊する「廃仏毀釈運動(はいぶつきしゃくうんどう)」が起きたのです。
 このとき、浄土真宗本願寺派の僧侶たちは、神道国教化に抵抗し、信教の自由や政教分離を政府に訴えました。
活動の中心にいたのが、島地大等の義父・島地黙雷(もくらい)です。
黙雷の尽力により、神道国教化は立ち消えました。
 黙雷と大等は、地元盛岡の人たちに仏教教理や社会問題、哲学的・文学的課題を伝達することを目的とし、明治41(1908)年8月より、盛岡仏教夏期講習会を開講していました。
賢治は、盛岡中学時代から高等農林時代にわたって、この講習会に出席しているのです。
 いっぽう、花巻の大沢温泉でも夏期講習会が開かれていたのは、先に触れたとおりです。
この講習会には、浄土真宗の僧侶である楠(和田)竜造(りゅうぞう)、近角常観(ちかずみじょうかん)や、多田鼎(ただかなえ)などの高名な仏教者が、講演に訪れていました。
 岩手県を含む東北地方は、江戸時代からたびたび飢饉(ききん)に見舞われ、明治時代になってもそれは同様でした。
盛岡や花巻などの岩手県の多くの寺院には、餓死者の供養塔があり、いかにも過酷な時代であったかを今に伝えています。
 そんな東北の人々の窮状(きゅうじょう)に対して、国や県の積極的支援も見られますが、仏教界においては、浄土真宗の僧侶たちが手を差し伸べたのです。
「苦しんでいる人々を救おう」という、仏教の原点回帰運動の一環です。
 たとえば、明治35(1902)年9月、岩手県が大暴風雨に襲われ、米の収穫量が例年の半分ほどに落ち込んだときのこと。
暁烏敏(1877~1954)の日記によれば、翌年4月1日、東京で親鸞聖人の降誕会(ごうたんえ)が営まれた折、東北飢饉の義捐金(ぎえんきん)が募(つの)られ、慰問(いもん)の代表として暁烏が1週間余り東北を歴訪することになりました。
このとき、暁烏と東北の人たちとの仏縁が結ばれることになり、高橋勘太郎(たかはしかんたろう)との出会いも生まれたのです。
 10 法華経のどこに惹かれたのか

 先に述べたように、明治初期の廃仏毀釈運動で日本の仏教界は危機を迎えました。
しかし、実は江戸時代から、仏教は幕府の宗教統制による檀家(だんか)制度のもと、儀礼中心の「形式仏教」に成り下がっていました。
弾圧される前から、既成の仏教教団は形骸化(けいがいか)して、民衆の信心(しんじん)を失うという危機に陥(おちい)っていたのです。
 そこで、既成教団の僧侶の一部が、旧来の仏教から脱却すべく、お釈迦様の教えに帰り、人々の苦しみと向き合う活動を始めました。
「人々の苦しみと向き合う」というのは、法華経と天台教学の根幹です。
賢治は、法華経のそういう部分に心打たれたのだと思います。
 賢治は法華経に出会う以前、幼い頃からずっと阿弥陀信仰に親しんで念仏を唱えてきました。
16歳のときには、父への手紙に「歎異抄(たんにしょう)の第一頁を以(もっ)て小生(しょうせい)の全信仰と致し候(そうろう)」(前掲『全集』15巻)と記すほどでした。
『歎異抄』は、浄土真宗の開祖・親鸞の語録です。
冒頭には、「阿弥陀仏にすべてをおまかせする」という浄土真宗の根本思想が書かれています。
その部分を「私の全信仰とする」と言うほど、少年・賢治は親鸞の思想に共鳴していました。
 そもそも、『漢和対照妙法蓮華経』の編著者である島地大等は浄土真宗の僧侶であり、賢治がこの本と出会ったのちも、願教寺(がんきょうじ)の島地大等の講話を聞きに行っていました。
 では、なぜ賢治は『漢和対照妙法蓮華経』との出会いののち、念仏信仰から題目信仰へと転向したのでしょうか。
そして、なぜ賢治は父に対して改宗を求め、口論までしたのでしょうか。
そこには、宗教的な問題だけではない「父との確執」が関わっているようです。
これについては、第2回でたずねてみましょう。
(『宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる』北川前肇 NHK出版 2023年)
今朝の父の一枚です(^^)/
母がこの花を見るたびに会社の同僚との会話を楽しそうに話していました。
「シラン」ではなく、「知らんけど」が全国的に知名度を上げたみたいですが…

シランの花のつくり
 ラン科の花の仕組み


 ランの花のつくりは独特です。
6枚の花びらのうち、下側の1枚は「唇弁(しんべん)」といって種類ごとに特殊な形をしています。
花によって花粉の運び手も異なり、それが花の色や形に反映されているのです。
例えば花が白く長い距(きょ<管状の突起>)に蜜をためているランは夜行性の蛾をターゲットとしています。
シランのパートナーはハナバチです。
一方、色が地味で形が複雑なランの花は虫をだまして花粉を運ばせていると考えてほぼ間違いありません。
実際、雌のハチに擬態して雄のハチに花粉を運ばせる花もあるのです。
(『道草ワンダーランド まちなか植物はこうして生きている』多田多恵子 NHK出版 2023年)