ボタンが咲き出したなと思っていたら
1時間ほどして帰るときに見たら黄色い蕊が顔を出していました。
明日は、雨の予報で気温も20度を切るみたいです…4月11日 昭和63年(1988) 坂本龍一、映画「ラストエンペラー」で日本人で初めてアカデミー賞オリジナル作曲賞受賞。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
「坂本龍一 音楽家」(NHKアーカイブス)
「高橋幸宏 音楽家」(NHKアーカイブス) 小川未明の作品は「野ばら」と「赤いろうそくと人魚」しか知らなかったのですが
先日紹介した「幾年もたった後」を読んで
大正時代にもう認知症に対してこんな見方をしていたのだと驚きました。
そして一番好きだなと思ったのが 牛 女
ある村に、背の高い、大きな女がありました。
あまり大きいので、くびを垂れて歩きました。
その女は、おしでありました。
性質は、いたってやさしく、涙もろくて、よく、一人の子供をかわいがりました。
(『小川未明童話集』桑原三郎編 岩波文庫 1996年) 女は、いつも黒いような着物をきていました。
ただ子供と二人ぎりでありました。
まだ年のいかない子供の手を引いて、道を歩いているのを、村の人はよく見たのであります。
そして、大女でやさしいところから、だれがいったものか「牛女(うしおんな)」と名づけたのであります。 村の子供らは、この女が通ると、「牛女」が通ったといって、珍しいものでも見るように、みんなして、後ろについていって、いろいろなことをいいはやしましたけれど、女はおしで、耳が聞こえませんから、黙って、いつものように下を向いて、のそりのそりと歩いてゆくようすが、いかにもかわいそうであったのであります。 牛女は、自分の子供をかわいがることは、一通りでありませんでした。
自分が不具者だということも、子供が、不具者の子だから、みんなにばかにされるのだろうということも、父親がないから、ほかにだれも子供を育ててくれるものがないということも、よく知っていました。
それですから、いっそう子供に対して不憫(ふびん)がましたとみえて、子供をかわいがったのであります。
子供は男の子で、母親を慕(した)いました。
そして、母親のゆくところへは、どこへでもついてゆきました。 牛女は、大女で、力も、またほかの人たちよりは、幾倍もありましたうえに、性質が、やさしくあったから、人々は、牛女に力仕事を頼みました。
たきぎをしょったり、石を運んだり、また、荷物をかつがしたり、いろいろなことを頼みました。
牛女は、よく働きました。
そして、その金で二人は、その日、その日を暮らしていました。 こんなに大きくて、力の強い牛女も、病気になりました。
どんなものでも、病気にかからないものはないでありましょう。
しかも、牛女の病気は、なかなか重かったでありります。
そして働くこともできなくなりました。 牛女は、自分は死ぬのではないかと思いました。
もし、自分が死ぬようなことがあったなら、子供をだれが見てくれようと思いました。
そう思うと、たとえ死んでも死にきれない。
自分の霊魂(たましい)は、なにかに化けてきても、きっと、子供の行く末を見守ろうと思いました。
牛女の大きなやさしい目の中から、大粒の涙が、ぽとりぽとりと流れたのであります。
…つづく…
(『小川未明童話集』桑原三郎編 岩波文庫 1996年)
今朝の父の一枚です(^^)/
昨日は母の七回忌でした。
住職さんにお聞きすると、家族葬だったのが
だんだんと親戚や仲間を招いての葬儀を行うことが増えたそうです。
コロナの感染が始まった頃は、感染するとお骨になってから帰ってきました。
コロナの感染が始まった頃は、感染するとお骨になってから帰ってきました。
(ホームで集団感染した叔母も見舞うことができぬまま遺骨で帰ってきました)
次に納体袋で帰ってくるようになり、
次に納体袋で帰ってくるようになり、
次第に納体袋の顔の所が見えるようになったそうです。
葬儀も家族葬から親戚や友人、会社の仲間を招くことが増えてきたみたいです。
母が旅立つときは、父と妹の三人で母の手をさすったりしながらお別れできましたが、
コロナ禍で直接見舞うことができぬまに旅立つことを余儀なくされている。
葬儀も家族葬から親戚や友人、会社の仲間を招くことが増えてきたみたいです。
母が旅立つときは、父と妹の三人で母の手をさすったりしながらお別れできましたが、
コロナ禍で直接見舞うことができぬまに旅立つことを余儀なくされている。