2023年4月22日土曜日

ひんやりとした風が吹いて

自転車で公園に向っていると冷たい風
歩いているときも草花を写そうとすると風でゆれるので困りました。
みかんの花が咲くのはもうじきかな?
 よく見れば薺(なづな)花さく垣ねかな (続虚栗)

『蕉翁句集』に貞享4年とする。
 芭蕉庵の即事と見るべき作品で、トリヴィアルなものの発見の喜びである。
草庵の垣根に目立たぬ花をつけている薺(三味線・ぺんぺん草)の発見に、日常生活からの瞬間的な解放の安らぎを感じ取っているのだ。
「よく見れば」に、詩人のウィットが働いている。
蕪村の「妹(いも)が垣根三味線草の花咲きぬ」と較べると、両者の感性の質の相違が分るだろう。
(『芭蕉全発句』山本健吉 講談社学術文庫 2012年)
 よくみれば薺花(なづなはな)さく垣(かき)ねかな

季語「薺」春 貞享3年(1683)
続虚栗(頭陀袋・蕉翁句集・花声集)
ふと垣根を見ると、薺が白く小さな花をつけていた。
一見、即興吟に見えるものの、万物みなその所を得て自得していることの主張。
(『袖珍版 芭蕉全句』堀信夫監修 小学館 2004年)
蕪村の句も好きなので

  琴心挑美人(琴心モテ美人
(いも)が垣根さみせん草の花咲(さき)

恋しい人の垣根には三味線草(ぺんぺんぐさ<薺>)の白い花が風に揺れている。
出てこないかなあ。

琴心挑美人 司馬相如(しばしょうじょ)が富豪卓王孫の娘文君に琴をひいて誘いをかけた故事(『漢書』・『史記』)
「琴心」を「三味線草」(子供が実を擦り合わせて鳴らす)に転じた俳諧。
農村少年の素朴な恋の回想句。
「卯の花や妹(いも)が垣根のはこべ草」(落日庵)は初案か。
ともに「むかし見し妹が垣根は荒れにけりつばなまじりの菫(すみれ)のみして」(「堀川百首」)に拠(よ)る。
『徒然草』26段参照。
(『與謝蕪村集 新潮日本古典集成』清水孝之校注  新潮社 昭和54年)
「金肥(きんぴ)」について

 屎尿のゆくえ

 屎尿(しにょう)処理は都市にとって大きな問題であった。
それは大都市になればなるほどむずかしくなる。
人間生活の基本に属することであるが、その始末はどの都市も苦しんだ。
ヨーロッパの都市では、ながらく便所もなく、垂れながしとなっていたから、都市の道路はあまりきれいなものではなかった。
そのため水道の汚染がおこり疫病の流行がみられたことは知られている。
ヨーロッパはそれでも地中海に近い諸国を除けば、がいして高緯度にあって、気温も低かったから、疫病の流行は比較的少ない条件にあった。
(『近世大坂の町と人』脇田修 吉川弘文館 2015年)
 これにたいして日本は暖かい地域が多く、ことに夏の高温・多湿は疫病の温床ともいうべきものであった。
日本の夏祭が疫病よけの祈りをこめておこなわれたことはそのためであるが、このような風土のなかで、屎尿が肥料として使われ都市から農村へ送られていったのは、都市での衛生維持にどれほど大きな意味をもったか知れない。
 太平洋戦争前には、大阪の町々へ百姓さんが屎尿の汲み取りにやってきていた。
ちょっとした野菜をおいていくこともあったようである。
このような屎尿処理は近世からおこなわれていた。
この近世の屎尿処理ついては、歴史家の小林茂さんがすぐれた研究をされている。
 17世紀なかばに、大坂周辺が日本有数の商品生産地帯にするとともに、干鰯(ほしか)・油粕(あぶらかす)などが肥料として使われ、それを農家は購入したから金肥とよび、屎尿もまた金肥であった。
もともと屎尿は町々と農村との取引になっていたが、急掃除人という町方下尿仲間ができて、専門の汲取業者ができたりした。
しかし百姓側の要求で、しだいに百姓の汲み取りが中心になってきた。
1772年(明和9)摂津・河内314カ村などによる在方下尿仲間が成立し、1790年(寛政2)には急掃除人104人は廃業したのである。
そのさい村ごとに各町をわりあてられ、たとえば吹田村は日本橋二丁目と五丁目が汲み取り場所となっていた。
 汲み取りはその村の権利となったらしく、1854年(嘉永7)加島村の九右衛門が、下新田村下尿仲間から、幸町四丁目塩見橋筋西側、播磨屋万次郎掛け屋敷と、幸町五丁目裏側、木地屋清兵衛他2名を下尿箇所として譲り請けている。
4軒の下尿の汲み取り権を手に入れたのである。
この場合、その汲み取り権が名義人一軒の分か、長屋全部にわたるかはわからない。
長屋では家主が下尿を売ったのであった。
このように町内の一軒ごとに汲み取り人がきまっており、その場所が権利として譲渡された。
それが金銭による売買であったことはもちろんである。
 汲み取り料もいくつかわかっている。
1799年(寛政11)には肥一荷について銀一匁四、五分といわれており、1838年(天保9)には大坂町奉行のお達しで、一人前銀二匁五分を基準とするよう指示している。
これを町人がはらうのではなく、百姓がはらったのである。
 小便の場合も、おなじように百姓の仲間ができた。
1833年(天保4)には摂津・河内163カ村とその余分を買い取る190カ村の組織ができていた。
また辻々に公衆便所としての小便桶がおかれ、それは渡辺村が市内の火消し役をつとめたかわりに、管理をまかされ、百姓仲間に売ることができた。
 いずれにせよ、屎尿に値段がついて売られたのは、現代社会では考えられないことである。
ただ、市外を歩くと、いたるところにあった野壺から発する臭気に悩まされた。
私も子供のころの記憶が残っている。
幕末・明治に来日したヨーロッパ人は、国内を旅行して、気持ちの良い田園風景と対照的なその臭気を、いちように印象として書きのこしている。
しかしそれは自然の再生産にもかなっており、都市衛生の面ではかりしれない効果をもったのであった。
(『近世大坂の町と人』脇田修 吉川弘文館 2015年)

私の子どもの頃は、野壺がありました(「肥溜め」と言っていたかな?)。
「ど壺にはまる」は、野壺と関係があるという説があるみたいですね(^_-)-☆