2023年4月25日火曜日

季節は今…

雨が降っていたこともあってか3月のような気温…
ついこの間、7月並みの気温だったのに…
最近、マクロレンズで草花を写しているので下ばかり見ているような…
フッと顔を上げるとミズキの花が咲いていました。
100分de名著「“新約聖書 福音書” (4)弱き者たちとともに
若松英輔さんが
「(サマリア人は)いわれなき差別をず~っと、かみしめてきた人
だからこそ、困ってる人というのを決して見過ごすことがないということですね。」
……
「イエスは、人間の考える信仰心よりも
良心の方が神の道に近い」
……
「私たちが 何か その 自分たちと遠い人は自分たちに危害を及ぼすというふうに
どこかで思い込んでるところがあるんじゃないんでしょうか。」

など、心に響く話をされていました。
キリストは、ユダヤ教の律法への挑戦者(反逆者)だったと言えますね。
ボナエ・リテラエ―私の読書遍歴
 連載第5回『ヘーゲル批判』
 森本あんり(東京女子大学長)

…前略…

 反逆としての宗教

 もともと宗教には、どこか反社会的なところがある。
ある宗教が特定の文化や社会に土着化して大衆化に成功する過程では、そういう先鋭な角が取れて少しずつ丸くなってゆくものだが、本来は人間社会の常識や既存の社会体制をラディカルに否定する要素をどこかにもっているはずである。
釈迦もイエスもムハマンドも、当時の権威に対する激越な批判と転覆を説くことで活動を始めている。
現世とは別の価値や秩序を指し示すのが宗教なのだから、牙を抜かれた「安全な宗教」なんて、そもそも存在価値もないし、魅力もないに決まっている。
(『世界 2023年4月号』岩波書店)
 とまあ、今のわたしにも当時の毒気がいくぶんか残っているような気がする。
わたしにとって、キリスト教の信仰をもつということは、社会への反逆であり、世間への挑戦であった。
仮にもし、周りがキリスト教徒ばかりの社会に生まれ落ちていたなら、わたしは間違いなく筋金入りの仏教徒か無神論者かになっていただろう。
 大学も同じである。
国際基督教大学は、もしアメリカかどこかにあったらなら、キリスト教の大学であることに何の意味もなかっただろう。
「基督教」などという言葉を臆面もなく冠した大学である。
批判的な知の拠点であるべき大学に、そんな宗教色はふさわしくない――そう思われるのが当然の日本社会にあってこそ、この大学の挑戦があり、存在意義がある。
 使徒パウロは、新約聖書「ローマ人への手紙」の冒頭で「わたしは福音を恥としない」と書いている(1章16節)。
ということは、さすがのパウロも最初はちょっと恥ずかしかったのに相違ない。
何せ知的にも宗教的にも、当代最高の権威を身にまとっていたパウロである。
そうであるからこそ、そしてキリスト教徒とみれば誰彼かまわず引っ捕えて牢屋にぶち込んでいた反キリスト教の闘士パウロだったからこそ、その言葉には千金の価値があるのだ。
わたしの言葉で言えば、イエスもパウロも、徹底した反知性主義者である。
…後略…
(『世界 2023年4月号』岩波書店)
ボナエ・リテラエ──私の読書遍歴
 連載…第6回『ドストエーフスキー覚書』
 森本あんり(東京女子大学長)

 カルト脱会の手引き書

 わたしが最初に出版した図書は、『福音主義神学概説』という分厚いドイツ語の翻訳書である。
旧東独時代のフンボルト大学神学部での講義録、つまり「共産主義とキリスト教をどのように接合させるか」という難しい課題を引き受けた書物で、大胆かつ精妙、とても優れた内容に仕上がっている。
当時わたしは、神学校を卒業して四国松山の教会に副牧師として赴任したばかりだった。
地元の大学教授が何人もいる教会で、若い牧師を育てたいという暖かな応援を一身に感じながら、わたしは神学の深みに分け入る幸せな時間を与えられた。
その4年間のことはまた後で書きたいと思っている。
(『世界 2023年5月号』岩波書店)
 はじめて自分の名前のついた本が出版されれば、誰しも嬉しいだろう。
頬ずりして一緒に寝たくなるかもしれない。
だが、この本が出版されたのは、松山の教会を辞してプリンストンへ留学に発った後のことだった。
共訳者からは連絡をもらったが、五百頁もある重い本なので、出版社はのんびりと船便で一冊だけ送ってきた。
定価は何と7500円(当時)。
もちろん誰も買わない。
ただでさえ難解な本だし、もともと神学のマーケットは日本では極小である。
おざなりな業界紙の書評が一本出たきりで、それきりわたしも忘れていた。
 ところが、である。
留学を終えて帰国し、出版から6年ほど経った1993年のある日、突然この本が話題でもちきりなり、全国で売り切れになってしまった。
何が起きたのか。
山﨑浩子という新体操の有名選手が統一教会の合同結婚式に参加した後、脱会して縁を切るために失踪する、という事件があった。
週刊誌には、ジャージ姿で炬燵(こたつ)に座り、脱会に至った経緯を訥々(とつとつ)と語る彼女の姿が掲載されたが、その目の前に置かれていたのが、何とこの本だったのである。
記事によると、この本は『ホーキングの最新宇宙論』などとともに「改宗説得のプロ」が使うマニュアル本なのだという。
 なぜあの本なのか、あの難しい神学専門書のどこにそんな力があったのか、今でもよくわからない。
山﨑浩子さんご本人が書いた脱会手記『愛が偽りに終わるとき』(文藝春秋)も読んでみた。
彼女の「脳天を打った衝撃の一文」というのは、最初の1頁に書かれてあったことだったらしい。
ともかく、出版元の日本基督教団出版局は、積み上がっていた在庫が捌(さば)けて大喜びだったし、わたしは突然まとまった額の印税が送られてきて、ほくほくだった。
 山﨑浩子さんは、幸いその後もきっぱり縁が切れているようだが、その夫になりかけた勅使河原秀行(てしがわらひでゆき)さんは今も「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)の要職にあり、先日30年ぶりにマスコミに登場していた。
きっと彼は読まないだろうし、読んでも同じ結果にはならないだろう。
まあ、せめて一人分でも役に立ったのなら嬉しいことである。
あの事件でわたしの本は完売したものの、さすがに重版するのは無謀だということで、オンデマンド再版になっている。
旧統一教会と政党政治の関わりが大きく問題になった昨今のことなので、読み直す価値はあるかもしれない。

…後略…

(『世界 2023年5月号』岩波書店)

5月の100分de名著は、「ヘーゲル“精神現象学”

長谷川宏訳の『精神現象学』を1ページ目で挫折しました(^^;
今朝の父の一枚です(^^)/
一気に伸び上がっています…

竹 たけ 
〇便所の壺は全部埋めるものではなく、節を抜いたタケを底から立てて地上に出し、家のある限りそのままにしておく(高知)。
井戸には水神様がいるから井戸を埋める時はタケの筒を立てて出口を開いておかないと祟りがある(佐賀)。
タケを地上と地下を結ぶものとする。
(『日本俗信辞典 植物編』鈴木棠三 角川ソフィア文庫 令和2年)

昨日は、blogの更新をお休みしたので図書室で調べ物をしていました。

どつぼに はまる
 どつぼにはまる【糞壺に塡る】

…次の出番の人が長時間経っても楽屋入りをせぬで、高座に穴をあけてはならぬから、次の顔の見えるまで、長いつなぎにかかる。
大阪を土台にした 寄席楽屋事典 1960
(『隠語大辞典』木村義之、小出美河子編 皓星社 2000年)

昨日、パソコンに向かう時間を減らしたので頭痛や肩凝りが楽になりました。
これからは、blogの更新を時々休んで、続けていこうと思います。