朝はひんやりしていますが、次第に暑さを感じるように…
このセイヨウシャクナゲは、数年前に折られて以来、花が咲きませんでいた。
やっと花が咲きました。
治療薬が実用化されればいいですね
「自己免疫疾患 “症状悪化の原因たんぱく質特定” 大阪大学など」(NHK)
というのは小中学校の同級生が短大生のときに関節リウマチを発症して
入院中、病院の窓から飛び降り自殺をしようとしても体が動かなかったと話していました。もう少しあとで転記するつもりでしたが、数日すればみな散ってしまいそうなので
墨堤の桜
どんな逆境にあっても、桜の咲くころは生きているのもまんざらではない、と思う。
そう楽な生活をしていなかった一葉も毎春、日記に花を書きとめることを忘れなかった。
明治24年4月11日、一葉は隅田川堤の萩の舎の同僚、といっても四十七歳の吉田かとり子の花見の宴に招かれている。
妹くにをさそって早朝家を出た一葉はまず上野に向かう。
(『一葉の四季』森まゆみ 岩波新書 2001年) 家の中にばかりたれこめて春の風にもあたらぬ妹を連れ出した。
花ぐもりであまり日がかんかん照っていないのでよかった。
が花の盛りはすぎている。
兼好法師のまねをして「花は盛りに月はくまなきをのみ愛(めで)るものかは」と負けおしみをいう。
「清水の御堂の辺りこそ大方うつろひたれど、権現の御社の右手の方など若木ながらまださかり也き」。 車坂を下ると、かつて父則義在世のみぎり、ともなわれて朝夕歩き、桜をながめたことが思い出され、早速一首うかぶ。
山桜ことしもにほふ花かげに
ちりてかへらぬ君をこそ思へ
二人して悲しさが胸にせまり涙をこぼす。
思えば、昔この辺に住んだこともあった。
まだ八年もたたないのに、上野寛永寺の塔頭の並んでいたあたりはとり払われて、汽車の線路となっている。
区役所や郵便局など、当時思いもかけないものがたくさん出来た。
上野駅開業は明治16年。
「よの移り行さまこそいとしるけれ」。 上野から隅田川までは人力車を雇い、長命寺の桜餅を持たせて妹を帰した。
吉田邸は向島小梅村百四十。
三囲(みめぐり)神社の裏道にある三階建て。
「今日は大学の君たちきそひ舟ものし給ふとて、はや木(この)まこのまにこぎいで給ふも折からいとうれし」。
第五回帝国大学春期競漕会というボートレースのこと。
若いスポーツマンの姿が木の間にちらちらして心踊らせる。
現在も花見時に早慶レガッタが行われ、花見客の目を奪う。
このように毎年、花と花見は日記に記される。 翌25年4月18日は「上野の夜桜を行て見し斗(ばかり)、飛鳥山も墨田河も更に訪はず」。
小金井堤の桜見を誘われたが、小説の締め切りがあって行かなかった。
26年4月6日、「上野も澄田も此次の日曜までは持つまじなど聞くこそ、いとくちをしけれ」。
27年、「花ははやく咲て散がたはやかりけり」。
その昔、樋口家が住んでいた本郷赤門前の家には大きな桜の木があった。
「桜木の宿」を名付けたその家、春は花咲き乱れ、池の鯉に雪のように振りかかり積もった。
桜はなぜか、死んだ人と忘れがたい昔を思い出させるようだ。
(『一葉の四季』森まゆみ 岩波新書 2001年)「枯野抄」つづき
やがて去来(きょらい)がまた憲法小紋(けんぽうこもん)の肩をそば立てて、おずおずと席に復すると、羽根楊子はその後にいた丈艸(じょうそう)の手にわたされた。
日頃(ひごろ)から老実な彼が、つつましく伏眼(ふしめ)になって、何やらかすかに口の中で誦(ず)しながら、静(しずか)に師匠の脣を沾(うるお)している姿は、恐らく誰(だれ)の見た眼(め)にも厳(おごそか)だったのに相違ない。
が、この厳な瞬間に、突然座敷の片すみからは、不気味な笑い声が聞え出した。
いや、少なくともその時は、聞え出したと思われたのである。
それはまるで腹の底からこみ上げて来る哄笑(こうしょう)が、喉(のど)と脣とに堰(せ)かれながら、しかもなお可笑(おか)しさに堪え兼ねて、ちぎれちぎれに鼻の孔(あな)から、迸(ほとばし)って来るような声であった。
が、いうまでもなく、誰もこの場合、笑(わらい)を失したものがあった訳ではない。
(『或日の大石内蔵之助・枯野抄』 芥川竜之介 岩波文庫 1991年)声は実にさっきから、涙にくれていた正秀(まさひで)の抑(おさ)えに抑えていた慟哭(どうこく)が、この時胸を裂いて溢れたのである。
その慟哭は勿論(もちろん)、悲愴(ひそう)を極めていたのに相違なかった。
あるいはそこにいた門弟の中には、「塚も動けわが泣く声は秋の風」という師匠の名句を思い出したものも、少なくはなかった事であろう。
が、その凄絶(せいぜつ)なるべき慟哭にも、同じく涙に咽(むせ)ぼうとしていた乙州(おとくに)は、その中にある一種の誇張に対して、――というのが穏(おだやか)でないならば、慟哭を抑制すべき意志力のの欠乏に対して、多少不快を感じずにはいられなかった。
唯、そういう不快の性質は、どこまでも智的(ちてき)なものに過ぎなかったのであろう。彼の頭が否(いな)といっているにもかかわらず、彼の心臓は忽(たちま)ち正秀の哀慟の声に動かされ、何時(いつ)か眼の中は涙で一ぱいになった。
が、彼が正秀の慟哭を不快に思い、惹(ひ)いては彼自身の涙をも潔(いさぎよ)しとしない事は、さっきと少しも変りはない。
しかも涙は益(ますます)眼に溢れて来る――乙州は遂に両手を膝(ひざ)の上についたまま、思わず嗚咽(おえつ)の声を発してしまった。
が、この時歔欷(きょき)するらしいけはいを洩(も)らしたのは、独り乙州ばかりではない。
芭蕉の床の裾(すそ)の方に控えていた、何人かの弟子の中からは、それと殆(ほとんど)同時に洟(はな)をすする声が、しめやかな冴(さ)えた座敷の空気をふるわせて、断続しながら聞え始めた。 その惻々(そくそく)として悲しい声の中に、菩提樹(ぼだいじゅ)の念珠(ねんじゅ)を手頸(てくび)にかけた丈艸は、元の如く静に席へ返って、あとには其角(きかく)や去来と向いあっている、支考(しこう)が枕(まくら)もとへ進みよった。
が、この皮肉屋を以(もっ)て知られた東花坊(とうかぼう)には周囲の感情に誘いこまれて、徒(いたずら)に涙を落すような繊弱な神経はなかったらしい。
彼は何時もの通り浅黒い顔に、何時もの通り人を莫迦(ばか)にしたような容子(ようす)を浮かべて、更にまた何時もの通り妙に横風(おうふう)に構えながら、無造作に師匠の唇へ水を塗った。しかし彼といえどもこの場合、勿論多少の感慨あった事は争われない。
「野ざらしの心に風のしむ身かな」――師匠は四、五日前に、「かねては草を敷き、土を枕にして死ぬ自分と思ったが、こういう美しい蒲団(ふとん)の上で、往生(おうじょう)の素懐(そかい)を遂げる事が出来るのは、何よりも悦(よろこ)ばしい」と繰返して自分たちに、礼をいわれた事がある。
が、実は枯野(かれの)のただ中にも、この花屋の裏座敷も、大した相違がある訳ではない。
現にこうして口をしめしている自分にしても、三、四日前までは、師匠に辞世の句がないのを気にかけていた。
それから昨日は、師匠の発句(ほっく)を滅後(めつご)に一集する計画を立てていた。
最後に今日は、たった今まで、刻々臨終に近づいて行く師匠を、どこかその経過を興味でもあるような、観察的な眼で眺めていた。
もう一歩進めて皮肉に考えれば、事によるとその眺め方の背後には、他日自分の筆によって書かるべき終焉記(しゅうえんき)の一節さえ、予想されていなかったとはいえない。して見れば師匠の命終(めいしゅう)に侍(じ)しながら、自分の頭を支配しているものは、他門への名聞(みょうもん)、門弟たちの利害、あるいはまた自分一身の興味打算――皆直接垂死(すいし)の師匠とは、関係のない事ばかりである。
だから師匠はやはり発句の中で、しばしば予想を逞(たくまし)くした通り、限りない人生の枯野の中で、野ざらしになったといって差支えない。
自分たちの門弟は皆師匠の最後を悼(いた)まずに、師匠を失った自分たち自身を悼んでいる。
枯野に窮死した先達(せんだつ)を歎(なげ)かずに、薄暮(はくぼ)に先達を失った自分たち自身を歎いている。
が、それを道徳的に非難して見たところで、本来薄情に出来上った自分たち人間をどうしよう。――こういう厭世的(えんせいてき)な感慨に沈みながら、しかもそれに沈み得る事を得意にしていた支考は、師匠の脣をしめし終って、羽根楊子を元の湯呑(ゆのみ)へ返すと、涙に咽(むせ)んでいる門弟たちを、嘲(あざけ)るようにじろりと見廻(みまわ)して、徐(おもむろ)にまた自分の席へ立ち戻った。
人の好い去来の如きは、始(はじめ)からその冷然とした態度に中(あ)てられて、さっきの不安を今更のようにまた新(あらた)にしたが、独り其角が妙に擽(くすぐ)ったい顔をしていたのは、どこまでも白眼で押し通そうとする、東花坊のこの性行上の習気(しゅうき)を、小うるさく感じていたらしい。 支考に続いて惟然坊(いぜんぼう)が、墨染(すみぞめ)の法衣(ころも)の裾(すそ)をもそりと畳へひきながら、小さく這(は)い出した時分(じぶん)には、芭蕉の断末魔も既にもう、弾指(だんし)の間(かん)に迫ったのであろう。
顔の色は前よりも更に血の気を失って、水に濡(ぬ)れた脣の間からも、時々忘れたように息が洩(も)れなくなる。
と思うとまた、思い出したようにぎくりと喉(のど)が大きく動いて、力のない空気が通い始める。
しかもその喉の奥の方で、かすかに二、三度痰(たん)が鳴った。
呼吸も次第に静になるらしい。
その時羽根楊子の白い先を、将(まさ)にその脣へ当てようとしていた惟然坊は、急に死別の悲しさと縁のない、或る恐怖に襲われ始めた。それは師匠の次に死ぬものは、この自分ではあるまいかという、殆(ほとんど)無理由に近い恐怖である。
が、無理由であればあるだけに、一度この恐怖に襲われ出すと、我慢にも抵抗のしようがない。
元来彼は死というと、病的に驚悸(きょうき)する種類の人間で、昔からよく自分の死ぬ事を考えると、風流の行脚(あんぎゃ)をしている時でも、総身に汗の流れるような不気味な恐しさ経験した。
従ってまた、自分以外の人間が、死んだという事を耳にすると、まあ自分が死ぬのではなくってよかったと、安心したような心もちになる。
と同時にまた、もし自分が死ぬのだったらどうなるだろうと、反対の不安をも感じる事がある。これはやはり芭蕉の場合も例外には洩れないで、始まだ彼の臨終がこれほど切迫していない中(うち)は、――障子に冬晴の日がさして、園女(そのめ)の贈った水仙(すいせん)が、清らかな匂(におい)を流すようになると、一同師匠の枕もとに集って、病間を慰める句作などをした自分は、そういう明暗二通りの心もちの間を、その時次第で徘徊(はいかい)していた。
が、次第にその終焉(しゅうえん)が近づいて来ると――忘れもしない初時雨(はつしぐれ)の日に、自(みずか)ら好んだ梨(なし)の実さえ、師匠の食べられない容子(ようす)を見て、心配そうに木節が首(こうべ)を傾けた、あの頃(ころ)から安心は追々(おいおい)不安にまきこまれて、最後にはその不安さえ、今度死ぬは自分かも知れないという険悪な恐怖の影を、うすら寒く心に上にひろげるようになったのである。
だから彼は枕もとへ坐(すわ)って、刻銘に師匠の唇をしめしている間中、この恐怖に祟(たた)られて、殆末期(まつご)の芭蕉の顔を正視する事が出来なかったらしい。いや、一度は正視したかとも思われるが、丁度その時芭蕉の喉の中では、痰のつまる音がかすかに聞えたので、折角の彼の勇気も、途中で挫折(ざせつ)してしまったのであろう。
「師匠の次に死ぬものは、事によると自分かも知れない」――絶えずこういう予感めいた声を、耳の底に聞いていた惟然坊は、小さな体をすくませながら、自分の席へ返った後も、無愛想な顔を一層無愛想にして、なるべく誰の顔も見ないように、上眼(うわめ)ばかり使っていた。
…つづく…
(『或日の大石内蔵之助・枯野抄』 芥川竜之介 岩波文庫 1991年) 今朝の父の一枚です(^^)/
数日前から伐採された桜の幹から蘖(ひこばえ)が伸び花を咲かせました。
「【視】お花見」つづき
こうして無事、贅沢(ぜいたく)な花見を終えることができた秀吉は、修験場・吉野山の神秘的な力に感じ入ったと、と伝えられています。
その後、自分の城下・伏見(ふしみ)でも、「吉野に負けない花見をしたい」と願いました。
京都・伏見区の醍醐寺境内に、近江(おうみ)、大和(やまと)、河内(かわち)などから700本もの桜を取り寄せて植えました。
春になると「観桜の宴」を開きました。
これが、貴族上流階級だけでなく庶民にまで「花見」の習慣が広がったきっかけと言われる「醍醐の花見」。
現代の花見のルーツと伝えられています。
特に盛大だったのが、1598(慶長3)年の宴。
秀頼、北政所(きたのまんどころ)、淀殿(よどどの)、大名の長束正家(なつかまさいえ)など1000名を超える人々が集(つど)ったそうですが、秀吉はその盛大な宴の五カ月後に他界しました。
これが最後の花見になったのです。
醍醐寺の境内には、今も豪華絢爛なしだれ桜が花を咲かせます。
私の目の前で桜吹雪を散らしているその木は、秀吉が鑑賞した桜の子孫と言われ、歴史の記憶を凝縮したかのように激しく咲きほこり、桜吹雪を散らしています。
実は、老齢のために衰弱が目立ち、枯れる心配が出てきたので、組織培養によるクローン苗の生産も試みられています。
私たちが今楽しんでいる花見のルーツをたどると、ほら、「吉野山の桜」にいきついてしまうでしょう?
(『年中行事を五感で味わう』山下柚実 岩波ジュニア新書 2009年)