東北地方などでは雪が降ったそうです。
ソメイヨシノの花がほとんど散ったのにスズメが来ていました。
花の蜜が目当てでなく虫を退治してくれているというか朝ご飯。
そんな姿を見ながら思い出したのが
昔々、上司から初仕事として言われたのが、敷地内の桜の毛虫退治でした。
ゴミばさみを持って脚立に乗り、毛虫の巣網を捕ったあと、水をはったバケツに入れていました(^^;
ナナフシの仲間の幼虫かな?
ナナフシの仲間 ナナフシ目
生涯、保護色でくらす
動物が、すんでいる環境の背景に体の色や形を似せることを、隠蔽(いんぺい)的擬態、または単に保護色と呼んでいるが、ナナフシほどその例としてふさわしい動物はいないのではなかろうか。
彼らは一般的に細く長い体をしていて、まるで小枝のような姿をしている。
中にはトゲやこぶまで作って枝に似せるものもいる。
熱帯にいる木の葉そっくりなコノハムシもこの仲間だ。
どれもじっとしていたら見つけることはむずかしい。
さらに動くときは、体を前後に揺さぶりながら、ゆっくりと歩いていく。
その姿は、まるで小枝が風にゆれているようである。
また多くの種類では、メスは卵を1粒ずつ地面にばらまくが、その卵はまるで植物の種子のようだ。
いったん地面に落ちたら、まず見つけることはできないだろう。
…後略…
(『虫のおもしろ私生活』 ピッキオ編著 主婦と生活社 1998年) 水口(みなくち)にて二十年を経て故人に逢ふ
命二ツの中に活(いき)たる桜哉 (甲子吟行)
大津から熱田へ赴く途中、近江の甲賀郡水口村での作。
故人は伊賀の土芳(どほう)。
当時29歳で、芭蕉が伊賀を出奔した寛文6年は、19年前で、土芳は10歳だった。
それ以来逢うことのなかった二人で、芭蕉が帰郷したときも、土芳は播磨へ出かけて逢えなかったのである。
20年前の少年も、いつか俳諧をたしなむようになり、芭蕉の俳諧を慕っていた。
彼は播磨から帰ると、すぐ芭蕉の行く先を追って、近江路で待ち受けた。
よくよく一途な思慕というべきであった。
(『芭蕉全発句』山本健吉 講談社学術文庫 2012年) その再会の喜びは、芭蕉にもあった。
かつて芭蕉に親しんだ少年が、何時か男盛りとなって、芭蕉の前に現れた。
二つの命が二十年を隔てて再会しえたという運命への感動が、この句のモチーフとなっている。
西行の「命なりけりさやの中山」の歌が、遠く響いている。
命二つの間に、もう一つの命を持った、生きた桜が、爛漫と咲いている。
嘱目の生き生きと華やかで充ちあふれるものを以て、旧友土芳への挨拶としたのだ。
「生けたる」でなく、「生きたる」である。
(『芭蕉全発句』山本健吉 講談社学術文庫 2012年)
「故人」は、死んだ人だけではなくて…
こじん【故人】
①古い友人。旧知。
②死んだ人。なき人。
(『岩波古語辞典(旧版)』大野晋他編 岩波書店 1974年)4月9日 天平勝宝4年(752.5.26) 東大寺廬舎那大仏(るしゃなだいぶつ)開眼供養。
天皇・太上天皇・光明皇太后、行幸臨席。僧正菩提僊那(ぼだいせんな)、大仏を開眼。
華厳経(けごんきょう)講話、種々の楽舞など盛大な法会が行なわれる(続紀・東大寺要録)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
「大仏ができるまで」(小学6年)第4章 仏教と古代の日本
東大寺大仏の創建
都が奈良に置かれた時代を奈良時代(710―784)といいますが、奈良時代に国家から公認された仏教研究集団を六つで代表させて南都六宗(なんとろくしゅう)とよんでいます。
すなわち、三論宗(さんろんしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)、法相宗(ほっそうしゅう)、俱舎宗(くしゃしゅう)、華厳宗(けごんしゅう)、律宗(りっしゅう)です。
これらは、〇〇宗といっても、現在のような、信仰を核として信者が集まった宗教教団ではなく、仏教教義などの研究者の集団で、寺院内で独立した研究所をもち、そこには図書館があった、ということに注意しておきましょう。
これらの宗は、インドや中国で成立し、留学僧らによって日本に伝えられたのです。
仏教を研究することで仏陀のマジカル・パワー(呪術的な力)を身につけたかったようです。
(『仏教入門』松尾剛次 岩波ジュニア新書 1999年)
ところで、奈良時代の仏教史における画期的な事件として、東大寺大仏の建立と鑑真(がんじん)の来朝とがあります。(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
「大仏ができるまで」(小学6年)第4章 仏教と古代の日本
東大寺大仏の創建
都が奈良に置かれた時代を奈良時代(710―784)といいますが、奈良時代に国家から公認された仏教研究集団を六つで代表させて南都六宗(なんとろくしゅう)とよんでいます。
すなわち、三論宗(さんろんしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)、法相宗(ほっそうしゅう)、俱舎宗(くしゃしゅう)、華厳宗(けごんしゅう)、律宗(りっしゅう)です。
これらは、〇〇宗といっても、現在のような、信仰を核として信者が集まった宗教教団ではなく、仏教教義などの研究者の集団で、寺院内で独立した研究所をもち、そこには図書館があった、ということに注意しておきましょう。
これらの宗は、インドや中国で成立し、留学僧らによって日本に伝えられたのです。
仏教を研究することで仏陀のマジカル・パワー(呪術的な力)を身につけたかったようです。
(『仏教入門』松尾剛次 岩波ジュニア新書 1999年)
そこで、まず東大寺大仏の建立からみてみましょう。
奈良市にある東大寺は、日本を代表する寺院の一つで、とくに高さ14.85メートルもある毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ<奈良の大仏とよばれています>)で有名です。
東大寺は、金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、大華厳寺(だいけごんじ)、恒説華厳寺(こうせつけごんじ)、総国分寺(そうこくぶんじ)ともよばれます。
諸国に建てられた国分寺の代表である総国分寺としての役割も担っていたのです。 この東大寺は、聖武(しょうむ)天皇の皇子基(もとい)王のために建てられたという金鐘寺(こんしゅじ)が前身です。
聖武天皇の皇后である光明(こうみょう)皇后(701―760)が創建を勧めたといわれています。
このように、光明皇后は、仏教の受容において重要な役割を果たした女性として忘れられない人物です。
大仏の建立は、天平16(744)年に近江(滋賀県)紫香楽(しがらき)で着手されたのですが、その翌年からは奈良の金鐘寺の地に建てられることになり、金鐘寺が東大寺として造営しなおされたのです。
天平勝宝(てんぴょうしょうほう)4(752)年に大仏開眼供養(だいぶつかいげんくよう)が行われました。 巨大な毘盧遮那仏の前に立つと、造立者たちの熱烈な思いがのしかかってきます。
迫りくる悪鬼や悪霊たちを退け、平安を求める強い願いに圧倒されます。
当時の人びとは、洪水や日照りなどの災害や、コレラや赤痢といった疫病がはやるのも、目に見えない悪霊や悪神のせいと考えていました。
そして、仏像や読経(どきょう<経典を読みあげること>)によって、それらを打倒することができると考えていましたし、仏像が巨大であればあるほど、読経する僧侶の数が多ければ多いほど、悪霊や悪神を退散させる力は大きいと考えられていたのです。
それゆえ、のちには、京都、鎌倉といった首都、あるいはそれに準ずる都市には、巨大な大仏が作られたのです。 東大寺の大仏建立は、天平15(743)年10月15日に、聖武天皇が発願しました。
天皇は、『華厳経』の教理に基づき動物・植物までも含む共栄の世界を具現するため、国家権力と国民の協力により、毘盧遮那仏像の鋳造(ちゅうぞう)をめざしたのです。
この大仏造立は、国家の力のみならず、行基(ぎょうき<668―749)を中心とした僧侶たちによる民間へのいわば募金活動(当時の言葉で、知識結<ちしきゆい>)によって完成した点が注目されます。
大仏の建立には、莫大な金と労働力が必要で、当時の国家の力だけでは完成させるのは困難でした。
そこで、民衆に人気のあった行基の協力が求められたのです。
行基は、以前は、許可なく寺を離れ、民衆布教をしているとして弾圧の対象者だったのです。 それでは、行基とはどんな人だったのでしょう。
行基は百済系渡来人の高志(たかし)氏の出で、和泉(いずみ)国(大阪府堺市)に生れました。
彼は、15歳で出家し、飛鳥寺(あすかでら)で仏教を学びました。
そして、慶雲(けいうん)元(704)年に生家を寺(家原<えばら>寺)にすると、官僧を離脱し、布教活動と社会救済活動を開始します。
そのために、養老(ようろう)元(717)年には「僧尼令」違反として禁圧の対象になっているほどです。
しかし、そうした弾圧にもめげず、彼の説法の場には、しばしば1000人を数える人びとが集まり、さらに、彼は、橋、堤、池、寺、布施屋(ふせや<運脚(うんきゃく)などの収容施設>)などの建設に努めました。
こうした行基の力を聖武天皇は大仏建立に利用し、行基は、その功績により743年には大僧正(だいそうじょう)に任命されたのです。
こうしたことにも、国家仏教の時代といっても、仏教が民間へ広まっていたことが読みとれます。
(『仏教入門』松尾剛次 岩波ジュニア新書 1999年)
うんきゃく【運脚】
律令制の税のうちの調・庸を都まで徒歩で運んだ人夫。
調・庸を出した農民の中から指名され、農民疲弊の一因となった。脚夫。
(『広辞苑 第六版』岩波書店 2008年)
芭蕉の句を紹介した時に西行の「命なりけりさやの中山」の歌が、遠く響いている。
と書かれていました。
◆終焉
年(とし)たけてまた越(こ)ゆべしと思ひきや 命(いのち)なりけり小夜(さや)の中山(なかやま)
年老いてからもう一度越える日が来るだろうなどと思っただろうか。
まさしく「命(いのち)」だったのである、この小夜の中山を越えさせたのは。
(『西行 魂の旅路』西澤美仁 角川ソフィア文庫 2010年)
✿西行は生涯に二度、平泉に旅をしている。
最初の旅は「白河の関屋」の項([47]参照)で縷述(るじゅつ)した、おおよそ30歳ころの旅。
二度目は、『吾妻鏡』文治2年(1186)8月15日条に記された、鶴岡(つるおか)八幡宮で源頼朝と会見することになる、西行最晩年69歳の旅である。
翌16日条によると、治承4年(1180)の年末に平家軍によって焼亡した、東大寺大仏再建のための砂金勧進に平泉に行く途上であったという。
頼朝から引出物に拝領した銀の猫を、西行は御所を退出するや、門の外で遊ぶ子供に投げ与えたという有名なエピソードまで描き込まれている。
遠江(とおとうみ)国日坂(にっさか)から金谷(かなや)に向かう途次にあるこの峠を「また越ゆべしと思ひきや」と感歎(かんたん)するのであるから、二度とも東海道を通ったことは間違いないようで、およそ四十年ぶりに再訪する「小夜の中山」で、西行は「命」というものを見たという。
…中略…
「世の中を捨てて捨てえぬ」の歌で、出家直後の山里を、自分の人生の流れを見渡せる場所と認識した若き日の自己([5]参照)と、峠を容易に越え難い老体の自己との、その同質性(高橋英夫『西行』)がはっきりと見て取れた、それが「小夜の中山」が選ばれた必然性であったと解されることになろう。
(『西行 魂の旅路』西澤美仁 角川ソフィア文庫 2010年)
明日は、母の命日なのでblogの更新はお休みします。