2023年4月20日木曜日

穀雨

公園に着くと甘い香りがしてきました。
バイカウツギが咲き出しました。
咲き出すのはもう少し後だと思うけど…
気温が急に上ってきているからかな?

近畿各地で気温上がり夏日のところも 熱中症に注意」(関西NHK)
毎日、楽しみにしているキランソウが除草されていました(T_T)
生き残っているのが来年に繋げてくれるといいのですが…
春 六節気
 穀雨
(こくう)

 地上の穀物を育てる春雨が降るころ。
穀雨とは、百穀を潤す雨という意味です。
煙るようにしとしとと降り続く長雨にあることが多い時季。
 このころに、三日以上続く雨を「春霖(しゅんりん)」、降ったりやんだりする雨を「春時雨(はるしぐれ)」と呼びます。
また、「雨は花の父母」ともいわれるように、雨は穀物だけでなく草花を潤し育てるもの。
穀雨は、春の最後の二十四節気です。
ひと雨がごとに緑は深さを増し、やがて新緑の季節へと移り変わっていきます。
(『イラストで楽しむ日本の七十二候』アフロ著、森松輝夫絵 中径出版 2013年)
 「雨は花の父母」のもとになった歌が

 養(やしな)ひ得(え)ては自(おのづか)ら花(はな)の父母(ぶも)たり
  洗(あら)ひ来(きた)つては寧(むし)ろ薬(くすり)の君臣(くんしん)を弁(わきま)へんや
         紀 長谷雄(きのはせお)

現代語訳
 春雨は、草木を養い育てて花を咲かせるから、自然、花の父母ともいってよいものです。
また、雨は平等に薬草の上に降りそそいで、上薬、中薬などの差別をしたりしません。
(『和漢朗詠集』川口久雄訳注 講談社学術文庫 1982年)
語釈
〇薬の君臣 『神農本経』『新修本草』に、「薬に君・臣・佐使あり」とある。薬草には、命を養う上薬と、性を養う中薬と、病を治す下薬とがあり、これを「君・臣・佐使」に区分したのである。

参考
 上句は、『謡曲』「熊野(ゆや)」に「草木は雨露のめぐみ、養ひえては花の父母たり、況(いは)んや人間の於てをや」とあるほか、多くの謡曲に引かれている。
(『和漢朗詠集』川口久雄訳注 講談社学術文庫 1982年)
今朝は、90mmマクロレンズなのではっきりと写せなかったのですが
9時30分頃に空を野鳥とは違う飛び方をしているなと思って写すとコウモリのようでした。
4月11日の記事から間があいてしまったのですが
牛女」つづき

 しかし、運命には牛女も、しかたがなかったとみえます。
病気が重くなって、とうとう牛女は死んでしまいました。
 村の人々は、牛女をかわいそうに思いました。
どんなに置いていった子供のことに心を取られたろうと、だれしも深く察して、牛女をあわれまぬものはなかったのであります。
 人々は寄り集まって、牛女の葬式を出して、墓地にうずめてやりました。
そして、後(あと)に残った子供を、みんながめんどうを見て育ててやることになりました。
 子供は、ここの家から、かしこの家へというふうに移り変わって、だんだん月日とともに大きくなっていったのであります。
しかし、うれしいこと、また、悲しいことがあるにつけて、子供は死んだ母親を恋しく思いました。
 村には、春がき、夏がき、秋となり、冬となりました。
子供は、だんだん死んだ母親をなつかしく思い、恋しく思うばかりでありました。
(『小川未明童話集』桑原三郎編 岩波文庫 1996年)
 ある冬の日のこと、子供は、村はずれに立って、かなたの国境の山々をながめていますと、大きな山の半腹(はんぷく)に、母の姿がはっきりと、真っ白な雪の上に黒く浮き出して見えたのであります。
これを見ると、子供はびっくりしました。
けれど、このことを口に出してだれにもいいませんでした。
 子供は、母親が恋しくなると、村はずれに立って、かなたの山を見ました。
すると、天気のいい晴れた日には、いつでも母親の黒い姿をありありと見ることができたのです。
ちょうど母親は、黙って、じっとこちらを見つめて、我が子の身の上を見守っているように思われたのでありました。
 子供は、口に出して、そのことをいいませんでしたけれど、いつか村人は、ついにこれを見つけました。
 「西の山に、牛女が現れた。」と、いいふらしました。
そして、みんな外に出て、西の山をながめたのであります。
 「きっと、子供のことを思って、あの山に現れたのだろう。」と、みんな口々にいいました。
子供らは、天気のいい晩方には、西の国境の山の方を見て、
 「牛女! 牛女!」と、口々にいって、その話でもちきったのです。
 ところが、いつしか春がきて、雪が消えかかると、牛女の姿もだんだんうすくなっていって、まったく雪が消えてしまう春の半(なか)ばごろになると、牛女の姿は見られなくなってしまったのです。
 しかし、冬となって、雪が山に積もり里に降るころになると、西の山に、またしても、ありありと牛女の黒い姿が現れました。
村の人々や子供らは冬の間、牛女のうわさでもちきりました。
そして、牛女の残していった子供は、恋しい母親の姿を、毎日のように村はずれに立ってながめたのであります。
 「牛女が、また西の山に現れた。あんなに子供の身の上を心配している。かわいそうなものだ。」と、村人はいって、その子供のめんどうよく見てやったのです。
 やがて春がきて、暖かになると、牛女の姿は、その雪とともに消えてしまったのでありました。
 こうして、くる年も、くる年も、西の山に牛女の黒い姿は現れました。
そのうちに、子供は大きくなったものですから、この村から程近(ほどちか)い、町のある商家へ、奉公させられることになったのであります。
 子供は、町にいってからも、西の山を見て恋しい母親の姿をながめました。
村の人々は、その子供がいなくなってからも、雪が降って、西の山に牛女の姿が現れると、母親と、子供の情合(じょうあ)いについて、語り合ったのでありました。
 「ああ、牛女の姿があんなにうすくなったもの、暖かになったはずだ。」と、しまいには、季節の移り変わり、牛女について人々はいうようになったのでした。
 牛女の子供は、ある年の春、西の山に現れた母親の許しも受けずに、かってにその商家から飛び出して、汽車に乗って、故郷を見捨てて、南の方の国へいってしまったのであります。
 村の人も、町の人も、もうだれも、その子供のことについて、その後のことを知ることができませんでした。
そのうちに、夏も過ぎ、秋も去って、冬となりました。
 やがて、山にも、村にも、町にも、雪が降って積もりました。
ただ不思議なのは、どうしたことか、今年にかぎって、西の山に牛女の姿が見えないことでありました。
 人々は、牛女の姿が見えないのをいぶかしがって、
 「子供が、もう町にいなくなったから、牛女は見守る必要がなくなったのだろう。」
と、語り合いました。
 その冬も、いつしか過ぎて春がきたころであります。
町の中には、まだとこどころに雪が消えずに残っていました。
ある日の夜のことであります。
町の中を大きな女が、のそりのそりと歩いていました。
それを見た人々は、びっくりしました。
まさしく、それは牛女であったからであります。
 どうして牛女が、どこからきたものかと、みんなは語り合いました。
人々はその後もたびたび真夜中に、牛女がさびしそうに町の中を歩いている姿を見たのでありました。
 「きっと牛女は、子供が故郷から出ていってしまったのを知らないのだろう。それで、この町の中を歩いて、子供を探しているのにちがいない。」と、人々はいいました。
 雪がまったく消えて、町の中には跡をも止めなくなりました。
木々は、みんな銀色の芽をふいて、夜もうす明るくていい季節となりました。
 ある夜、人は牛女が町の暗い路次(ろじ)に立って、さめざめ泣いているのを見たといいます。
しかしその後、だれひとり、また牛女の姿を見たものがありません。
牛女はどうしたことか、もはやこの町にはおらなかったのです。
 その年以来、冬になっても、ふたたび山には牛女の黒い姿は見えなかったのであります。
 牛女の子供は、南の方の雪の降らない国へいって、そこでいっしょうけんめいに働きました。
そして、かなりの金持ちとなりました。
そうすると、自分の生まれた国がなつかしくなったのであります。
国へ帰っても、母親もいなければ、兄弟もありませんけれど、子供の時分に自分を育ててくれたしんせつな人々がありました。
彼は、その人たちや、村のことを思い出しました。
その人たちに対して、お礼をいわなければならぬと思いました。
 子供は、たくさんの土産物(みやげもの)と、お金とを持って、はるばると故郷に帰ってきたのであります。
そして、村の人々に厚くお礼を申しました。
村の人たちは、牛女の子供が出世(しゅっせ)をしたのを喜び、祝いました。
 牛女の子供は、なにか、自分は事業をしなければならぬと考えました。
そこで村に広い土地を買って、たくさんのりんごの木を植えました。
おおきないいりんごの実(み)を結ばして、それを諸国に出そうとしたのであります。
 彼は、多くの人を雇って、木に肥料をやったり、冬になると囲いをして、雪のために折れないように手をかけたりしました。
そのうちに木はだんだん大きく伸びて、ある年の春には、広い畑(はたけ)一面に、さながら雪の降ったように、りんごの花が咲きました。
太陽は終日、花の上を明るく照らして、みつばちは、朝から日の暮れるまで、花の中をうなりつづけました。
 初夏のころには、青い、小さな実が鈴生(すずな)りになりました。
そして、その実がだんだん大きくなりかけた時分に、一時に虫がついて、畑全体にりんごの実が落ちてしまいました。
 明くる年も、その明くる年も、同じように、りんごの実は落ちてしまいました。
それはなんとなく、子細(しさい)のあるらしいことでありました。
村のもののわかったじいさんは、牛女の子供に向って、
 「なにかのたたりかもしれない。おまえさんには、心あたりになるようなことはないかな。」と、あるとき、聞きました。
牛女の子供は、そのときは、なにもそれについて思い出すことはありませんでした。
 しかし、彼は、独りとなって、静かに考えたとき、自分は町から出て、遠方へいった時分にも、母親の霊魂(たましい)に無断であったことを思いました。
また、故郷へ帰ってきてからも、母親のお墓におまいりをしたばかりで、まだ法事(ほうじ)も営まなかったことを思い出しました。
 あれほど、母親は、自分をかわいがってくれたのに、そして、死んでからもああして自分の身の上を守ってくれたのに、自分はそれに対して、あまり冷淡であったことに、心づきました。
きっと、これは母の怒りでろうと思いましたから、子供は、懇(ねんご)ろに母親の霊魂(たましい)を弔(とむら)って、坊さんを呼び、村の人々を呼び、真心をこめて母親の法事を営んだのでありました。
 明くる年の春、またりんごの花は真っ白に雪のごとく咲きました。
そして、夏には、青々と実(みの)りました。
毎年このころになると、悪い虫がつくのでありましたから、今年は、どうか満足に実を結ばせたいと思いました。
 すると、その年の日暮れ方のことであります。
どこからとなく、たくさんのこうもりが飛んできて、毎晩のようにりんご畑の上を飛びまわって、悪い虫をみんな食べたのであります。
その中に、一ぴき大きなこうもりがありました。
その大きなこうもりは、ちょうど女王のように、ほかのこうもりを率いているごとく、見えました。
月が円く、東の空から上(のぼ)る晩も、また、黒雲が出て外の真っ暗な晩も、こうもりは、りんご畑の上を飛びまわりました。
その年は、りんごに虫がつかずよく実って、予想したよりも、多くの収穫があったのであります。
村の人々は、たがいに語らいました。
 「牛女が、こうもりになってきて、子供の身の上を守るんだ。」と、そのやさしい、情(じょう)の深い、心根(こころね)を哀れに思ったのであります。
 また、つぎの、つぎの年も、夏になると、一ぴきの大きなこうもりが、多くのこうもりを率(ひき)いてきて、りんご畑の上を毎晩のように飛びまわりました。
そして、りんごには、おかげで悪い虫がつかずによく実りました。
 こうして、それから四、五年の後には、牛女の子供は、この地方での幸福な身の上の百姓となったのであります。
(『小川未明童話集』桑原三郎編 岩波文庫 1996年)
今朝の父の一枚です(^^)/
キリの花を写していました。

キリ 桐
 和歌の中のキリ


 『源氏物語』でもよく知られるように、内裏(だいり)の淑景舎(しげいしゃ)は小庭にキリの木が植えられていたため「桐壺」と呼ばれました。
 このように貴族たちに身近でもあったキリですが、歌に詠まれるようになるのは、『新古今和歌集』の時代になったからです。
『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』に載る寂蓮(じゃくれん)法師の

  ももしきや 桐の木ずゑにすむ鳥の
   千歳は竹の 色もかはらじ


など、鳳凰伝説を踏まえての歌がいくつか見られます。
それ以外では藤原為尹(ためまさ)

  あじきなや 桐の一葉の落ちそめて
   人のあきこそ やがて見えけり



『玉葉集(ぎょくようしゅう)』永福門院(ようふくもんいん)

  夕暮れの 庭すさまじき秋風に
    桐の葉落ちて 村雨
(むらさめ)ぞ降る

など、他の木々よりも早いキリの落葉を詠(うた)った歌が見られます。
(『有職植物図鑑』八條忠基 平凡社 2022年)