発病前の2011年7月3日に九度山駅から真田庵とも言われる善名称院(ぜんみょうしょういん)。
慈尊院(じそんいん)、丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)。
ここで空海との神犬との出会いのことを知りました。
高野山町石(ちょういし)道を歩いて六本杉峠より天野の里へ下りて
「貧女の一燈 お照の墓」、丹生都比売神社 (にうつひめじんじゃ)、「西行堂や妻娘の墓」などを訪ねた後、
二ツ鳥居(国の史蹟)に着いたのですが、
西村コロナ担当相
『神のみぞ知る』は、人事を尽くしてから言う言葉です。
こういう言葉もあります。
天の時は地の利に如(し)かず、
地の利は人の和に如かず
天の神が与える絶好のチャンスも、地理的条件の有利さには及ばない。
しかし、その地の利も一致団結した人の和にはとうてい及ばないということ。
【出典】『孟子(もうし)』公孫丑(こうそんちゅう)・下
(『用例でわかる故事ことわざ辞典』学研辞典編集部 2005年)
「Go Toトラベル・イート 菅首相 感染拡大で運用見直しを表明」(NHK)
だそうですが、国民への説明はないのかな?
なかのとおるさんのTwitterに
安倍晋三的饒舌の方がましだったのではないかと思えると菅義偉的言語能力の低さ。
首相官邸ツイッター 総ツッコミ状態「具体的な対策を発信して」「情けなくて涙」(デイリースポーツ)
#Yahooニュース
コロナ禍で困窮する人に無償で食料を提供したミラノのパン屋さんがコロナ感染で死去。
店外の籠にパンや菓子を並べ、取りに来た人の列に知人を見つけると恥をかかせないよう姿を消した。
「残り物だと言っていたが、焼き立てのパンも出していた」と顧客。店は娘さんが引き継いだ
Go To Cinemaしてる間にバズっていてびっくり。
亡くなったジャンニ・ベルナルディネッロさんは家計を支えるために12歳で金細工職人に弟子入りし、ファッション写真家を経て縫糸業者に。
1980年代に業界が低迷すると「人々に必要なものを売りたい」と老舗のパン屋で修業し自分の店を構えたそう
無償提供したパンの籠にジャンニさんが添えたメッセージ。
help yourselfだけなら「ご自由にお持ちください」の意味だけど、前後の文脈から「ご自身を助け、他者にも思いを寄せて下さい」と読める。
イタリア語ではどういう表現だったのか。
「人にはパンが必要なのです」という娘さんの言葉も印象的
(返信もぜひお読みください)
11月22日 新井白石が宣教師シドッチを尋問した。 1709(宝永6)年
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
本文は、2019年11月22日の記事に転記していますφ(..)
歴史秘話ヒストリア「戦国に生きた女性 細川ガラシャ 17通の手紙が伝える素顔」を見ていて目が霞みました。
今まで、そうなんだとビックリすることはあったけど目が霞んだのは初めてでした。
番組のブログでは「ガラシャが住んでいた細川家の屋敷跡」を訪ねています。
私も2014年4月9日に大阪城周辺を歩いて屋敷跡や聖マリア大聖堂を訪ねました。第3部 近世
徳川幕府初期の政策(1599―1613)
(前略)
さて幕府は大阪と長崎に限って通商を許し、その覇権確立に勢力を集中していたが、オランダ人の東洋進出に関連してキリシタンの禁教はしても通商はできるという自信をえた。
そして家康自身熱心な仏教徒であり、庶民の多数も仏教に帰依していたので、彼はキリシタン大名、つぎに江戸や駿府のキリシタン直参、それからキリシタン庶民へと圧迫の手をのばした。
(『キリスト教史』藤代泰三 講談社学術文庫 2017年)
イエズス会もその他の修道会も信心を説くとともに慈善事業にも携わったが、宣教師やキリシタンによる病人や難民への給養、ハンセン氏病者の収容、捨て子の収容、朝鮮役のさい捕虜となった朝鮮人の救助は、当時の人々には見なれないことであったので、彼らは宣教師やキリシタンは他に目的をもっている、つまり日本の植民地化をねらっていると解釈した。
慶長年間初期には諸修道会の病院の数は20ないし30であったらしいが、当時仏寺ではそのような設備をしたものは一つもなかったといわれる。
細川忠興夫人ガラシャ(1563―1600)は大阪の自邸で孤児院を経営し、慶長5年の死の時まで続けた。またキリシタンは慈善事業を伝道の方便として用いたとの見解に対して、姉崎博士は、新しい福音を伝える者が無告(むこく)の民の社会的救済に当ったことは当然のことであって、伝道の方便に使ったというよりも、むしろやむにやまれずにした事業というべきであって、このことがわからない者は人間の動き方を知らない者であるといっている。
戦国乱世の日本では社会的救済事業は理解されず、仏僧のなかにはこれに関して讒誣(ざんぶ)した者さえいた。
キリシタンはハンセン氏病の治療所や鉱山や獄舎等の群にはいって伝道と救済に当ったが、慶長年間後半に迫害が激しくなると彼らはそれらの場所に隠れ住んで同様の仕事に励んだ。
またそのような環境のなかでキリシタン相互の助け合いも行った。
姉崎博士は、たとえ来世の信仰によって天上の栄光を保証されていたにせよ、このように無抵抗主義を実行して禁教政策の犠牲となったことは、実に教会の教えが彼らの心に徹していた血の証拠であるという。
天草と有馬の二領では迫害に加えて苛政が施かれ、過重な税の取り立てや圧迫が農漁民に加えられた。
島原の苛税は最も激しく、滞納者から妻や娘を質に取りあげるほどであった。
迫害と残忍な悪政に世界終末の黙示的要素が加わり、浪人も加勢して寛永14年(1637)に天草四郎時貞(1622―1638)を将として島原の乱が起こった。
キリシタンを中心とした軍は老若男女あわせて3万7000人で、海岸の平地にある古城、原城にこもったが、寄手12万5000人(14万5000人ともいう)に包囲され、兵糧攻めにあい、90日間の戦いののちすべて虐殺された。
その間、幕府の依頼によってオランダ船は海上から砲撃したことさえあった。
幕府はこの乱をキリシタンを手先にした外国侵略の現われと考え、寛永17年(1640)に井上筑後守が宗門改役(あらためやく)として全国の禁教政策を統轄した。
こののちキリシタンは明治6年(1873)に禁教の高札が撤去されるまで潜伏した。
宝永5年(1708)に潜入したシドチを新井白石(1657―1725)は尋問し、伝道は必ずしも侵略のためでないことを認めた。
和辻哲郎博士(1889―1960)はその著『鎖国』のなかで、あの当時すでに日本の統一はほぼ完成されていたし、イングランドとオランダの対立もあったから外国による植民地化はありえなかったとし、秀吉や家康の視野の狭さを批判し、もし日本が鎖国をしなかったら日本人の創造力が欧州文化に接触してすぐれた文化を創造していたであろうという(534―548頁)。キリシタン文化
これはキリスト教宣教の初めから江戸時代初期におよぶ約100年間に日本に渡来したキリスト教文化学芸技芸等を指し、のちの鎖国時代のオランダ文化と区別して用いられ、南蛮文化と同義語である(新村出『日本吉利支丹文化史』1頁)。
諸修道会は神学を伝えたばかりでなく、西欧文化学芸技芸を伝達したが、とくにイエズス会の文化活動は日本の文化史上に顕著な足跡を残した。
この修道会は京阪神や九州にコレジヨ、セミナリヨ、ノヴィシャト(修練所)を設置して青年信徒を教育した。
またヴァリニァーノによる活字印刷術の伝来によって、宗教書、文学書、語学書の刊行が促進され、キリシタン文学が生まれるようになった。
芸術面では絵画、彫刻、銅版印刷術、音楽が伝えられた。
さらにキリシタン宣教に伴って西洋科学、すなわち天文学、南蛮医学(外科医術)、地理学、近代兵器、造船術、採鉱冶金(やきん)術が伝えられたが、キリシタン禁制のもとではそれらの普及に制限があった。
また慈善救済事業として教会に付属した病院、孤児院、ハンセン氏病の治療所が設置され、これらの後援団体がキリシタンの間に設けられた。
このような慈善事業は当時の人々に深い感銘を与えた。
南蛮貿易はキリシタン宣教とともに始まった。
ポルトガル人はゴアと天川を、スペイン人は天川をそれぞれの根拠地とした。
宣教師は純粋な動機から宣教にあたったが、南蛮商人は貿易のために宗教を利用することさえしたであろう。
信長時代までキリシタンと南蛮貿易は両立していたが、秀吉は天正15年に教師追放令を発して両者の分離政策をとり、徳川幕府もこれを踏襲した。 また南蛮貿易もキリシタン禁教政策と関連があった。
というのはポルトガル人やスペイン人のほかにオランダ人やイングランド人も渡来して商争が始まり、幕府に相互に誹謗中傷しあい、このことが幕府のキリシタン政策に影響を与えたからである。
姉崎正治(あねざきまさはる)博士(1873―1949)
『切支丹伝道の興廃』同文館、1930。
『切支丹宗門の迫害と潜伏』同文館、1925。
『切支丹迫害史中の人物事跡』同文館、1930。
(いずれもキリシタン研究の貴重な開拓的労作)
(『キリスト教史』藤代泰三 講談社学術文庫 2017年)
今朝の父の一枚です(^^)v
オートフォーカスで撮影しようとすると、枝に邪魔されてなかなかピントが合いません。
それだけにうまく写せると「オーオー」と喜んでいます(*´▽`*)
朝、起きるとすぐに父が「早く行って、早く帰ろう」と言いました。
連休の中日、大阪の感染確認は、連日、最多を記録しています。
高野山町石(ちょういし)道を歩いて六本杉峠より天野の里へ下りて
「貧女の一燈 お照の墓」、丹生都比売神社 (にうつひめじんじゃ)、「西行堂や妻娘の墓」などを訪ねた後、
二ツ鳥居(国の史蹟)に着いたのですが、
雨が降り出したのと胸が痛くなったりしたので上古沢駅から大阪に戻りました。
次は、高野山まで歩きたいなと思いながら発病したので諦めました。
鎌田さゆりさんのTwitterに次は、高野山まで歩きたいなと思いながら発病したので諦めました。
西村コロナ担当相
『神のみぞ知る』は、人事を尽くしてから言う言葉です。
こういう言葉もあります。
天の時は地の利に如(し)かず、
地の利は人の和に如かず
天の神が与える絶好のチャンスも、地理的条件の有利さには及ばない。
しかし、その地の利も一致団結した人の和にはとうてい及ばないということ。
【出典】『孟子(もうし)』公孫丑(こうそんちゅう)・下
(『用例でわかる故事ことわざ辞典』学研辞典編集部 2005年)
「Go Toトラベル・イート 菅首相 感染拡大で運用見直しを表明」(NHK)
だそうですが、国民への説明はないのかな?
なかのとおるさんのTwitterに
安倍晋三的饒舌の方がましだったのではないかと思えると菅義偉的言語能力の低さ。
首相官邸ツイッター 総ツッコミ状態「具体的な対策を発信して」「情けなくて涙」(デイリースポーツ)
#Yahooニュース
官僚の答案用紙ができていないのかな?
junkTokyoさんのTwitterにコロナ禍で困窮する人に無償で食料を提供したミラノのパン屋さんがコロナ感染で死去。
店外の籠にパンや菓子を並べ、取りに来た人の列に知人を見つけると恥をかかせないよう姿を消した。
「残り物だと言っていたが、焼き立てのパンも出していた」と顧客。店は娘さんが引き継いだ
Go To Cinemaしてる間にバズっていてびっくり。
亡くなったジャンニ・ベルナルディネッロさんは家計を支えるために12歳で金細工職人に弟子入りし、ファッション写真家を経て縫糸業者に。
1980年代に業界が低迷すると「人々に必要なものを売りたい」と老舗のパン屋で修業し自分の店を構えたそう
無償提供したパンの籠にジャンニさんが添えたメッセージ。
help yourselfだけなら「ご自由にお持ちください」の意味だけど、前後の文脈から「ご自身を助け、他者にも思いを寄せて下さい」と読める。
イタリア語ではどういう表現だったのか。
「人にはパンが必要なのです」という娘さんの言葉も印象的
(返信もぜひお読みください)
11月22日 新井白石が宣教師シドッチを尋問した。 1709(宝永6)年
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
本文は、2019年11月22日の記事に転記していますφ(..)
歴史秘話ヒストリア「戦国に生きた女性 細川ガラシャ 17通の手紙が伝える素顔」を見ていて目が霞みました。
今まで、そうなんだとビックリすることはあったけど目が霞んだのは初めてでした。
番組のブログでは「ガラシャが住んでいた細川家の屋敷跡」を訪ねています。
私も2014年4月9日に大阪城周辺を歩いて屋敷跡や聖マリア大聖堂を訪ねました。第3部 近世
徳川幕府初期の政策(1599―1613)
(前略)
さて幕府は大阪と長崎に限って通商を許し、その覇権確立に勢力を集中していたが、オランダ人の東洋進出に関連してキリシタンの禁教はしても通商はできるという自信をえた。
そして家康自身熱心な仏教徒であり、庶民の多数も仏教に帰依していたので、彼はキリシタン大名、つぎに江戸や駿府のキリシタン直参、それからキリシタン庶民へと圧迫の手をのばした。
(『キリスト教史』藤代泰三 講談社学術文庫 2017年)
イエズス会もその他の修道会も信心を説くとともに慈善事業にも携わったが、宣教師やキリシタンによる病人や難民への給養、ハンセン氏病者の収容、捨て子の収容、朝鮮役のさい捕虜となった朝鮮人の救助は、当時の人々には見なれないことであったので、彼らは宣教師やキリシタンは他に目的をもっている、つまり日本の植民地化をねらっていると解釈した。
慶長年間初期には諸修道会の病院の数は20ないし30であったらしいが、当時仏寺ではそのような設備をしたものは一つもなかったといわれる。
細川忠興夫人ガラシャ(1563―1600)は大阪の自邸で孤児院を経営し、慶長5年の死の時まで続けた。またキリシタンは慈善事業を伝道の方便として用いたとの見解に対して、姉崎博士は、新しい福音を伝える者が無告(むこく)の民の社会的救済に当ったことは当然のことであって、伝道の方便に使ったというよりも、むしろやむにやまれずにした事業というべきであって、このことがわからない者は人間の動き方を知らない者であるといっている。
戦国乱世の日本では社会的救済事業は理解されず、仏僧のなかにはこれに関して讒誣(ざんぶ)した者さえいた。
キリシタンはハンセン氏病の治療所や鉱山や獄舎等の群にはいって伝道と救済に当ったが、慶長年間後半に迫害が激しくなると彼らはそれらの場所に隠れ住んで同様の仕事に励んだ。
またそのような環境のなかでキリシタン相互の助け合いも行った。
姉崎博士は、たとえ来世の信仰によって天上の栄光を保証されていたにせよ、このように無抵抗主義を実行して禁教政策の犠牲となったことは、実に教会の教えが彼らの心に徹していた血の証拠であるという。
天草と有馬の二領では迫害に加えて苛政が施かれ、過重な税の取り立てや圧迫が農漁民に加えられた。
島原の苛税は最も激しく、滞納者から妻や娘を質に取りあげるほどであった。
迫害と残忍な悪政に世界終末の黙示的要素が加わり、浪人も加勢して寛永14年(1637)に天草四郎時貞(1622―1638)を将として島原の乱が起こった。
キリシタンを中心とした軍は老若男女あわせて3万7000人で、海岸の平地にある古城、原城にこもったが、寄手12万5000人(14万5000人ともいう)に包囲され、兵糧攻めにあい、90日間の戦いののちすべて虐殺された。
その間、幕府の依頼によってオランダ船は海上から砲撃したことさえあった。
幕府はこの乱をキリシタンを手先にした外国侵略の現われと考え、寛永17年(1640)に井上筑後守が宗門改役(あらためやく)として全国の禁教政策を統轄した。
こののちキリシタンは明治6年(1873)に禁教の高札が撤去されるまで潜伏した。
宝永5年(1708)に潜入したシドチを新井白石(1657―1725)は尋問し、伝道は必ずしも侵略のためでないことを認めた。
和辻哲郎博士(1889―1960)はその著『鎖国』のなかで、あの当時すでに日本の統一はほぼ完成されていたし、イングランドとオランダの対立もあったから外国による植民地化はありえなかったとし、秀吉や家康の視野の狭さを批判し、もし日本が鎖国をしなかったら日本人の創造力が欧州文化に接触してすぐれた文化を創造していたであろうという(534―548頁)。キリシタン文化
これはキリスト教宣教の初めから江戸時代初期におよぶ約100年間に日本に渡来したキリスト教文化学芸技芸等を指し、のちの鎖国時代のオランダ文化と区別して用いられ、南蛮文化と同義語である(新村出『日本吉利支丹文化史』1頁)。
諸修道会は神学を伝えたばかりでなく、西欧文化学芸技芸を伝達したが、とくにイエズス会の文化活動は日本の文化史上に顕著な足跡を残した。
この修道会は京阪神や九州にコレジヨ、セミナリヨ、ノヴィシャト(修練所)を設置して青年信徒を教育した。
またヴァリニァーノによる活字印刷術の伝来によって、宗教書、文学書、語学書の刊行が促進され、キリシタン文学が生まれるようになった。
芸術面では絵画、彫刻、銅版印刷術、音楽が伝えられた。
さらにキリシタン宣教に伴って西洋科学、すなわち天文学、南蛮医学(外科医術)、地理学、近代兵器、造船術、採鉱冶金(やきん)術が伝えられたが、キリシタン禁制のもとではそれらの普及に制限があった。
また慈善救済事業として教会に付属した病院、孤児院、ハンセン氏病の治療所が設置され、これらの後援団体がキリシタンの間に設けられた。
このような慈善事業は当時の人々に深い感銘を与えた。
南蛮貿易はキリシタン宣教とともに始まった。
ポルトガル人はゴアと天川を、スペイン人は天川をそれぞれの根拠地とした。
宣教師は純粋な動機から宣教にあたったが、南蛮商人は貿易のために宗教を利用することさえしたであろう。
信長時代までキリシタンと南蛮貿易は両立していたが、秀吉は天正15年に教師追放令を発して両者の分離政策をとり、徳川幕府もこれを踏襲した。 また南蛮貿易もキリシタン禁教政策と関連があった。
というのはポルトガル人やスペイン人のほかにオランダ人やイングランド人も渡来して商争が始まり、幕府に相互に誹謗中傷しあい、このことが幕府のキリシタン政策に影響を与えたからである。
姉崎正治(あねざきまさはる)博士(1873―1949)
『切支丹伝道の興廃』同文館、1930。
『切支丹宗門の迫害と潜伏』同文館、1925。
『切支丹迫害史中の人物事跡』同文館、1930。
(いずれもキリシタン研究の貴重な開拓的労作)
(『キリスト教史』藤代泰三 講談社学術文庫 2017年)
今朝の父の一枚です(^^)v
オートフォーカスで撮影しようとすると、枝に邪魔されてなかなかピントが合いません。
それだけにうまく写せると「オーオー」と喜んでいます(*´▽`*)
朝、起きるとすぐに父が「早く行って、早く帰ろう」と言いました。
連休の中日、大阪の感染確認は、連日、最多を記録しています。
なかのとおるさんのTwitterに
4月の段階での橋下元市長のツイート。
以後半年。
「都構想」などにかまけて、見直しが十分になされていなかったがための吉村知事による『トリアージ』発言ではないのか。
知事の発言を聞いていませんが、
あめふらしさんのTwitterに
救急に勤めている看護師の友達が
「みんなトリアージって簡単に言うけど、命に優先順位つけるねんで!
つける側が、どれだけ心的負担を負うかわかってんのかな。
あれでよかったのかと何日も悩んで寝られへん日が続くねんで。
簡単に言わんとって欲しい」
と怒ってた。
〝大阪知事「病床トリアージやる」 重症者増加で方針〟(産経新聞 11月19日)