2020年11月7日土曜日

土曜日だけど…

予報通りに雨の土曜日。
おかげで人影は少ないです。
雨といっても傘をささないでも歩ける程度でした。
という私は、カメラを濡らしたくないのと風邪をひきたくないので時々さしてました(^_-)

近畿地方では木枯らし1号が10月23日に吹いていますが、今日が立冬

近畿地方で木枯らし1号 去年と比べ12日早い」(NHK 10月24日)
立冬(りっとう)

 暦の上では冬の始まりです。
立冬を迎えるころに吹く北寄りの強く冷たい風が「木枯らし」。
その年の冬に初めて吹く木枯らし1号のニュースが届いたら、気圧配置が西高東低の冬型になった証拠です。
また、11月15日に行なわれるのが七五三。
昔は幼時の死亡率が高く、「七歳までは神のうち」といわれました。
そこで、3歳の男女(髪置きの儀)、5歳の男の子(袴儀)、7歳の女の子(帯解きの儀)の成長に感謝し、お祝いする風習に。
(『イラストで楽しむ日本の七十二候』アフロ 森松輝夫・絵 中径出版 2013年)
鳥飼玖美子さんのTwitterに

米大統領選での敗北宣言concession speechでは、候補者の人間性が如実に表れます。
ゴアの演説は非常に立派だったし、ヒラリー・クリントンの敗北宣言は涙が出るほどの名スピーチでした。

11月7日
 建武(けんむ)式目がつくられた。 1336(延元<えんげん>元、建武3)年

 1336年、戦いに敗れて京都から九州におちた足利尊氏(たかうじ)は、軍勢を整えて博多を出発し、6月14日京都に入った。
後醍醐(ごだいご)天皇は比叡山に逃れたが、形勢不利のため11月2日、尊氏のたてた光明(こうみょう)天皇に三種の神器を譲った。
その5日後のこの日、尊氏は建武式目を定めた。
 それによると尊氏は、当時幕府を鎌倉と京都のどちらに開くべきかをまだ決めていなかったことがわかる。
しかし諸国の戦乱が止まないこの時にあたって、北条義時(よしとき)・泰時(やすとき)の武家全盛時代、さらにさかのぼって醍醐・村上天皇の時代を模範として善政をおこなうことを基本方針として、17カ条の具体策をあげている。
 尊氏が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になるのはこの2年後であるが、この式目制定をもって室町幕府の成立とするのが普通である。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
室町幕府の誕生」(小学6年)

日本の歴史11 太平記の時代』より「『北朝』の擁立」を転記しますφ(..)
第3章 将軍足利尊氏
 3「伝統」への回帰
 「北朝」の擁立


 建武3年(1336)8月15日、光厳(こうごん)上皇の命によって豊仁(とよひと)親王の元服の儀と、引き続き「伝国の宣命(せんみょう)」をもって践祚(せんそ)の儀が行なわれた。
すなわち光明(こうみょう)天皇である。
しかし、剣・玉・鏡のいわゆる「三種(さんしゅ)の神器(じんき)」は後醍醐が携えて坂本に在るため、この践祚の儀は「剣璽渡御(けんじとぎょ)」の儀を伴わぬものであり、「寿永(じゅえい<後鳥羽>)・元弘(げんこう<光厳>)の例」に準拠を求めて行われた。
(『日本の歴史11 太平記の時代』新田一郎 講談社学術文庫 2009年)
皇位の象徴としての「三種の神器」を皇位継承に不可欠の要素とし、神器授受を欠いた践祚を欠格とする批判は、やや後に北畠親房(きたばたけちかふさ)の『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』によって唱えられ流布したもののようだが、この光明天皇の践祚が、ことさらに先例を求めねばならぬ変則の事態であったことは確かのようである。
そうした変則的な儀式を経てのことではあったが、同日、後醍醐によって停止されていた関白(かんぱく)の職が復活し、左大臣近衛経忠(このえつねただ)がその任に就くなど、公家の政務のありようは、「後醍醐以前」へと急速に回帰してゆく。
 だが、ここへ至っても尊氏はなお、後醍醐との融和の途(みち)を求めていた。
後醍醐に使者を送って帰洛を促し、ついに10月10日、後醍醐はこれに応えて下山し、京都に帰還した。
天台座主を務めていた後醍醐皇子尊澄(そんちょう)法親王は逃れて北畠親房とともに伊勢に下り、代わる座主には後伏見皇子尊胤(そんいん)法親王が補任された。
後醍醐はこの講和の交渉を独断で進め、帰洛直前になってそれを知らされた新田義貞(にったよしさだ)らが猛反発したため、後醍醐は皇太子恒良(つねよし)親王に皇位を譲り、尊良親王とともに義貞に供奉(ぐぶ)させ、北陸道を経て東国方面に脱出させることを図った、と『太平記』は伝える。
この年11月12日付で尊氏・直義の追討を命ずる常良の綸旨(りんじ)が発せられており、この譲位は事実であったと見られる(森茂暁『太平記の群像』角川書店、1991年)。
これは、義貞を宥(なだ)めるための策とも言われるが、あるいはむしろ、一時的な講和の破綻(はたん)の後を見越した後醍醐の布石であったかもしれない。
 さて、後醍醐と尊氏の間の講和の条件等については、直接に示す史料が伝わらず、後の経緯から推測する他はない。
11月2日、後醍醐は光明に神器を譲り渡して譲位の形を整え、後醍醐には太上(だいじょう)天皇の号が贈られ、14日には後醍醐皇子成良(なりよし)親王が皇太子に立てられた。
成良はかつて直義に伴われて鎌倉に滞在したこともあり、「本(もと)ヨリ尊氏養ヒ進セタリケレハ」と『保歴間記(ほうりゃくかんき)』は説明する。
政務は引き続き光厳上皇が執っている。
どうやら、鎌倉末期の両統迭立(てつりつ)をモデルとして、両統の融和が図られたもんと覚しい。
後醍醐自身は花山院第(かざんいんてい)に軟禁の身となった。
なお、この時に授受された神器は偽器であったとする説があり、後にさまざまな問題の種を残すことになる。
 かくして、光明天皇の治世、光厳上皇による執政という形で、京都の公家社会の情勢がいったん収束をみたころ、尊氏・直義のもとでは、武家政権のあり方をめぐって重要な議論が展開されていた。
これにつき、儒者や実務官らによって11月7日付で提出された答申が『建武式目(けんむしきもく)』である。
これはしばしば「室町幕府の基本法」といわれ、中世後期には鎌倉幕府の『御成敗式目(ごせいばいしきもく<貞永(じょうえい)式目>』)と並称され、「貞建之(じょうけんの)式条」と表現されている。
全体は二つの部分に分かたれ、第一の部分では、武家政権を前代のように鎌倉に置くべきかどうかが問題とされ、第二の部分では、政務に関わる基本姿勢や当面する問題への対処について語られている。
ここではまず、第一の部分を取り上げる。
 答申は、まず大略こう述べる。
「移転はなにかと手間であるうえ、鎌倉は武士にとって吉土であり、本拠とするにふさわしい地である。北条氏が滅びたことを凶例とする者もあるが、それは驕(おご)り高ぶった北条氏の悪政の故(ゆえ)であり、政権の興廃は政道の善悪による」。
それでは鎌倉を是とするかと思いきや、一転して「ただし諸人が移転を望むのであれば従うべきだ」と結ぶ。
結論を出しているようで出していない、この不思議な答申について、笠松宏至氏は、公家社会から距離を置いた鎌倉に独立性の高い政権を樹立することを望む直義と、むしろ京都に親近感を持つ尊氏との間の方針の違いを反映を、見出しうるとしている(『日本中世史を見直す』平凡社 1999年)。
答申の原案作成は、直義の意向の強い影響下で行なわれたが、しかし最後の最後で尊氏への配慮が働いたのではないか、というのである。
 直義と尊氏のスタンスの違いや、尊氏が京都を選んだ理由については、さまざまな説明が試みられてきたが、要は、尊氏や直義、あるいはそれぞれを戴(いただ)く武士たちが、京都を中心とした構造の中に自分たちをどのように位置づけるのか、朝廷という存在についてどのようにコミットしてゆくのか、とう思惑の何如(いかん)に帰着する。
そうした政治的な思惑の差違が、荘園(しょうえん)公領制に対するコミットのしかたの違いと絡み合い、やがて大きな変動をもたらすことにもなるのである。
 ただ、いずれの志向を持つにせよ、光厳院政と光明践祚の実現を実質的に主導し、京都をめぐる軍事的抗争の当事者として行動してきた以上、この時点での足利勢力が、望むと望まざるとにかかわらず、京都の秩序維持に深く関与せざるをえなかったことは、間違いない。
 『建武式目』の第二の部分は、倹約の励行や「群飲佚遊(ぐんいんいつゆう)」(大勢が集って飲酒饗遊に耽<ふけ>ること)の制止に始まり、主として京都市中の秩序維持に関する事項が掲げられている。
現に京都に在ることを前提に、武士による種々の狼藉(ろうぜき)の停止や、後醍醐に従って山門に赴いた者の処分の軽減など、建武3年11月という特定の時点における懸案処理についての提言を含む一方で、吏僚の選択規準や規律、寺社・諸人の訴訟の扱いの心得などといった政務遂行上の規範に触れた箇条もある。
足利氏は事実上、京都の政務の担い手として、自らを位置づけ、表現することになったのであり、室町幕府の実質的な成立の時期をここに求める研究者が多い。
(『日本の歴史11 太平記の時代』新田一郎 講談社学術文庫 2009年)