2020年11月15日日曜日

11月15日は…

青空が広がっていて暖かな朝でした。
駐車場は、日曜日だということもあって満車に近いほど…
3歳位かな?可愛い男の子、バイバイと言いながら手を振ってくれました(*´▽`*)
今日は、七五三を祝う親子がお詣りしているのでしょうね。

感染対策の中での七五三参り」(関西NHK)
(前略)
 各地の子供の成長の祝いをみると、同様の行事が地方によって異なる年齢で、別々の機会に行なわれている場合が少なくない。
これは、三歳・五歳・七歳の祝いを揃って11月15日に行なう風習がもとはなかったことを示している。
子供の成長の祝いは、衣服や髪型で成長の段階を表示し、贈答を行なったり庇護者を頼んだりすることで子供をとりまく社会関係を明らかにし、その人生を周囲に認めさせることが本来の目的であった。
氏神への参詣は子供がその社会で認められたしるしである。
行事の日どりも神仏に関連したハレの日であればよく、祭日や正月が選ばれたのはそのためで、11月15日という日どりも、本来は秋祭りの時期に由来したものと考えられる。
(後略)
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
11月15日
 坂本竜馬(りょうま)・中岡慎太郎(しんたろう)が京都見廻組(みまわりぐみ)に暗殺された。 1867(慶応3)年

 この日夜9時ごろ、京都見廻組の佐々木雄三郎・今井信郎ら7人は、河原町三条下ル蛸薬師角(たこやくしかど)の坂本の下宿先近江(おうみ)屋に赴いた。
7人は、とりついだ下男藤吉を後から斬りつけると、母屋(おもや)に2階にあがり、夕方から話しこんでいた坂本と中岡をおそった。
突然だったので、刀を取る間もなく、竜馬は頭を斬られ即死、慎太郎は十余カ所に傷を受け、17日夕方に死んだ。
二人は土佐藩出身の討幕派のリーダーとして大活躍をしていたために、幕府の刺客(しかく)にしつこくねらわれていた。
慎太郎は29歳、竜馬はこの日が32歳の誕生日だった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)
坂本龍馬」(中学・高校)

2019年11月15日の記事に『幕末歴史散歩 京阪神篇』より
坂本龍馬・中岡慎太郎の葬儀」を転記しました。
幕末維新人物事典』より「中岡慎太郎」を転記しますφ(..)
中岡慎太郎(なかおかしんたろう)
1838~1867(天保9~慶応3)
■出身地=土佐国(高知) ■父=中岡小伝次 ■母=初
■通称=福太郎・光次 ■諱=道正 ■雅語=迀山・遠山 
■変名=石川誠之助など ■墓=京都市東山区・霊山

 龍馬を救(たす)け、龍馬と死んだ誠実の人

 中岡慎太郎は土佐・安芸(あき)郡北川郷の大庄屋(おおじょうや)・中岡小伝次の長男である。
 生まれたのは天保9年(1838)4月13日、坂本龍馬より3歳年下で、幼少時はほとんど愚鈍(ぐどん)に近かった龍馬とちがって、近在の寺や医者に読み書きを学んだが、その会得(えとく)ぶりはめざましく、周囲の人々の耳目(じもく)をそばだてるものであったという。
(『幕末維新人物事典』泉秀樹 講談社+α文庫 1997年)
 高知城下・江ノ口に塾を開いていた憂国(ゆうこく)の学者・間崎滄浪(まざきそうろう<哲馬>)に学問を学び、土佐勤王(きんのう)党を結成した武市半平太(たけちはんぺいた)に剣を学んで、両者から大きな影響をうけた。
 慎太郎は二十歳のとき庄屋見習いとなり、万延(まんえん)元年(1860)に安芸郡が飢饉(ききん)になると、家老宅の門前に座りつづけ、備蓄米を放出してもらって農民を助けた。
 誠実な人柄で、農民を困らせないようにすることを使命とし、それはやがて国家単位の救民の思想に育っていったのである。
 文久(ぶんきゅう)2年(1862)10月、慎太郎は侍ではないにもかかわらず、藩主・山内容堂(やまのうちようどう)の身辺護衛を名目に勤王党の同志とともに藩庁の許可も得ずに江戸に出た。
 そして、その篤実(とくじつ)な人柄によって、志士としての名はしだいに高まっていき、長州・久坂玄瑞(くさかげんずい)、信州・佐久間象山(さくましょうざん)などと交流を深めた。
 容堂も慎太郎を抜擢(ばってき)し、翌文久3年(1863)2月には徒目付(かちめつけ)に登用、他藩との応接掛をやらせようとした。
 挙藩勤王。
 慎太郎は半平太とともにその路線を突き進み、しかし、挫折する。
 8月18日の政変で長州が追い落とされ、吉村寅太郎(よしむらとらたろう)らの大和五条(やまとごじょう)の挙兵は敗北し、容堂が半平太を頂点とする土佐勤王党を弾圧しはじめたためである。
 こうなっては、慎太郎は土佐にはいられない。
 脱藩して長州・三田尻(みたじり)の招賢閣(しょうけんかく)の客員になった。
 招賢閣は慎太郎のように藩を追われた者が集まる長州藩の脱籍者の収容施設で、そこには同じ土佐の土方久元(ひじかたひさもと)、田所壮輔(たどころそうすけ)、肥後(ひご)の宮部鼎蔵(みやべていぞう)、久留米の真木和泉(まきいずみ)、津和野の福羽美静(ふくばびせい)など、そうそうたる志士たしが集まっていた。
 慎太郎は招賢閣を根城(ねじろ)に三条実美(さんじょうさねとみ)ら七卿(しちきょう)や長州藩主のために諸藩に働きかけたり、京都に潜入して古高俊太郎(こたかしゅんたろう)と接触したりした。
 この俊太郎が新撰組に捕らえられたことから池田屋騒動が起こったが、このとき慎太郎は三田尻に帰っていて、難をまぬがれた。
 そして、池田屋に倒れた同志の死をムダにしてはならないと主張して真木和泉らと上洛(じょうらく)、ついには禁門(きんもん)の変に発展するが、このとき慎太郎は足に敵弾をうけただけで、命拾いした。
 慶応元年(1865)5月、慎太郎は坂本龍馬とともに薩長同盟を実現させるべく、活動を開始した。
 慎太郎は西郷隆盛をつれて下関へ行き、そこで桂小五郎(かつらこごろう<木戸孝允(きどたかよし)>)と合わせようとした。
ところが、隆盛の都合によって会合が流れ、小五郎は激怒した。
 しかし、慎太郎は龍馬とともにねばり強く努力をつづけ、慶応2年(1866)1月21日、京都の薩摩藩邸において薩摩側は西郷隆盛、小松帯刀(こまつたてわき)、長州側は桂小五郎、そして龍馬同席のうえ、薩長同盟を実現にこぎつけた。
 また、慶応3年(1867)7月には龍馬の「海援隊(かいえんたい)」と足なみをそろえて「陸援隊(りくえんたい)」を組織し、隊長に就任して倒幕挙兵にそなえた。
 同年11月15日、慎太郎は京都・河原町に隠れ棲(す)んでいた龍馬を訪ね、倒幕挙兵の時期について相談した。
 激しい議論が行なわれたが、話が一段落して鶏ナベでもつついて一杯やろうということになった夜9時前後、刺客(しかく)の急襲にあった。
  龍馬はほとんど即死、慎太郎は2日後の17日夜に死んだ。
享年三十歳。
(『幕末維新人物事典』泉秀樹 講談社+α文庫 1997年)
今朝の父の一枚です(^^)v
母が、出会うのを楽しみにしていたハクセキレイ

公園に来ると別々に歩き、途中、コーヒータイム。
最後は、駐車場で落ち合います。
いつも先に戻っている父が珍しく遅かったので聞くと、膝が痛くてゆっくりしか歩けなかったそうです。
膝などに痛みがあっても歩き続けています!
そういう私も毎朝、なんらかの体調不良を感じるけど
家にいるとなおさら不安になるのでリハビリに出かけています。

昨日は、画像ソフトを探しに行っていました。
画像ソフトで、作業しているのは初歩的なことなので、新しい機能はいらない(使っていない)のだけど、重たい。

XPの時から使っていた他のソフトも先日のアップデートで使えなくなった…
いつも文書を作製するのにアクセサリーのワードパッドやメモ帳を使っているのだけど、それさえも文字変換の反応が重くなっている。
XPからVistaになった時のようだ…(-_-;)
現役ならパソコンを買い替えるのだけど、年金生活で、仕事にも必要がない状況では、我慢するしかないかな…