風が強く、一気に冬になったと感じました。
今日から三連休のところもあって、公園では、花博30周年記念イベントが開催されていました。
先週も人出が多かったのですが、今日はさらに増えそうなので急いで帰りました。
「3連休初日 東京駅 各地に向かう多くの観光客の姿も」(NHK)「関西フィル 練習拠点を門真に」(関西NHK)
関西を代表するオーケストラの一つで、来月、結成50周年を迎える関西フィルハーモニー管弦楽団は、
新型コロナウイルスの感染拡大の影響で公演が相次いで中止になるなど財政状況が厳しくなる中、
大阪・港区の事務所と練習拠点の賃料の値上げを求められ、移転先を探していました。
このような状況なのに相変わらず大阪市は、文化を守ろうとしないのだな…
「NY名物のクリスマスツリー、小さなフクロウがヒッチハイク」(CNNニュース 11月20日)
サンタさんのような顔をしていてかわいい(*´▽`*)
早く森に帰られるといいね!
11月21日 東北地方の娘身売りを防ぐための基金が設けられた。 1934(昭和9)年(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)
2019年11月21日の記事に転記しています。
『B面昭和史 1926-1945』より「明るい話題の背後で」を転記しますφ(..)
第3話 束の間の穏やかな日々――昭和8~10年
明るい話題の背後で
ものをかくというのは妙なもので、いささかなりとも明るい話題をならべていると、筆もいつかのんびりとした調子になる。
これまでのように国民的窮乏をつづけて説いていると悲壮味をましてくるが、この昭和9年の安穏無事の世の諸相を語っていると、とくに意識しないのについつい楽観的になって、暗い話を忘れそうになる。
それで慌ててかくことになる。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年) じつは、この年は東北地方を中心に、悲劇的な凶作に見舞われた年であったのである。
米の予想収穫高は凶作であった前年にくらべてもさらに1割6分の減収で、大正2年(1913)につぐ大凶作と、11月3日の東京朝日新聞が報じていた。
「栄養価ゼロでも食べねばならぬ。草木に露をつなぐ この世の地獄 冷感地」と、同じ日の紙面は東北地方の現状を伝えている。 当然のことに、また昭和6年同様に娘の身売りがはじまっていた。
出稼ぎは5万8千人、その多くは芸者や娼婦、女給になった。
悪周旋屋にだまされ、女給は15円、娼婦は50円という金で売られたという。 ・木の実と草の根を食ひ飯食はぬ人らは黒き糞たれにけり
・貧しさはきはまりつひに歳ごろの娘ことごとく売られし村あり
山形出身の歌人結城哀草果(ゆうきあいそうか)の歌である。
悲惨はまだつづいていた。
景気がよくなった、といっても、昭和史の原点の一つにしばしばの飢饉があったことはやっぱり否定できない。
この貧しい農村出身の兵に多く接することのあった陸軍の青年将校が、これを国家存亡にかかわる重大事と切々としてその身に感じていたのである。
そしてそれが二・二六事件へ、いや、やがては国民総力をあげての大戦争へとつながる導火線になったこと、いささか早すぎるがやはり知っておく必要がある。
ただし、それがすべてではないが。 ところが、都会のミルクホールや喫茶店で一休みし、少々生活的に余裕のできた人びとは、そんな身に迫るようなことを話題にはかならずしものせていなかったのである。
当時の民衆は、いまよりも政治や経済や社会に関心がなかった。
というより、ちょっと豊かになったとはいえ、明日の保証はまだ不確実、やっぱりあまり身近でない話題はすぐ消えていってしまう。 なぜなら、情報はそれほど早くかつ詳細にひろがることはなかったし、それに都市と地方との距離感はいまとまったく違う。
なるほど、この年の12月1日に殉職者67名もだした難工事の丹那トンネルが貫通し、東海道線が御殿場を回らずに熱海から沼津へ直通して走るようになった。
それでも特急「つばめ」は東京―大阪間が8時間もかかったのである。
ましてや東京から青森まで行こうとすれば、いまのニューヨーク直行便の飛行機よりも時間がかかった時代である。 そして電話。
いまのように日本じゅうどこでも即時通話という時代と違って、このころは他府県にかける電話はそれぞれの電話局を通して、交換台経由でつないでもらうのに、早くて2、3時間、遅ければ半日近くかかった。
情報の伝達のスピードがまったく違うのである。 ミルクホールの老若男女の客たちが、昭和史を彩るこの年のさまざまな事件、1月の共産党リンチ事件、3月の時事新報社長の武藤山治(さんじ)射殺事件、5月の〝海軍の神様〟東郷平八郎元帥の死去、9月の室戸台風、11月の満鉄の特急「あじあ」号の運転開始などを新聞が報じても、ホー、そうかいと一時は話題にしても、すぐに忘れていってしまう。
つまりは直接のいまの生活との距離があまりにも遠いゆえ、それも当然のことであったといえる。
それに東北の飢饉は、いわば毎年のこと、だからといって自然災害はどうにもならず、さして重大視するに及ばずといった空気が世を支配してもいた。
それが青年将校たちには我慢ならなかった。
たしかにいまになると、ミルクホールの客たちが真剣に憂えなければならない重大事も、たしかに官報や新聞で報ぜられていたのである。
くわしくかくのはB面から大きく逸脱することになるし、A面的概観をこの章のはじめにかいている。
でも、やっぱり外すべきではないと思うので、年表式にただ何事が起こったかだけをならべる。 「8月6日、陸軍省、在満機構改革原案を発表。
20日、拓務省原案を発表。
9月12日、在満機構改革をめぐり陸軍省・拓務省の対立により、関東省全職員総辞職を決議。
14日、閣議、在満機構改革案を承認。
10月7日、拓務省の全員、改革案反対の具申書を提出。
12月26日、対満事務局官制公布。
陸相林銑十郎が総裁を兼任。
これにより在満機構改革問題終結する」
要するに、陸軍が軍刀をガチャガチャと鳴らして、横車を押し通したという話なのである。
新国家の満州帝国とまともにつき合うのは外務省の仕事、関東州(大連・旅順)をあらためて満州帝国から租借するのであるからそれは拓務省や大蔵省の仕事。
それらをすべて実質的に陸軍が統括することとなると、満州は「陸軍の領土」のようになってしまう。
それで拓務・外務・大蔵三省の役人が「それはいかん、いままでどおりわれわれの仕事に」と反対したのである。
しかし陸軍は一歩も譲る気はない。
ついに「関東省全職員〔右の三省の役人〕総辞職」となる。
およそ日本近代史はじまっていらいの奇想天外の大騒動。
でも、陸軍は断固として引かなかった。
そして見事に勝利をおさめた。
いまになると「軍の横暴」とか「陸軍の横車」とかあっさりという。要するに、陸軍が軍刀をガチャガチャと鳴らして、横車を押し通したという話なのである。
新国家の満州帝国とまともにつき合うのは外務省の仕事、関東州(大連・旅順)をあらためて満州帝国から租借するのであるからそれは拓務省や大蔵省の仕事。
それらをすべて実質的に陸軍が統括することとなると、満州は「陸軍の領土」のようになってしまう。
それで拓務・外務・大蔵三省の役人が「それはいかん、いままでどおりわれわれの仕事に」と反対したのである。
しかし陸軍は一歩も譲る気はない。
ついに「関東省全職員〔右の三省の役人〕総辞職」となる。
およそ日本近代史はじまっていらいの奇想天外の大騒動。
でも、陸軍は断固として引かなかった。
そして見事に勝利をおさめた。
そのそもそもはこのときにはじまったのではないか。
そう判断したくなってくる。
その陸軍の陸軍省新聞班が軍事啓蒙のためにつくったパンフレット「国防の本義と其(その)強化の提唱」が一般に配布されたのが10月1日。
このことについてもちょっとふれておく。
要は、第1次世界大戦の教訓から、これからの国防を考えるとき、あらゆる物的資源、人的資源、その全総力をあげて戦争に奉仕させねばならぬ、と恐れげもなく宣言したのである。
「たたかいは創造の父、文化の母である」
という文句はいまでは有名であるが、当時はどうであったか。
パンフレットのお終いに私製はがきがついていて、それに意見をかいて陸軍省に送付できるようになっていた。
今日にいう「民意を問う」という当時にあっては異例の形をとっていたが、さて、意見をかいてだした人がいたかどうか。
おそらくはほとんどいなかったのが実情であろう。 景気がちょっと上向きになると、民草はずは一安心と「日本の明日」に大いに期待をかける。
そんなときミルクホールで天下国家を論ずるよりも、万事はお上(かみ)にお任せ、もっぱら自分たちの生活への関心で話は大いに盛り上がるものである。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)
今朝の父の一枚です(^^)v
エナガとシジュウカラの混群と出会っていました。
忙しく動き回るので写すのに苦労していたようです(*´▽`*)
坂本史衣さん曰く
微熱や鼻水程度なら人にうつさないでしょ。
検査で陰性なら感染してないでしょ。
こういう油断をついてくる厄介なウイルスだという認識を、改めて全ての医療・介護従事者と共有しながら難局を乗り越えたいと思います。