午前中は、父の歯科通院の運転手をしていました。
公園に着くと、お弁当の時間でした(*´▽`*)
天気予報では、晴れだったけど…
「11日も日中ヒンヤリ」(えりの気象日記 11月10日)朝、5時前に起きて、Windowsのアップデートがあったなと思ってPCを起動
時間がかかっても3時間くらいかなと思ったけど
なんのなんの延々と続き、午後5時を過ぎて終了したのはいいのだけど画面が真っ黒になったまま…
何度か強制終了させて電源をつけたりしていました。
諦めてしばらくほっておくと作業ができるようになったけど入力の反応が重い…
メモリ不足になっているのかな?(^^;長谷川義史さんのTwitterに
そうでした。
今日は11月11日「いいからいいから」の日です。
だれが決めてん?自分で決めましてん。まぁいいからいいから。
『いいからいいから』(絵本館)
好きな絵本です(*´▽`*)
11月11日
大槻玄沢(おおつきげんたく)らが芝蘭堂(しらんどう)でオランダ正月を祝った。 1794(寛政<かんせい>6)年
江戸京橋水谷町(みずたにちょう)の芝蘭堂にあつまった若い蘭学者たちは、この日を西暦1794年の元旦として、医学の祖、ギリシアのヒポクラテスの像をかざり、ナイフやフォーク、コップで食事をし、洋酒をたのしみながらオランダ正月を祝った。
ほんとうはこの日は1795年の元旦だった。
この日、玄沢の家に28人がつどい、大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)も招かれていた。
市川岳山(がくざん)のかいた絵に、参加者は思い思いのよせがきをし、大槻玄沢は、「科学的な医学を大いに勉強し、この西暦の正月を心をあらたにして今年もがんばろう」
と参加の弟子たちにはげましのことばをかいた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
「蘭学の広まり」(小学6年)
蘭学について『日本の歴史6 江戸時代』より「中央・地方の蘭学者たち」と、
『病が語る日本史』より天然痘の「種痘の伝来」を転記しますφ(..)
第4章 江戸時代後半の文化
中央・地方の蘭学者たち
徳川吉宗は、享保の改革の一環として殖産興業への関心をもち、1740(元文<げんぶん>5)年に青木昆陽(あおきこんよう)、野呂元丈(のろげんじょう)の二人にオランダ語を学ばせた。
この政治上の要請と、民間社会の強い好奇心と親試実験の期待に動かされて、本格的な蘭学研究が始まった。
杉田玄白(すぎたげんぱく)・前野良沢(まえのりょうたく)・中川淳庵(なかがわじゅんあん)・桂川甫周(かつらがわほしゅう)らによる人体解剖書の翻訳が1771(明和<めいわ>8)年に着手され、『解体新書(かいたいしんしょ)』(4巻)の出版に結実した。
(『日本の歴史6 江戸時代』深谷克己 岩波ジュニア新書336 2000年)
この翻訳事業は、医学と蘭学の両面に大きな刺激をあたえた。
宇田川玄随(うだがわげんずい)は杉田玄白・桂川甫周に、大槻玄沢(おおつきげんたく)は前野良沢・杉田玄白に蘭学を学び、杉田家・桂川家と並ぶ江戸の蘭学四大家(したいか)と称されるようになった。
玄随は最初の西洋内科書『西説内科撰要(せいせつないかせんよう)』を訳述し、大槻玄沢は『蘭学階梯(らんがくかいてい)』を著し、蘭学者としての地位を固めた。
同じ頃、長崎の通詞(つうじ)がオランダ語研究を本格的に行なうようになり、その中から志筑忠雄(しづきただお)らの蘭学者が輩出した。
蘭学の主流は江戸に発したが、宇田川・大槻らの門下から出た人々は、京都・大坂をはじめ諸地方へ広がっていった。
さらにそこから在村在町の蘭学系医療者を生んだ。
蘭学を研究した人々は、桂川甫周などを除けば、多くは地方の藩医や民間の学者たちであった。 公儀も蘭学の認識を改め、1811(文化8)年、天文方に蕃書和解(ばんしょわげ)御用の1局を設け、馬場佐十郎(ばばさじゅうろう)・大槻玄沢を訳員に任じ、オランダ書籍を翻訳させた。
二人はショメルの百科全書の蘭訳本の重訳に着手した(『厚生新編(こうせいしんぺん)』)。
また当時のオランダ商館長ドゥーフが長崎のオランダ通詞数人とともにハルマの蘭仏対訳辞書の和訳を試み、その第一稿が成り、蘭日辞書『長崎ハルマ』ができあがった。
この時期、蘭学者は医学書だけでなく、志筑忠雄『暦象新書(れきしょうしんしょ)』、帆足万里(ほあしばんり)『窮理通(きゅうりつう)』、青地林宗(あおちりんそう)『気海観瀾(きかいかんらん)』、川本幸民(かわもとこうみん)『気海観瀾広義(きかいかんらんこうぎ)』、宇田川榕庵(うだがわようあん)『舎密開宗(せいみかいそう)』『植学啓原(しょくがくけいげん)』など、天文学・地理学・物理学・化学・植物学の西洋学術の新知識を日本にもたらした。
(『日本の歴史6 江戸時代』深谷克己 岩波ジュニア新書336 2000年)
7 天然痘と種痘
3 種痘の伝来
痘瘡(とうそう)が一度かかれば二度とかからないことを、人々はかなり昔から知っていた。
それで、子供に痘瘡を軽くすませて、免疫を得ようとする考えが古くからあった。
種痘である。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)
種痘の淵源(えんげん)は中央アジアであろうといわれる。
それが東西の二方向に分かれて、世界に広まっていった。
東に向かったものは、中国の宋の時代に人痘接種法として行われ、明(みん)代に入って、大々的に広く行われるようになった。
西に向かったものは、トルコで広まり、そこから英国に伝わり、ヨーロッパに広まった。
日本に中国から種痘法が伝わったのは、江戸中期、延享(えんきょう)元年(1744)、中国の李仁山(りじんせん)が長崎に来たときであった。
人痘種痘法は痘瘡に病んでいる病人の発疹から漿液(しょうえき)を取り出して、それを未感染の子供に植える方法と、痘瘡の患者が着ていた衣服を着る方法、瘡蓋(かさぶた)を粉にして、それを未感染児の鼻に吹き込む方法であった。
この方法は、やがて筑前(ちくぜん<福岡県>)秋月藩の緒方春朔(おがたしゅんさく)によって研究され、寛政(かんせい)年間(1789~1801)に、安全性を高めた人痘接種法として完成した。
これは、九州を中心に広まり、かなり良い成績を挙げていたが、ジェンナーの種痘法が日本に入ってきたあと、それに取って代わられたのであった。
緒方春朔が人痘接種法を完成させていたころ、イギリスでジェンナーが牛痘接種法を開発していた。
イギリスではトルコから伝わった人痘接種法が行なわれていたが、種痘による事故が多く、ジェンナーがそれを憂慮して、人痘を牛痘にかえた安全な種痘法、すなわち、牛痘種痘法を1796年に発明したのである。
牛痘種痘法が日本で実施されるようになるのは、嘉永(かえい)2年(1849)であったが、それより早く、種痘法の情報が伝わっていた。
第一は、享和(きょうわ)年間にオランダ商館長ズーフから西洋の情報として伝えられていた。
第二は、文化10年(1813)に、松前に帰ってきたロシア漂流民中川五郎治が、ロシアからジェンナーの種痘書を持ち帰ったときであった。
第三は、文政元年(1818)、浦賀に英国軍艦が来たとき、通訳にあたった馬場佐十郎に英国人将校が、ジェンナーの種痘法について語り、痘苗(とうびょう)を見せたときであった。
第四は、文政6年(1823)にシーボルトが来日したときであった。
シーボルトは痘苗をもってきて、種痘を行ったが、長い船旅に間に痘苗が腐敗して、無効になってしまっていた。
かくして、ジェンナーの牛痘法はすばらしいという情報が伝わり、とくに蘭学者は、牛痘の痘苗が無事に日本にもたらされることを切望していた。
しかし、シーボルト事件のあと、一時、オランダ商館はオランダ人医師の来日を見合わせていた。
そのために痘苗がくるのが遅れて、嘉永(かえい)2年(1894)にはじめて有効な痘苗が到着した。
ジェンナーが牛痘接種法を発明してから50年余がたっていた。
待ちに待った痘苗に、蘭方医や人痘種痘をしていた医師は興奮を隠せなかった。
7月に長崎、佐賀で成功した種痘法は、急激に全国に普及し、その年の暮れには各地で実施されるようになった。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)
父の治療が終わるまで待合室で読んでいたのが『世界 2020年12月号』
読みながらマスコミの情報に振り回されているなと思いました。
「ファッショの構図を読み解く――本丸は学術会議潰し、そして…… 保阪正康×上野千鶴子」より一部を紹介すると
(前略)
□人文社会学系への攻撃
上野
任命拒否された6人は、学術会議の三部会のうち人文・社会科学系の第一部に所属し、かつ憲法学者と法律学者が3人含まれています。
もともと法学委員会は十数人ですから、そこから3人抜けるのは大きなダメージです。
また加藤陽子さんは有名な日本近代史研究者ですが、非常に穏健な方です。
前天皇の信任が厚く、何度もご進講に招かれています。
ネットでは、政権はその事実を知らなかったのではないかという話が流通していますが、私は逆だと思います。
前天皇は最大の憲法擁護者で、というのもご自分たちの根拠が憲法ですから、そのもとで皇室制度を見事に守った。
その憲法擁護者の前天皇を安倍政権は煙たく感じていたはずです。
保阪
私はネットを見ないのでその意見は知りませんでした。
穏健な人から狙ってくるというのも戦略でしょうね。
私も作家の半藤一利さんと何回か平成の天皇ご夫妻にお会いして長時間、歴史談義を交わしています。
加藤陽子さんと三人でお会いしたこともありました。
そのときの様子を拝見しても感じたのですが、加藤さんは非常に実証主義的で、右とか左という立ち位置の人ではありません。
(後略)