着いた時は寒いかなと思っていたけど、歩いていると汗が出そうになり一枚脱ぎました。
空を見ると洗濯板みたいな雲(巻積雲)。
「暖かいのは27日まで 28日から寒く」(えりの気象日記 11月26日)中満泉さんのTwitterに
素敵。
これから行政の場で多くの人々の人生を変えて下さいますように。
ご活躍をお祈りします。
〝児童養護施設で育った女性が厚労省に入った。信念は「出会いで人生が変わる」〟(HUFFPOST 11月26日)
気になるのが「眠らない官僚」(霞が関のリアル NHK)でも報告されていますが、過労死寸前の職員たちがいる。
そのために
〝若手キャリア官僚退職4倍以上に 加藤官房長官「環境整備必要」〟(NHK 11月20日)
Shoko EgawaさんのTwitterに
今日も「会見偽装」が続く。
仕込みの質問に答える場面を演出し、そうでない質問は無視。
内閣記者会の質問にすら答えないというのは……
模範解答がなければ答えられない方が総理をしているのですから、いつ官僚が倒れてもおかしくない。
11月27日
群馬県強戸(ごうど)村の小作人が地主会に建議書を出した。 1921(大正10)年
新田(にった)郡強戸村(現太田市)の小作人は、この日小作料の3割減免などを求める建議書を地主会に突きつけた。
この年は不況と不作が重なり、小作人の生活がとても苦しかったからである。
地主会は小作人の要求をはねつけた。
そこで小作人組合の指導者須永好(すながこう)は、日本労働総同盟の本部を訪ね、会長の鈴木文治(ぶんじ)に応援を頼んだ。
成り行きを心配した郡長や警察署長の説得で地主会が最高3割の小作料の減免を認め、争議はひとまず終った。
しかしその後も、小作人組合は村長に小作人を当選させるなど、息のながい闘いをつづけ、戦前の三大小作争議の一つといわれている。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
『日本の歴史23 大正デモクラシー』より「日本農民組合の創立」を転記しますφ(..)
ゆらぐ地主の座
日本農民組合の創立
神戸の川崎・三菱両造船所の大争議が惨敗におわってまもない大正10年(1921)10月17日、争議の指導者であった賀川豊彦(かがわとよひこ)の事務所では、小柄な賀川が六尺近い長身の男を相手に、全国的な農民組合をつくろうと具体的な相談をすすめていた。
長身の男は杉山元治郎(すぎやまもとじろう)といった。
杉山は福島県小高(おだか)町の日本キリスト教会の牧師であったが、社会運動に身をささげようと決意して、郷里に近い大阪に出てきていた。
杉山は小高では、おどろくなかれ1円50銭の月給で牧師をつとめるかたわら、農民の生きた知恵袋として肥料や作物の相談にのり、種苗・農具・肥料等の取次販売などもしていた。
かれは村々の青年を集めて土壌学や肥料学の巡回講義をし、冬のあいだは教会のなかに農民学校を開いて、農村青年の教育にあたった経験をもっていた。
杉山は大阪に出るとすぐに賀川を訪ねたところ、賀川から農民運動をやってもらいたいとすすめられ、これまで昼は大阪市の弘済会育児部で働き、夜は大原社会問題研究所に通って農民運動の準備をすすめていたのである。
(『日本の歴史23 大正デモクラシー』今井清一 中公文庫 2006年改版)
川崎・三菱争議の惨敗で労働運動の指導的地位を失った賀川は、小作争議の激増をみて、農民運動のなかに勢力をのばそうと考えたのであろう。
賀川の自伝小説『死線を越えて』は、大正9年に改造社から刊行されてベストセラーとなっており、からはその印税を社会運動につぎこんでいた。
農民組合の結成計画が、村島帰之(むらしまよりゆき)を通じて『大阪毎日』などの新聞で報道されると、広く全国各地に反響がまきおこった。
早くも大正11年1月には機関誌『土地と自由』が発刊され、小作争議の応援などもはじまった。
4月9日には、神戸のキリスト教青年会館で日本農民組合の創立大会が開かれた。
出席者120名ほどのうち正式代議員は68名で、そのうち46名は大阪府で占め、残りは岡山・兵庫・香川・愛媛・島根・岐阜・愛知・広島・福島・宮城・群馬・富山・新潟の各県の代表であった。
しかし小作人は14名だけで、なかには地方農会の職員、府県庁の役人、地主も少数ながら匿名(とくめい)で参加して、農民組合の行動に監視の目を光らせた。
大会が開かれると、賀川の起草した宣言・綱領・主張が一気に可決され、組合長には杉山が就任した。
宣言は「農は国の基であり、農民は国の宝である」と説きおこして、互助と友愛、暴力の否定を強調し、急進を戒め、さらに国際労働会議が農民の自由を保証したと述べたうえで、農民の団結と解放とをよびかけていた。
綱領では「我等農民は知識を養い、技術を磨(みが)き、徳性を涵養(かんよう)し、農民生活を享楽し、農民文化の完成を期す」「我等農民は穏健着実、合理合法なる方法を以て共同の理想に到達せんことを期す」と主張した。
それはまさに初期友愛会の農村版であった。
主張も、耕地の社会化・全国的農民組合の確立・農業日傭労働者の最低賃金保証・小作立法の確立・農業争議仲裁法の実施・普通選挙・治安警察法の改正・小作人の生活安定・農業補習教育の完成などといったもので、地主制の変革についてはなんらふれていなかった。
主張の最初にある「耕地の社会化」については質問が出たが、主催者側の答弁はしどろもどろで要領を得なかった。
評議員には総同盟の鈴木文治、札幌農大教授の森本厚吉(もりもとこうきち)、東京帝大教授の高野岩三郎・吉野作造らのほか伯爵有馬頼寧(ありまよりやす)も顔をならべていた。
『土地と自由』創刊号の「主張」も、「地主あっての小作であり、小作あっての地主であるのである。たがいに協調し相互扶助せねばならぬ」と協調主義をかかげていた。
だが同じ紙上の「地方からの手紙」には、耕作する者にのみ土地を与えようという主張が叫ばれていた。 創立当初の日農は、妥協的性格がつよかったとはいえ、これまでばらばらに散在していた農民組織や活動家をむすびつけ、新しい指導者たちをうみだし、農民運動を拡大してゆく点で画期的な役割をはたした。 そこには、大戦中デモクラシー思想にふれ、あるいは都会や外国や軍隊などさまざまな経験をつんできた人たちがあった。
日農結成の報をきいて賀川をおとずれた高松雄弁会の前川正一(まえかわしょういち)は、大正12年には日農香川県連を組織するまでになったし、大正8年アメリカから帰国して岡山県矢掛(やかけ)町に小作組合を組織していた仁科雄一(にしなゆういち)は、行李(こうり)ひとつをかついで賀川の家にとびこみ、日農本部の仕事を手伝った。
労働運動の経験者も加わっていた。
神戸の川崎造船所の大争議で、鋳物工場の労働者をひきいて闘争し、首になった行政長蔵(ゆきまさちょうぞう)は、砥石(といし)を自転車にとりつけ、刃物研(と)ぎをしながら村から村へ農民組合の宣伝をして歩いた。
日農本部の宣伝員となったかれは地主や官憲からおそれられ、高松の演説会で壇上にのぼると、何もいわないうちから臨監の署長は「弁士中止」を命じ、行政が抗議すると「君の顔が治安を害する」と答えたという話まで伝えられている。
その他、住友伸銅所争議で首になった安藤国松(あんどうくにまつ)なども日農本部に加わっていた。
さきにふれた早稲田の建設者同盟に学生たちも、この時期に和田巌は岐阜、三宅正一は新潟、平野力三は山梨というように農村にはいっていったし、農村からも群馬県強戸(ごうと)村の須永好(すながこう)のように、のちには農民組合の手で村政を掌握するようなすぐれた指導者もあらわれていた。
(『日本の歴史23 大正デモクラシー』今井清一 中公文庫 2006年改版)
11月26日の朝日新聞夕刊(大阪版)に津村記久子さんの
「大阪の選択 わたしの見方その後3⃣ 街の個性 考え直しては?」が載っていました。
知事や市長は、津村さんの仰っていることと真逆の方向に向かっていると感じています。
全文を転記したいのですが、一部を紹介しますφ(..)大阪の選択 わたしの見方その後[3]
街の個性 考え直しては? 津村記久子さん(作家)
(前略)
最近兵庫県に引っ越しました。
初の一人暮らしです。
住民投票を始めとした、終わりのない政治的な駆け引きに疲れ果てたので。
大阪市廃止が可決されたら、もう帰ることはないと考えていました。
今の大阪の人は、もともといいものを持っていても「自信が足りない。もっと自信が欲しい」と思ってるやないですか。
(都道府県版の)GDPで愛知に負けたし、人口も神奈川より少ないですしね。
東京に負けたくないというのであれば、京都や兵庫や奈良や和歌山と接していることを生かして、近畿圏全体としての個性や価値を高めたほうがいいんじゃないでしょうか。
100年以上の歴史がある(自転車レースの)「ツール・ド・フランス」を見ながら、フランスにはなぜ世界から観光客が集まるか考えていました。
フランスの人には天性のブランディング力があるんでしょうが、伝統や文化を強みにしている部分も大きいと思います。
大阪にも文楽など文化、商店街の一朝一夕で作られない町並みなどあります。
「都」「副」「2位」という軸ではなく、まず自分にどんな個性があるのかを、考え直してみてもいいんじゃないでしょうか。
(朝日新聞夕刊 2020年11月26日)
今朝の父の一枚です(^^)v
父と皇帝ダリアは咲くのが遅いねと話していたのですが、
「この時期まで花を咲かせないのは多くのキク科植物がそうであるように、日照時間が短くならないと花芽を形成しない短日植物であるから」(岡山理科大学 旧植物生態研究室)