2020年11月26日木曜日

ヒンヤリしているけど…

ヒンヤリしていたけど青空が見えて気持ちよく歩けました。
顔見知りの方と、新型コロナが怖いので町中を歩けないけど
この公園があるから助かりますねと話していました。

26日の日中は日ざし暖かい」(えりの気象日記 11月25日)
マクロレンズを持ってこなかったのでうまく写せませんでしたが
朝露がキラキラしていました。

岩波書店のTwitterに

【今日の名言】
 命長ければ辱多し。


――兼好法師『新訂 徒然草』

岩波書店がこの言葉を紹介したのですが
嘘の発言を繰り返し長期政権を誇っていた元首相や
地位に執着して嘘の発信を繰り返すアメリカ大統領を思い浮かべました。
お二人に共通するのは司直の手がのびるをのを恐れているのかな?
  第七段

 あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山(とりべやま)の煙(けぶり)立ち去らでのみ住(す)み果(は)つる習(なら)ひならば、いかにもののあはれもなからん。
世は定めなきこそいみじけれ。
(『新訂 徒然草』西尾実、安良岡康作校注 岩波文庫 1985年改版)
 命(いのち)あるものを見るに、人ばかり久しきはない。
かげろふの夕(ゆふ)べを待ち、夏の蟬(せみ)の春秋(はるあき)を知らぬもあるぞかし。
つくづくと一年(ひととせ)を暮すほどだにも、こようなうのどけしや。
(あ)かず、惜(を)しと思はば、千年(ちとせ)を過(すぐ)とも、一夜(ひとよ)の夢の心地(こゝち)こそせめ。
住み果(は)てぬ世にみにくき姿を待ち得(え)て、何(なに)かはせん。
(いのち)長ければ辱(はぢ)多し。
長くとも、四十(よそぢ)に足(た)らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。
 そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出(い)で交(まじ)らはん事を思ひ、夕べの陽(ひ)に子孫を愛して、さかゆく末(すゑ)を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪(むさぼ)る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。
(『新訂 徒然草』西尾実、安良岡康作校注 岩波文庫 1985年改版)
最後の部分だけですが、島内裕子さんの現代語訳(翻訳)と「」を転記しますφ(..)

(前略)
ただもう、むやみに現世での利欲を貪(むさぼ)る心ばかり強くなり、「もののあはれ」の情趣もわからなくなるのは、本当に嫌になるほど、浅ましい。


 この世が無常であることを認識したうえで、生き方の理想に思い致している点が重要である。
「もののあわれを知る」ことが、人間を人間たらしめているという洞察は、深く、また、重い。
(『徒然草』兼好著 島内裕子翻訳 ちくま学芸文庫 2010年)
11月26日
 白河上皇が院政を始めた。 1086(応徳<おうとく>3)年

 白河天皇はこの日譲位(じょうい)して上皇となり、院政を開始した。
「院」とは、上皇・法皇(ほうおう)の居所のことで、そこに院の庁(ちょう)という役所をおき、多くの公家たちを院司(いんし)に任じて、事実上、国の政務をとりしきった。
当時、天皇という公式の地位と、天皇家の家長の地位とが区別されていて、譲位後でも、天皇家の家長の地位にあった人が、「治天(ちてん)の君」とよばれて、政権を行使した。
 白河院政は、堀河(ほりかわ)・鳥羽(とば)・崇徳(すとく)天皇の三代にわたり43年も行なわれた。
白河院政のあと鳥羽・後白河の院政がつづき、いわゆる院政時代となった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
武士の成長と院政 日本の歴史07』より「院権力の根源――皇位継承者決定権」を転記しますφ(..)
今も昔も権力争いは、変わらないと思います。
今も権力者は、周りをいかに服従させ、忖度させるかに腐心している。
政府は、国民の目を誤魔化すのにやっきなのでしょう。
そしてこのコロナ禍の時に乗じて、強行しようとしている

#国民投票法改正案に抗議します
第5章 激動の院政
 院権力の根源――皇位継承者決定権

 延久4年(1072)12月、後三条は白河(貞仁<さだひと>親王)に譲位した。
後三条が院政を行なおうと意図して譲位したのかどうかについては、古くから議論されている。
問題は、院政とは何か、という点に関わってくる。
かつては、摂関家政所で政治を行なったいた摂関政治に対して、退位した上皇が院庁(いんのちょう)で政治を行うのが院政であり、院庁を開設した後三条は、院政を意図したのだというのが定説であった。
(『武士の成長と院政 日本の歴史07』下向井龍彦 講談社学術文庫 2009年)
 しかし1960年代の土田直鎮氏・橋本義彦氏の実証的研究によって、摂関政治=政所政治、院政=院庁政治という定説は完全に否定された。
院庁はあくまで上皇の私的家政機関であり、院領荘園の管理などは行うが、ここで国政が行なわれるわけではない。
譲位して院庁を開設することと、院政とはまったく関係ないのである。
それでは院政とは何か。
まず皇位継承の新しいかたちを、河内洋輔氏の研究に拠りながら明らかにし、院権力の根源を求めていこう。
 後三条は白河に譲位した日、2歳の次子実仁(さねひと)親王を皇太弟(こうたいてい)とした。
それは白河を中継ぎの傍系とし、実仁を皇統を継承すべき直系としことを意味する。
白河の生母茂子(もし)は公季(きんすえ)流公成(きんなり)の娘で頼通(よりみち)の異母弟能信(よしのぶ)の養女であり、実仁の生母は小一条敦明(あつあきら)親王の孫源基子(きし)であった。
白河の外戚である能長(よしなが<能信の養子>)・実季(さねすえ<公也の子>)はともに摂関家の傍系であり、白河の直系化は摂関家に取って代わる外戚家を生み出す危険性を孕(はら)んでいた。
摂関家の交替など想定していない後三条は、そのような危険のない実仁を直系に指名したのであろう。
 この譲位で大切なのは、後三条が、今後の皇位継承は自分の意思で行うのだと表明したことである。
院政とは、上皇=院が直系子孫である在位の天皇を後見する立場から最高権力を掌握する政治形態である。
それを可能にする根拠は、退位して自由な立場にあることにではなく、皇位継承の主導権を握っているところにある。
皇位継承者を決めることができない上皇は権力を持ち得ない。
後三条は、上皇が次の(そのまた次の)天皇を決めるという新しい皇位継承のあり方を作り出したのであり、摂関家から皇位継承の主導権を奪い取ったのである。
それは摂関家を抑圧するためではなく、強力な専制権力を必要とする時代の要請に応えるためであった。
皇位継承の決定権を握ることが院権力の根源であるならば、後三条の譲位こそ、院政の開始といえるのではないだろうか。
しかし後三条の院政と彼の皇位継承構想は、延久5年(1073)5月の彼の死によって挫折する。
 白河は父後三条の死後も皇位にとどまり続け、実仁に譲位しなかった。
応徳(おうとく)2年(1085)、実仁が15歳で死去すると、翌年、中宮賢子(けんし)所生(しょせい)の8歳になる長子善仁(たるひと)親王を立太子させ、即日譲位(堀河<ほりかわ>天皇)したが、堀河即位後も皇太子を定めなかった。
それは故実仁親王の同母弟、輔仁(すけひと)親王の皇位継承資格を認めず、皇位継承権は将来生まれるはずの堀河の男子にあるということを、貴族たちにわからせるためであった。
こうして傍系として即位した白河は直系皇統の資格を獲得した。
また師実(もろざね)の養女賢子が生んだ堀河を即位させたことは、白河と摂関家が協調関係にあったことを示している。
 そして嘉承(かしょう)2年(1107)7月、堀河が在位中に死去すると白河院は、堀河の死を伏せて堀禍の譲位に形にできたにもかかわらずそうはせず、自らの詔(みことのり)によって堀河の皇子で5歳の宗仁(むねひと)親王を即位させた(鳥羽<とば>天皇)。
この新例は白河の意思でもあり、また関白忠実(ただざね)の希望でもあった。
即位の詔には、忠実を摂政にすることが明記されていた。
摂政には外戚がなるのが慣例であったが、鳥羽の生母苡子(いし)は白河母茂子の兄弟実季の娘であり、摂関家の養女になっていなかった。
したがって外戚は摂関家ではなく公季流であった。
 事実、鳥羽即位にあたって、外戚の公実(きんざね)が摂政の地位を望んだという。
このような不安を解消するために、忠実は白河による任命というかたちで摂政に就任したのである。
こうして摂関家は外戚関係とは関わりなく摂政になるという先例を生み出し、家格としての摂関家が確立した。
白河には外戚を摂関家に対抗させようという意思はなかったのである。
 白河は、鳥羽と忠実娘泰子(たいし)を結びつけ、公実の娘で白河の養女である璋子(しょうし)と忠実の男子忠通(ただみち)を結びつけようとしていたが、この結婚を遅らせようとした忠実に怒った白河は、鳥羽と璋子を結びつけた。
元永(げんえい)2年(1119)5月、璋子は顕仁(あきひと)親王を生んだが、その秋、鳥羽は泰子の入内(にゅうだい)を求めた。
鳥羽と忠実がひそかに泰子入内を画策していることに激怒した白河は、保安(ほうあん)元年(1120)11月、突如、忠実の内覧を停止して宇治に蟄居(ちっきょ)させた。
白河は死ぬまでの間ずっと忠実の謹慎を解かず、泰子入内を認めないと遺言して死んだ。
とはいえ、忠実に対する白河の処遇は、摂関家に対する抑圧ではない。
関白は忠通に交代し、摂関の家系に変動はなかった。
  このように摂関家を敵視していたわけでない白河が、なぜ忠実に対して厳しい姿勢をとったのだろうか。
白河のとって顕仁は唯一の皇位継承権者であったが、鳥羽が泰子入内を望むことは、祖父白河のこの方針に反抗することであった。
白河は忠実を謹慎処分することによって鳥羽に服従を要求したのであり、忠実の処分以後、鳥羽は白河に従順になった。
保安4年(1123)、顕仁親王を即位させ(崇徳<すとく>天皇)、大治(だいじ)4年(1129)、忠通の娘聖子(せいし)を崇徳に入内させた。
自らの皇位継承計画を完成させた白河は、その年、波乱の人生を終えた。
摂関の娘の入内は後冷泉中宮寛子(かんし)入内以来80年ぶりであった。
鳥羽は崇徳を「叔父子(おじご)」と言って疎(うと)んじたというが、それは崇徳が白河の子であったというより(その真偽はわからない)、崇徳が白河の定めた直系だったからにほかならない。
 白河は堀河以外の男子を幼くして出家させ、皇位継承資格を奪い去った。
白河は、堀河の男子も(鳥羽以外二人出家)、鳥羽の男子も(親王は璋子所生5人だけ、他は出家)同様の措置をとり、自らの子孫の皇位継承者を代々一人に限定し、白河―堀河―鳥羽―崇徳と父子相承の直系皇統を作り出すことに成功した。
院権力の根源は、このように自らの意思で代々の皇位継承者を決めることにあった。
院は、この皇位継承者決定権を背景に、摂関・公卿以外の貴族を服従させ、専制的権力を振るうことができたのである。
そして、この院の専制権力とは、荘園公領の紛争や寺院間紛争を調停し、支配層の分裂による王朝国家の崩壊を抑止する必要から生み出された権力であった。
(『武士の成長と院政 日本の歴史07』下向井龍彦 講談社学術文庫 2009年)
今朝の父の一枚です(^^)v
アトリに出会っていました。
枝が邪魔してなかなかピントを合わせることができなかったとボヤいていました。