2020年11月9日月曜日

寒そうだなと覚悟していたけど…

今朝の天気予報を見ていて、気温が低く、冷たい風が吹くと言われていたので覚悟していました。
だけど歩いていると風が吹かなかったので、次第にポカポカしてきました。
初の女性副大統領へ「私が最後ではない」カマラ・ハリス氏の演説全文〟(東京新聞 11月8日)

鳥飼玖美子さんのTwitterに

YouTubeの動画を紹介されています。

Biden次期大統領がrunning mateに選んだのは米国初の女性副大統領となるKamala Harrisさん。
全米に向けての勝利演説は見事。
分かりやすい英語で、Democracy is not a state, but an act. との引用から始め、民主主義は皆で闘って守るものだと語りました。


Keiko TsuyamaさんのTwitterに

ハリスが勝利集会で、いつもダークスーツ姿なのに白いスーツだったのは、女性参政権の獲得から今年は100年だからです。
運動の中心となった女性らが白く長いドレスをトレードマークにしていたため、TV局リポーターも白い服を着ています。

「ハリス氏、米国初の女性副大統領に」(AFP●BB News 11月8日)

スピーチを聞いて(読んで)感動できるのは何故なんだろう。
あまりにも空虚な演説を聞いてきたからかな。
そしてこのようなメッセージを送ることができるのはアメリカが大人だからだな!
ブッシュ元大統領、バイデン氏に「心からの祝意」〟(AFP●BB News 11月9日)
なんか大阪の新型コロナ感染確認者の人数が一気に多くなったように感じます。
だいたい1~2週間前に感染したと言われるのですが、1週間前は住民投票(その前から増加傾向)でした。
この時期に、住民投票をすることに批判があったので、知事も市長も認めないと思いますが。
日本もアメリカのように郵便投票ができるようにする時期にきていると思います。

大阪府の感染者数」(NHK)
今日から火災予防運動が始まりました。
人気ゲーム「あつ森」で火災予防呼びかけ 東京消防庁〟(NHK)

今日は「11月9日」ということで「119番の日」だそうです。
江戸っ子 はりきる 昭和22年(1947年)」(蔵出しNHKアーカイブス)

火事と喧嘩は江戸の花」という諺がありますが、
オランダ商館長が見た 江戸の災害』より江戸の火事について転記しますφ(..)
第1章 明暦の大火を生き抜いた商館長ワーヘナール
 なぜ江戸に火事が多いのか


 オランダ人は(1657年)2月16日午後4時に無事江戸に到着した。
江戸に入る時に、ワーヘナールは遠くに濃い黒煙が上がっているのに気づいた。
どうやら江戸の東側に火事が発生したようである。
ワーヘナールはその時の光景について、次のように記述している。
(『オランダ商館長が見た 江戸の災害』フレデリック・クレインス・著、磯田道史・解説 講談社現代新書 2019年)
「各地で町民たち大勢が、その多くは小売商人だが、自分の家の屋根に登っているのを見た。風で炎がどの方向に吹き込むか、火がこちらに来ないかを確かめていた。しかし、距離があるため、危険がないとわかると、彼らはふたたび屋根から下りて、近隣の被害をまったく気にしていないようだった。江戸の町に入るにつれて、去年の11月に焼失した五千軒の家が、その後こんなにも短期間で整然と再建されたのを見て驚いた」。
 この記述から、江戸の町について二つの特徴が浮かび上がる。
まず、江戸で火事があまりにも頻繁に起こっていたため、江戸っ子たちは、それに慣れてしまって、あまり気にしなくなっていたことである。
もう一つは、わずか2~3ヵ月で五千軒の家が再建されていたことである。
驚異的な復興力であるとしか言いようがない。
【解説】
 江戸に火事が多いのは、なぜであろうか。
江戸の大火の回数については、魚谷増男『消防の歴史四百年』、黒木喬『江戸の火事』などの研究がある。
大火とされるものは、江戸49回、京都9回、大坂6回、金沢3回とされ、江戸が圧倒的に多い。
 斎藤誠治「江戸時代の都市人口」によれば、1750年頃の都市人口は、江戸122万、京都37万、大坂41万、金沢13万である。
江戸で火事が多い一番の理由は、人口が多いせいである。
しかし、それだけでは説明できない。
江戸は人口の多さを差し引いても、京都・大坂・金沢よりも明らかに高い頻度で火事に遭った。
その理由は、江戸の都市構造、住民構造によるものであった。
江戸の町は、いってみれば、「裏店(うらだな)の世界」であり、裏長屋に住む独身男性の比率が高かった。
これらその日暮らしの貧しい住民のなかには、火事になれば、建設工事がはじまり、仕事がもらえる者もいる。
それもあって、放火が絶えなかった。
一方、京都・大坂などは、斎藤修『商家の世界・裏店の世界――江戸と大阪の比較都市史』が指摘しているが、商家に住み込む奉公人が多く、住人は奉公先の主人によって統制されがちであった。
商家では「火の用心」が徹底され、人口の割に、火事を少なく抑えていたのである。
 とくに、ワーヘナールが江戸を訪れた17世紀半ばの江戸は、世の中に不満をもつ命知らずの浪人が町にあふれていた。
また、ヨーロッパから渡ってきた煙草が庶民にまで広がってきたところであった。
放火や独身者の寝煙草など、火種は、江戸の町にいくらでもあった。
そのうえ、町家はほとんどが板葺(いたぶ)きで、寺や武家屋敷をのぞけば、町には、瓦をのせている建物がまだ少なく、類焼しやすかったのである。 (磯田)
 粥の施行
(前略)

 翌日の6日朝にオランダ人は慈悲深い行為を目の当たりにした。
「二人の男性が、煮た温かいお米の入った樽を持って来て、四日間も雨と寒さのなかで我々の宿泊先の前に横たわっていた哀れな人びとに配給していた。これらの飢えた人びと、特に子どもたちがそれをがつがつ食べ始め、口いっぱいにほおばって飲み込むのを見て、感動せずにいられなかった」とワーヘナールは記録している。
 このときオランダ人が目にしたのは、おそらく幕府がその前日、旧暦1月21日から実施していた粥施行(かゆせぎょう)と思われる。粥施行は幕府が飢饉や災害時に困窮民や被災者の飢えを防ぐために臨時におこなっていた救済措置であった。
各藩でも必要に応じておこなわれていた。
幕府は、明暦の大火が鎮まった翌日に江戸六ヵ所で粥を煮て、被災者に配給するように命じた。
日本橋より南は内藤忠興(ないとうただおき)と石川憲之(いしかわのりゆき)が、北は六郷政晴(ろくごうまさはる)と松浦鎮信(まつうらしげのぶ)が担当して実施した(『徳川実紀』)。
鎮信は4日前にオランダ人を屋敷に入れるべきかどうかについて悩んでいた平戸藩主である。
米は浅草の米蔵より毎日千俵ずつ供出された。
粥施行は翌月2日まで毎日おこなわれ、その後12日まで隔日で続けられた。
 当時のオランダ人は幕府による粥施行をどう思っていたのだろうか。
17世紀のオランダは福祉大国であった。
各都市が福祉事業において互いに激しく競争して、より立派な病院や孤児院、老人ホームを建てていた。
これらの建物の建設費用は都市の財政ではなく、裕福な市民の寄付金で賄われていた。
 貧民のための建物もオランダ各地にあり、各都市や村々で毎週食糧や現金がそれを必要とする人びとに配られていた。
大火や洪水など災害に際しても、被災者を支援するために大規模な寄付収集活動が全国でみられた。
このような福祉事業はキリスト教精神のもとにおこなわれていたので、「異教徒」にも、そのような思いやりの心があることにワーヘナールは驚いたのだった。
 一定期間続けられた幕府による粥施行や米価の安定化政策は、多くの尊い命を救った。
(『オランダ商館長が見た 江戸の災害』フレデリック・クレインス・著、磯田道史・解説 講談社現代新書 2019年)
今朝の父の一枚です(^^)v
今日は野鳥に出会えなかったなぁとベンチに座ってお茶を飲もうとしたとき
目の前にモズ♂が現れたそうです。
ビックリ、喜んで写したとのこと!(^^)!
写したいという思いがあると現れてくれるのですね!