雨粒が日に暖められて靄がたち、風情がありました。
歩いていると次第に汗が出てきて一枚脱ぎましたが、それでも汗がでました(^-^;〝バイデン氏演説内容「再び世界で尊敬される国に」〟(NHK)
ホッとしました!(^^)!
ハリスさんの言葉、
「私は最初の副大統領かも知れないが、最後ではない。なぜならば、これを見ている全ての少女たちが、アメリカは可能性に満ちた国だと思うからです」と述べ、子どもたちに「大志を持って夢を」と語りかけた。(貫洞欣寛 BuzzFeed )
ただ、ケネディ兄弟のように狙われないか心配です。
トランプ支持者たちの動きを見ているとオウム真理教信者のことを思い浮かべました。
その心配が杞憂でありますように!
鳥飼玖美子さんのTwitterに
Al Gore もHillary Clintonも、かつてのJFKのように、TVdebateでは論理的な議論と説得的なコミュニケーションで圧勝していました。
得票数だけで決める制度なら大統領になっていたでしょうから、今と違う米国になっていたかな?などと考えてしまいます。
アメリカ史上初の女性副大統領に選ばれたカマラ・ハリス氏。
初のスピーチは、「民主主義は状況ではなく行動なのだ」という故ジョン・ルイス議員の言葉の引用から始まりました。
若き日のジョン・ルイスがいかに黒人差別に対抗して行動し闘ったのか。
ぜひ知ってください。
目撃!にっぽん「ママの夢はみんなの夢だから」を見ていて果緒ちゃん可愛かったな(*´▽`*)
朝食の箸が止まってしまったし目が霞みそうになった…
家族の素敵な姿に朝から感激して、
リハビリ散歩に出かける準備がなかなかできませんでした。
(「番組ディレクターから」もぜひお読みください!)
寺田明日香さんのTwitterに
NHK『目撃!にっぽん』、ご視聴頂いた皆さま、ありがとうございました!
我が家のありのままの姿を放送して頂き、嬉しいやら恥ずかしいやらですが、感謝です!!
11月8日
尾張(おわり)国の郡司(ぐんじ)・百姓らが、国司(こくし)藤原元命(もとなが)の不法を訴えた。 988(永延<えいえん>2)年
藤原元命は中流の貴族であったが、尾張国の国司に任命されると、数多くの「従類(じゅうるい)」をひきつれて国に下り、暴政を重ねた。
これにたまりかねた郡司や百姓たちは、この日、元命の不法行為を列挙して、中央政府に訴え、解任を要求した。
その不法とは、国司が各種の税を勝手に大はばにひきあげた、中央に納めるための物資を、民衆からむりやりに安く買いとった、用水や道路の整備にあてる費用を流用した、民衆を勝手に夫役(ぶやく)にこきつかった、など31カ条にもおよぶものであった。
この訴えによって元命は解任された。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
「農民を支配した貴族」(小学6年)
前に10月28日の記事に「紀伊国阿氐河荘の百姓が地頭の乱暴を訴えた。」
でも、紹介しましたが訴えを額面通りに受け取らないほうがいいみたいです(^_-)
『日本の歴史5 王朝の貴族』より「百姓、国司を訴える」を転記しますφ(..)
法成寺(ほうじょうじ)と道長の死
百姓、国司を訴える
ところで話はもとにもどって、土御門(つちみかど)邸新築のとき、もっとも点数をかせいだのは伊予(いよ)守源頼光(よりみつ)であった。
かれは新邸に必要な日用の調度品や装束のいっさいを、そっくりそろえて献上するという離れわざを演じて、世人を驚嘆させたのである。
厨子(ずし)・鏡・剣・銀器・琴・鞍(くら)をはじめ、屏風(びょうぶ)二十帖、几帳(きちょう)二十基、唐櫃(からびつ)には夏冬の衣裳をおさめ、皿小鉢から炭取・桶(おけ)・箒(ほうき)に至るまで、善美をつくしてあますところなく、移転の当日、大勢の人夫にこれをかつがせ、行列を作って、ぞくぞく新邸にはこびこんだ。
(『日本の歴史5 王朝の貴族』土田直鎮 中公文庫 2004年改版)
このデモンストレーションはみごとに図に当たり、道々では人々は人垣を作って目を見はり、献上物の目録はあらそって書き写された。
実資(さねすけ)もその目録を入手して日記にのせている。
これはなにも道長の命を受けてのことではなく、まったく頼光の自発的なサービスであろうと思われ、根が派手好きな道長のこととて、かれの喜悦満足はひじょうなものだったらしい。
武人頼光の莫大な財力と、水際だった政治的外交的手腕を示すものとして、これは有名な話である。
頼光はこの時伊予(いよ)守であったが、その前には美濃(みの)守であった。
かれの大きな富力の一部は、このように諸国の受領(ずりょう)の歴任するあいだにたくわえられたのであろう。
当時の受領なるものが、一個の利権として考えられ、かれらがあらゆる名目で私腹をこやそうとしたことはよく知られており、『日本の歴史』第6巻「武士の登場」で詳細に述べられるはずであるから、ここでは中でももっとも有名な例としてつねに挙げられる、一条天皇のときに、尾張国(愛知県)の郡司・百姓らが守藤原元命(もとなが)を訴えた一件を紹介しよう。
この事件は988年(永延2)11月8日付の、郡司・百姓らが元命の不法三十一ヵ条を列挙して訴え出た訴状の全文が伝わっているので、とくに名高いもので、その訴状の内容をいちいち紹介する余裕はないが、要するに徹底的な不当徴税とピンハネをおこない、私腹をこやし、狼(おおかみ)のような一族や手下を使って人民からしぼりとるという趣旨のものである。
たとえば租税は規定額をはるかに越す量を強奪し、中央に送る調の絹は、国内から大量に良質の絹を徴収し、これは全部自分のふところに入れ、かわりに他国から粗製の絹を規定量だけ買いこんで員数を合わせるし、国内の灌漑施設の補修費や、救難費を横領着服し、部下である下級国司の俸給まで取りこむというありさまで、その徹底的な貪欲さにはまことにあきれかえるほかない。
なるほど、これでは受領がもうからない道理はないとつくづく思われるのである。 ただし、この三十一ヵ条、漢字約九千字の長大な訴状の内容を、いちいちうのみにすることは危険である。
その前に、当時、このような諸国の民が国司の不法を訴え出ることが、けっして珍しいことではなかったことを知っておかなければならない。
その例をいちいち並べるのはめんどうだから省略するが、だいたい、尾張国というところは土地がらもあるのか、しきりに国司のことを朝廷に訴え出るくせがあるようである。 974年(天延2)正月には尾張の百姓が守藤原連貞(つらさだ)を訴え、国司は藤原永頼(ながより)に代わった。
つぎに988年(永延2)の元命にたいする訴えは、翌989年(永祚<えいそ>元)2月にとりあげられて公卿の会議が開かれ、4月5日、藤原文信(ふみのぶ)が守となった。
1008年(寛弘<かんこう>5)2月に同じく尾張の郡司・百姓は守の藤原中清(なかきよ)を訴えて、左大臣道長は中清にただちに任国におもむくように命じ、今後訴えがあれば国司を処分するぞと戒めた。
1016年(長和5)8月にも郡司・百姓は上京して国守橘経国(つねくに)の不法を訴え出て、道長はその訴状を受理し、会議にかけることを命じている。
善状のほうも多少例があって、1017年(寛仁<かんにん>元)11月、伊勢の百姓が上京し、摂政頼通の退出を路頭に群がって待ち受け、守藤原孝忠(たかただ)の重任(ちょうにん)を申請したような事件もある。
(『日本の歴史5 王朝の貴族』土田直鎮 中公文庫 2004年改版)
寺田明日香さんのTwitterに
NHK『目撃!にっぽん』、ご視聴頂いた皆さま、ありがとうございました!
我が家のありのままの姿を放送して頂き、嬉しいやら恥ずかしいやらですが、感謝です!!
11月8日
尾張(おわり)国の郡司(ぐんじ)・百姓らが、国司(こくし)藤原元命(もとなが)の不法を訴えた。 988(永延<えいえん>2)年
藤原元命は中流の貴族であったが、尾張国の国司に任命されると、数多くの「従類(じゅうるい)」をひきつれて国に下り、暴政を重ねた。
これにたまりかねた郡司や百姓たちは、この日、元命の不法行為を列挙して、中央政府に訴え、解任を要求した。
その不法とは、国司が各種の税を勝手に大はばにひきあげた、中央に納めるための物資を、民衆からむりやりに安く買いとった、用水や道路の整備にあてる費用を流用した、民衆を勝手に夫役(ぶやく)にこきつかった、など31カ条にもおよぶものであった。
この訴えによって元命は解任された。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
「農民を支配した貴族」(小学6年)
前に10月28日の記事に「紀伊国阿氐河荘の百姓が地頭の乱暴を訴えた。」
でも、紹介しましたが訴えを額面通りに受け取らないほうがいいみたいです(^_-)
『日本の歴史5 王朝の貴族』より「百姓、国司を訴える」を転記しますφ(..)
法成寺(ほうじょうじ)と道長の死
百姓、国司を訴える
ところで話はもとにもどって、土御門(つちみかど)邸新築のとき、もっとも点数をかせいだのは伊予(いよ)守源頼光(よりみつ)であった。
かれは新邸に必要な日用の調度品や装束のいっさいを、そっくりそろえて献上するという離れわざを演じて、世人を驚嘆させたのである。
厨子(ずし)・鏡・剣・銀器・琴・鞍(くら)をはじめ、屏風(びょうぶ)二十帖、几帳(きちょう)二十基、唐櫃(からびつ)には夏冬の衣裳をおさめ、皿小鉢から炭取・桶(おけ)・箒(ほうき)に至るまで、善美をつくしてあますところなく、移転の当日、大勢の人夫にこれをかつがせ、行列を作って、ぞくぞく新邸にはこびこんだ。
(『日本の歴史5 王朝の貴族』土田直鎮 中公文庫 2004年改版)
このデモンストレーションはみごとに図に当たり、道々では人々は人垣を作って目を見はり、献上物の目録はあらそって書き写された。
実資(さねすけ)もその目録を入手して日記にのせている。
これはなにも道長の命を受けてのことではなく、まったく頼光の自発的なサービスであろうと思われ、根が派手好きな道長のこととて、かれの喜悦満足はひじょうなものだったらしい。
武人頼光の莫大な財力と、水際だった政治的外交的手腕を示すものとして、これは有名な話である。
頼光はこの時伊予(いよ)守であったが、その前には美濃(みの)守であった。
かれの大きな富力の一部は、このように諸国の受領(ずりょう)の歴任するあいだにたくわえられたのであろう。
当時の受領なるものが、一個の利権として考えられ、かれらがあらゆる名目で私腹をこやそうとしたことはよく知られており、『日本の歴史』第6巻「武士の登場」で詳細に述べられるはずであるから、ここでは中でももっとも有名な例としてつねに挙げられる、一条天皇のときに、尾張国(愛知県)の郡司・百姓らが守藤原元命(もとなが)を訴えた一件を紹介しよう。
この事件は988年(永延2)11月8日付の、郡司・百姓らが元命の不法三十一ヵ条を列挙して訴え出た訴状の全文が伝わっているので、とくに名高いもので、その訴状の内容をいちいち紹介する余裕はないが、要するに徹底的な不当徴税とピンハネをおこない、私腹をこやし、狼(おおかみ)のような一族や手下を使って人民からしぼりとるという趣旨のものである。
たとえば租税は規定額をはるかに越す量を強奪し、中央に送る調の絹は、国内から大量に良質の絹を徴収し、これは全部自分のふところに入れ、かわりに他国から粗製の絹を規定量だけ買いこんで員数を合わせるし、国内の灌漑施設の補修費や、救難費を横領着服し、部下である下級国司の俸給まで取りこむというありさまで、その徹底的な貪欲さにはまことにあきれかえるほかない。
なるほど、これでは受領がもうからない道理はないとつくづく思われるのである。 ただし、この三十一ヵ条、漢字約九千字の長大な訴状の内容を、いちいちうのみにすることは危険である。
その前に、当時、このような諸国の民が国司の不法を訴え出ることが、けっして珍しいことではなかったことを知っておかなければならない。
その例をいちいち並べるのはめんどうだから省略するが、だいたい、尾張国というところは土地がらもあるのか、しきりに国司のことを朝廷に訴え出るくせがあるようである。 974年(天延2)正月には尾張の百姓が守藤原連貞(つらさだ)を訴え、国司は藤原永頼(ながより)に代わった。
つぎに988年(永延2)の元命にたいする訴えは、翌989年(永祚<えいそ>元)2月にとりあげられて公卿の会議が開かれ、4月5日、藤原文信(ふみのぶ)が守となった。
1008年(寛弘<かんこう>5)2月に同じく尾張の郡司・百姓は守の藤原中清(なかきよ)を訴えて、左大臣道長は中清にただちに任国におもむくように命じ、今後訴えがあれば国司を処分するぞと戒めた。
1016年(長和5)8月にも郡司・百姓は上京して国守橘経国(つねくに)の不法を訴え出て、道長はその訴状を受理し、会議にかけることを命じている。
これらはみな尾張の百姓から出た国司にたいする苦情であるが、一方では、1012年(長和元)12月には、尾張国の連中は守藤原知光(ともみつ)の善状をたてまつっている。
善状とは善政をほめたたえた上申書で、まさに国司を上げたり下げたりといったところである。
このように尾張国はおそらく第一にやかましい土地だったらしいが、ほかでも伊勢(三重県)・加賀(石川県)・丹波(たんば<京都府西部>)・近江(おうみ<滋賀県>)・淡路(あわじ)など、各地の百姓たちが訴え出ており、三十二ヵ条・二十四ヵ条などという数字も見えていて、国司の不法数十カ条を書き並べて訴えることが流行したらしい。善状とは善政をほめたたえた上申書で、まさに国司を上げたり下げたりといったところである。
善状のほうも多少例があって、1017年(寛仁<かんにん>元)11月、伊勢の百姓が上京し、摂政頼通の退出を路頭に群がって待ち受け、守藤原孝忠(たかただ)の重任(ちょうにん)を申請したような事件もある。
(『日本の歴史5 王朝の貴族』土田直鎮 中公文庫 2004年改版)