2019年3月29日金曜日

一気に春へ…

暖かい朝でした(*´▽`*)
山を歩いている時によく出会ったシャガの花も咲いていました。
再放送も昨日の深夜だったけど
又吉直樹のヘウレーカ!
  スペシャル「この“なぜ”はほっとけない!?
鈴木俊貴さんの研究でシジュウカラが文法をもっていること。
メジロやコガラなどの言葉も理解できることを話してくれていました。
その中で、この研究は
なんの役にも立ちません。
 役に立つことを考えるとつまらない
と話していました。
他の研究者の研究も面白かったのですが
すぐに役に立つような研究をしているとは思えない内容でした。
でも、みなさん楽しそうに研究テーマを話しておられました。
よく記事に書くのですが、将来、
日本からノーベル受賞者がでなくなると思っています。
今のようなすぐに成果をあげることを要求する政治家や文科省が
研究予算を決定していることが続く限り。
また文学部などを軽視している間は…
3月18日の朝日新聞の記事の中で
山崎正和さんがこんなエピソードを紹介されていました。
「アメリカで、ある学者が上院の公聴会で質問された。
 『あなたの研究は国を守るのにどういう役に立つか』と。
 その学者はなんと答えたか。
 『国防には役に立たない。
 しかし、この国を守るに値する国にすることに役立つことはできる』。
 私も気持ちはそう。
 財団が少しでも文化の裾野を支えることになればいい」
江戸時代の上野の花見について書かれたのを転記しますφ(..)
残念ながら出版社を検索しても分かりませんでした。
川柳「花の名所」
上野
 上野が花の名所として、江戸市民に愛されたのは、
すでに初期寛永のころからといわれている。
不忍池を下に眺め、寛永寺山内には桜花満開という情景は、
恐らく、江戸における最上の眺めであったろう。
 寛永13年(1636)まだ聖堂が上野にあった当時、林羅山の詩に、

  草木欣栄遶聖宮  白桜独秀一春中
  中華礼葉楽花遍  元気吹噓日本風


とある。
しかし、市民が行楽に、花見にと出かけ出したのは承応(じょうおう)ごろからのようで、
明暦大火後は全く上野が桜の名所となっていた。
(『新版江戸風物詩』川崎房五郎 光風社出版 昭和59年)
  俗に八百屋お七の火事(事実はちがうが)といわれる天和(てんな)2年12月の大火後、
翌3年の春、幕府は市民が痛手に花見どころではないだろうと市中の様子をさぐりにやったら、
上野山内へ花見にくり出した人々で、上野の山はごったがえし、
かしこにここに幔幕(まんまく)をはりめぐらし、ひもを樹にむすんで、
それに元禄小袖(げんろくこそで)のすばらしいのをかけて幕のかわりにするなど、
花を一日中楽しむ人々の賑いに、
幕府首脳部もホッと安堵の胸をなでおろしたという有名な話がある。
どんなに焼け出されても、
市民の復興の気運は盛んで大いに春を楽しんだ。
こうした町人の丁度元禄の黄金時代に入る勃興期、
町人の武士何するものぞといった気概が花見の姿にあらわれていたといえよう。
(『新版江戸風物詩』川崎房五郎 光風社出版 昭和59年)
 やがて元禄ともなれば「花の雲鐘は上野か浅草か」の
芭蕉の句をここにもち出すまでもなく、大江戸の春はたけなわ。
浮かれ烏の浮き浮きとする桜・桜の花見連中である。
わけて上野の山は東叡山寛永寺をもつ江戸随一の桜の名所、
春の桜のながめは不忍池を擁して江戸っ子の自慢の景色であった。
(『新版江戸風物詩』川崎房五郎 光風社出版 昭和59年)
 上野の桜は一説に林羅山の建言によって植えられたという。
吉野山に模して山の上と下とで咲く花の種類もちがえて
咲く時期に遅速のあるように取り計ったといわれている。
しかし宮家が門主である関係上取締りは厳重になり、
花に浮かれて狂態を演じることは許されなかった。
夜桜見物はいっさい許されず、暮六ツが限度であった。
(『新版江戸風物詩』川崎房五郎 光風社出版 昭和59年)
  入相の桜縄目を許される
  真っ黒(黒門)に桜の口をしめるなり


 暮六ツで幔幕がおろされ、花見の終りとなる。
上野の黒門もピタリと閉められる。

  上戸をつれて気づかいな花を見る
  飲まぬ奴一日拝む花の山


といった静かな花見風景だった。
(『新版江戸風物詩』川崎房五郎 光風社出版 昭和59年)
  井戸端の桜は秋の色が栄え

 秋色桜(しゅうしきざくら)についてはいう迄もない。
上野名物の桜で、清水観音堂の後の井戸端にあったという。
秋色の「井戸端の桜あぶなし酒の酔」で一躍知られわった。
秋色は一説に13歳だったというが、
寛永寺の門主輪王寺の宮に誉められ、有名人になった。
川柳の「井戸端の桜でお秋名が高し」とは、それをいったもの。
酔っぱらいが来たので、この名句が出来たのだ。
だから「生酔が来ぬと名のない桜なり」だったろう。
(『新版江戸風物詩』川崎房五郎 光風社出版 昭和59年)
  花の山鬼の門とは思われず

 江戸城の鬼門を守るという意味で建てられた寛永寺のことである。
「全山花雲かとまがう」光景は正に大江戸の春である。

  賑やかな宝の山の花盛り

 寛永寺と寛永通宝とをかけたもので、
春の花見、桜といえばまず上野、江戸第一の場所であった。
しかし夜桜見物が出来なかったことは、
江戸っ子にとって余程シャクにさわることだったらしい。
 そのため、吉宗将軍の時に、江戸市民の遊び場として、
夜桜見物に差し支えない場所をつくってやった。
飛鳥山、隅田川堤、品川の御殿山、それに小金井と、
皆桜を植えて、江戸市民の行楽地として解放した。
市民が行楽地めざして割合遠くまで
遊びに行くようになったのはこれからで、
田沼時代にはすばらしい発展をとげた。  
(『新版江戸風物詩』川崎房五郎 光風社出版 昭和59年)
秋色の謎」(秋色庵大坂家)

 「桜 錦絵で楽しむ江戸の名所」(国立国会図書館)
今朝の父の一枚です。
いつものように父が撮ったメジロやシジュウカラの画像をプリントしてあげたのですが
後で、父がリクエストしたのがこの写真ともう一枚。
いつもはこちらに任せているのですがプリントしてほしくなったのは
昨日、母の三回忌に妹が母の桜の写真はないのかなというので
この枝垂桜の下で桜を楽しんでいる母の写真と
山から母と父が桜の下を降りてくる写真を飾りました。
父は同じ場所の写真に撮っていました。