大阪城公園のソメイヨシノが5輪以上咲いているのを確認して
「大阪と京都でサクラが開花」
京都では
「両陛下 京都御苑の桜の庭を散策」
昨日の記事で「サクラの語源」を転記しましたが
別の説について転記しますφ(..)
春分
春分の日が年ごとに違っていることを知らない人がいる。
「去年は21日だったのに、今年はどうして20日なの」
といった具合である。
(…略…)
「サクラ」の名は、「サ+クラ」なのだという。
「サ」は稲を表す。
稲の苗で早苗(サ+ナエ)、稲を植える女性を早乙女(サ+オトメ)と言うのと同じ「サ」。
「クラ」は神が舞い降りる場所を表す言葉「神座(かみくら)」の「クラ」だと言う。
冬の間、山に帰っていた田の神が再び里に下り、
そして桜の木に舞い降りて花を咲かせ、それを合図に田仕事が始まる。
田の神は人々の田仕事を桜の木の上から見守り、豊穣を約束する。
(『暮らしに生かす旧暦ノート』鈴木充広 河出書房新社 2005年)
田仕事を始めるのに適した季節を、
目を引く花の姿で知らせてくれる桜を
古代の人々が田の神の化身と考え、
「サクラ」と呼んだのではないかというこの説は、
何か心の琴線にふれるものがある。
(…略…)
(『暮らしに生かす旧暦ノート』鈴木充広 河出書房新社 2005年)
花見
(…略…)
花見と言えばやはり桜はなくてはならないが、
だからといって桜があれば花見になるのかと言えばどうもそうでもないらしい。
花見にはやはり宴会が必要なのだ。
(…略…)
花と言えば桜、花見と言えば宴会、
という構図がみんなの頭の中に出来上がっている。
桜は、その花を眺めることと宴会が結びつく不思議な花なのである。
(『暮らしに生かす旧暦ノート』鈴木充広 河出書房新社 2005年)
すでに一度触れたとおり、
「サクラ」は稲を表すことば「サ」と神の座所、
神座(かみくら)の「クラ」が結びついた言葉だという説がある。
秋の収穫が終われば山に帰る田の神が春になると再び里に下り、
サクラの木に宿る。
桜は、神が宿ると花を咲かせて人々に田の神が戻ったこと、
稲作のために田仕事を始める時期であることを知らせると考えられていたというのだ。
桜を田の神が宿る木だと考えると、
桜の下での宴会もその意味がわかる。
宴会はこれから始まる稲作が豊作という結果に終わることを願っての予祝(よしゅく)行事なのだ。
(『暮らしに生かす旧暦ノート』鈴木充広 河出書房新社 2005年)
予祝行事とは、予め祝うことによって、
祝った内容に見合った事柄を招来しちょうというもの。
田仕事を始めるに当たって、田の神に田から得られた収穫物を捧げ、
また捧げた収穫物を神とともに食べて祝うことで、
秋には再び同じように収穫を喜び合うという目出度い未来を呼び寄せようというものなのだ。
(…略…)
今夜も夜桜見物でにぎわっただろうこの場所には、
花見客が落としていった包み紙や紙コップが散らかっている。
(『暮らしに生かす旧暦ノート』鈴木充広 河出書房新社 2005年)
「桜の木の下には、三色団子の串が埋まっている」
そう戯(ふざ)けて言った友人がいたが、そのとおりかもしれない。
その昔、田の神の化身としてあがめられた桜と、
それをあがめた人々がともに秋の豊穣を祈った花見の意味を人は忘れてしまった。
それでも桜は年ごとに咲いて、人々を花見へと誘う。
花見の意味を人が忘れても、
桜に宿る神はまだそれを忘れてはいないのだろう。
(『暮らしに生かす旧暦ノート』鈴木充広 河出書房新社 2005年)
「桜の木の下には屍体が埋まっている」
目の前の桜の木の下に埋まっているのは、
屍体ではなく三色団子の串かもしれない。
けれど、屍体が埋まっているとしか思えないほど、
その花は美しく頭上を飾っていた。
(『暮らしに生かす旧暦ノート』鈴木充広 河出書房新社 2005年)
昨夜のEテレ「2355」でトビーが
お花見のシーズン到来。
僕の経験談ですが、
「花より団子」とは言うけども、
お花見で団子を食べている人、
見たことない
と言っていましたね(*´▽`*)
ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!
【桜と花見のおなまえ】で
「お花見団子(三色団子)」はピンクは桜で春を、
白は雪で冬を、緑は新緑で夏を意味しているそうです。
「秋」がないのは、「飽(あ)きない=商(あきな)い」を意味し、
商売繁盛を願ってこの三色になったのだそうです。
ちなみに、江戸に桜の木を植えて花見で経済を活性化させたのは、
八代将軍徳川吉宗だったそうです。
『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』に
三色団子ではありませんが、
桜餅について書かれていましたので転記しますφ(..)
江戸見物と名物
九月二十日
(略)さて向島あたり茶屋・料理屋向かつ別荘などの風雅なること筆紙につくしがたく、
ただうらやましくばかり也、
夫より牛の御前に参詣、この所の懸茶屋に茶を吞、桜餅など喰
(略)浅草観音え参詣ここにて浅草餅を喰、
それより浅草通にてすしなど喰、また祇園豆腐にて飯を喰(略)
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』
青木直己 ちくま文庫 2016年)
(…略…)
この後、牛の御前(牛島神社)の茶店で桜餅を食べています。
このあたりは隅田川の東岸にあたり墨堤(ぼくてい)と称され、
桜餅の発祥の地としても有名です。
享保2年(1717)八代将軍徳川吉宗は鷹狩りの際にこの地を訪れ、
風景の寂しさを残念に思い隅田川堤に桜の植樹を命じています。
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』
青木直己 ちくま文庫 2016年)
吉宗という人は、揺らぎ始めた幕府の基礎を享保の改革によって建て直した将軍として、
後世「名君」のひとりにあげられています。
伴四郎が食べた桜餅、実は名君吉宗の「公園」政策のおかげなのです。
吉宗は、ほかにも飛鳥山(北区)、
御殿山(品川区)にも桜の木を植え、
中野(中野区)には桃園を作り、江戸に新しい名勝を作りました。
こうした政策は、江戸の人々が憩う「公園」を作ることを目的のひとつとしていました。
名勝墨堤にも多くの人が訪れ、
それを目当てに茶店が設けられるようになりますが、
桜の木の手当てなどはこうした茶店の売り上げから支出されていました。
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』
青木直己 ちくま文庫 2016年)
桜餅は、隅田川堤近くの長命寺で働いていた人が、
桜の葉を塩漬けにしてその葉で餡を入れた餅を包んだのが始まりです。
墨堤を彩る江戸名物で、その店は現在に続いていますが、
江戸時代には桜葉は二枚、現在は三枚です。
ちなみに桜の葉は大島桜で、
現在では静岡県伊豆地方(松崎町)のものが多く使われています。
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』
青木直己 ちくま文庫 2016年)
「桜もち資料室」(向島長命寺桜もち)
現在の桜餅は、小麦粉生地が東京風、
道明寺生地のものが関西風と言われていますが、
江戸の桜餅にしてももち米や葛など生地に変遷があり、
長い年月をかけて現在のような姿になっています。
粽(ちまき)や柏餅のように桜餅も植物の葉を使うところは一緒ですが、
葉を塩漬けしているところに特徴があります。
つまり菓子を包む葉を、食べられる状態にしているのです。
たしかに桜葉の塩味とともに、
甘い餡を口に含んだときの美味しさは格別です。
一方、葉を取って餅に移った桜の香を楽しむ人もいて、
桜餅ひとつをとっても色々な楽しみ方が出来るのです。
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』
青木直己 ちくま文庫 2016年)
江戸でも名高い名物となった桜餅、
いったいどれくらい売れたのでしょう。
文政7年(1824)1年間にこの店が使用した桜葉は77万5千枚、
一つの餅を2枚の葉で包むので、餅の数は38万7千5百個、
1日平均1千76個もの桜餅が売れていた計算になります(『兎園(とえん)小説』)。
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』
青木直己 ちくま文庫 2016年)
「隅田川の桜餅」(江戸食文化紀行―江戸の美味探訪―)
「江戸の名物、名店」(錦絵で楽しむ江戸の名所 国立国会図書館)