2019年3月2日土曜日

青空で暖かい朝は今日までかな?

今朝もいい天気でポカポカ陽気でした(^^♪
心が温かくなる記事に出会いました。
“みんな大切な私の子どもたち” ボランティア27年間の旅路
明日は雛祭ですね。
今日の「チコちゃんに叱られる」(大阪なので再放送)でも
ひな祭りのことが問題に出ていましたね。
「おだいりさまとおひなさま」を勘違いしていました(^^ゞ
有識故実大辞典』より「上巳(じょうし)」を転記しますφ(..)
じょうし(上巳)
 三月の初めの巳(み)の日をいう。
「じょうみ」の意味。
この日、水辺に出て不祥を除くための禊(みそぎ)・祓(はらえ)を行い、宴会を催して祝す。
中国より渡来した行事であるが、わが国では、
顕宗(けんぞう)天皇元年をはじめとして『日本書紀』にみえ、
大宝元年(701)より、三月三日の行事となる。
中国においても、はじめは巳の日であったものが魏の時代より三日になったという。
中国のこの行事のいわれは、明らかに、
けがれを祓い清め、招魂の意味もふくまれていたようだが、
わが国のこの儀は招魂の意味はなく、
わが国独特の祓の思想と結びつき、大いに発展していったのであろう。
(『有識故実大辞典』鈴木敬三編 吉川弘文館 平成7年)
雑令には、三月三日は節日(せちにち)となっており、
大化改新以後は、三月三日の節日となっている。
神亀5年(728)3月以後は、曲水(ごくすい)宴の日となり、
流れに盃を浮かべて文人たちが詩をつくる宴の祝となった。
平城(へいぜい)天皇のとき、一時、停廃となったが、
嵯峨天皇は、これを復活し、摂関時代には、さかんに行われた。
朝廷の行事としてのほかに、『御堂関白記(みどうかんぱくき)』には、
藤原道長の私第で曲水宴が行われた例もみられる。
また、祓の道具として贖物(あがもの)と称する人形(ひとがた)が、この日、用いられる。
自分の罪を人形に託し、人形を肌身にすりつけ、息を吹きかけ、
これを水辺に棄て流す風習は、わが国の俗信仰として古代から存した。
『延喜式』などにもあり、「阿未加津(あまがつ)(天児)」
「這子(ほうこ)」などが古くからあったことが知られる。
『源氏物語』須磨でも、上巳の祓を須磨の海岸で源氏が行い、人形を海に流している。
(『有識故実大辞典』鈴木敬三編 吉川弘文館 平成7年)
また、幼女の遊びとしての小さな人形とこの上巳の祓の人形とが結合して、
のちの雛祭の雛人形となる。
上巳の人形も、中世以降は次第に立派なものとなり、
棄て雛ばかりではなく、飾り雛も造られるようになり、
江戸時代になって、平安時代の宮廷の階層をまねた雛段を造り、
これが飾り立てる雛祭となってゆくのである。
(『有識故実大辞典』鈴木敬三編 吉川弘文館 平成7年)
雛祭は桃節句ともいい、三月三日に雛人形を飾って祭り遊ぶ風習であるが、
はじめは「ひひな遊び」と称し、平安時代に幼女が可愛らしい人形で遊ぶことをいった。
『紫式部日記』に、皇子誕生の五十日祝(いかのいわい)の小道具を
「小さき御台、御皿ども御箸の台、洲浜などもひひな遊びの具と見ゆ」とあり、
『源氏物語』若紫にも
「ひひな遊びにも絵かい給ふにも、源氏の君とつくりいて」
とみえ、
『枕草子』にも
「過ぎにしかた恋しきもの(中略)ひひな遊びの調度」
などとみえる。
「ひひな」は上巳の祓、三月三日とは関係なく、
常に幼女の遊びの玩具として用いられていた。
(『有識故実大辞典』鈴木敬三編 吉川弘文館 平成7年)
こうして平安時代に遊びの「ひひな」と祓の道具の人形とがあり、
『台記(たいき)別記』久安六年正月二十三日条にも「有比々奈遊事」とみえる。
室町時代からは三月三日のために人形を贈呈することなどが行われており、
『建内記(けんないき)』永享十二年(1440)三月三日条に
「上巳祓在貞朝臣自昨日人形」とみえ、
上巳祓のために贈られた人形が枕辺におかれ、
祓ののち、神聖なものとして翌年にも用いられるようになり、
児が三歳になるまで身に添えて持たせるという風習などもあった。
『御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)』文明十一年(1479)閏九月九日条、
『言継卿記(ときつぐきょうき)』弘治二年(1556)十月十三日条などには、「ひひな」をおくるとある。
(『有識故実大辞典』鈴木敬三編 吉川弘文館 平成7年)
これらはやはり三月三日とは関係なく行われたものだが、
『時慶卿記(ときよしきょうき)』寛永六年(1629)三月四日条に
「昨日中宮ニテヒイナノ樽台等ニ有酒」とみえ、江戸時代初期には、
「雛遊び」が三月三日に定着している。
(『有識故実大辞典』鈴木敬三編 吉川弘文館 平成7年)
雛遊びが雛祭に移るのは、令の規定の三月三日の節会を
江戸幕府が五節句の一つとして制定したことにも一つの理由があろう。
上巳の祓の形代の人形が保存されるようになり、
一年一度、三月三日に娘の幸福を願って飾るという風習が上下に行きわたり、
宝暦年間(1751―64)以後、京都から江戸への文化の移動につれて、
文化・文政年間(1804―30)には京都とともに江戸にも、
三月三日に雛人形を飾るという雛祭が隆盛になってゆく。
さらに雛市・雛売などの商売もおこり、平和な江戸市民の間にひろがってゆき、
雛祭は、明治・大正へと盛んになってゆくのである。
(山中 裕)
(『有識故実大辞典』鈴木敬三編 吉川弘文館 平成7年)
岩永直子さんのTwitter(2019年2月28日)
大塚篤司先生に外部執筆者に加わっていただきました!
 アトピー性皮膚炎にステロイドを使うのをためらっている
 親御さんに向けた記事を依頼したら、
 こんなに優しい言葉を贈ってくださいました。
 科学的な正確さだけでは届かない。 
 この伝え方を見習いたいです。


あの日お会いすることができなかった『脱ステ』ママへの手紙」(大塚篤司)
今朝の父の一枚です(^^)/
今日は父の方が鳥たちとよく出会っていますp(^^)q