もう3月ですね(◎_◎;)
昨日は雨でリハビリ散歩をあきらめましたが
今朝は、青空でポカポカ陽気でした(*^^*)
ムラサキシジミが日光浴をしていました。
よく伝統を重んじるように仰る方の話を聞いていると
なんか明治時代になってからのことを伝統と言われているような気がします。
明治政府によってそれまでの伝統・風習がかなり変えられてしまいました。
「明治維新と即位式・大嘗祭」を転記しますφ(..)
明治維新と即位式・大嘗祭
1868年1月3日にあたる慶応3年12月9日、王政復古の大号令で、
摂関や幕府の廃絶とともに「神武(じんむ)創業」の理念が掲げられた。
68年3月の神仏分離のあと、同年8月12日に御即位新式取調御用に
亀井茲監(かめいこれみ)、福羽美静(ふくばびせい)が任じられる。
福羽は、大嘗祭は少しも変化すべきでないが、
即位式は時代に応じて整えるものとする。
(『岩波 天皇・皇室辞典』
原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
同年8月27日に京都御所で行われた即位式では、
第1に、中国式の礼服である袞冕(こんべん)や
陰陽道に基づく大旌(だいせい)
あるいは火炉への香木進献も唐制ゆえに廃止された。
そして庭に立てられる旗が、八咫烏(やたがらす)、
霊鵄(れいし)などの神武神話の意匠にかわる。
即位灌頂も神仏分離を受けてここに廃絶する。
(『岩波 天皇・皇室辞典』
原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
第2に、天気が晴れの場合には南庭に置かれた大地球儀の日本の所に天皇が3度、
沓をあてるはずであったが、雨が降ったために中止となった。
当初の案は国際社会に対する新政府の姿勢として、注目される。
第3に、即位後に神武天皇陵に奉告がなされた。
近世のように天智(てんじ)天皇や桓武(かんむ)天皇以来の
平安京の天皇を祀る仏教的な始祖意識とは違い、
神武天皇陵は「万世一系」の近代の始祖陵であった。
(『岩波 天皇・皇室辞典』
原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
第4に、68年の即位式は福羽や岩倉具視(いわくらともみ)の意見を入れて、
一世一元制と連動して行われたことである。
今まで即位式の翌年に行われた改元の儀は、同年9月7日になされた。
また第5に、即位式は、9月20日の東幸に連動していた。
(『岩波 天皇・皇室辞典』
原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
さて69年3月の東京「奠都(てんと)」には、関東難治への対応、
横浜掌握の外交的意図、
京都の公家社会からの離脱という目的があったが、
大嘗祭を京都と東京のどちらで行うかは、
維新政府の政治構想を左右する問題であった。
神祇(じんぎ)行政を主導する福羽らは、
京都への還幸(かんこう)論をとなえ
古代の大嘗祭を忠実に復元しようとする
矢野玄道(やのはるみち)、角田忠行(つのだただゆき)などの
平田派国学者を、71年春に処断する。
かくして同年11月の大嘗祭は東京で行われた。
(『岩波 天皇・皇室辞典』
原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
その特色として、
第1に、前近代の京都を中心とする畿内の地域的基盤を断ち切り、
全国からの庭積机代物(にわつみのつくえしろもの)を創始し、
全国土の穢悪を祓う大祓を再興し、
天皇制を全国的なものへと編制替えしたことである。
全国を対象に占われた悠紀国は甲斐国巨摩郡、
主基国は安房国長狭郡であった。
第2に、虚礼を廃し、近世には3日あった節会(せちえ)を
豊明節会として1日で盛大に行った。
第3に、攘夷主義を排し、国際社会に対応して豊明節会に外国人を招き、
国際化に対応して、「全国一主[天皇]の統御に帰」すことが宣言された。
第4に、大嘗会告諭で
「御即位継体の初、殊に大嘗の大義を行ひ玉ふことは、
新帝更に斯(この)国を所知食(しろしめ)し、
天祖[天照大神]の封を受玉ふ所以」
とされるが、
これは、本居宣長(もとおりのりなが)に始まる
復古神道の神学が公論として採用されたことを意味する。
天照大神以来の皇祖皇宗観念が成立するとともに
全ての天皇は皇祖天照大神の御子(みこ)となる、
すなわち大嘗祭を通じて天皇は神となるという
近代の大嘗祭解釈の登場である。
(『岩波 天皇・皇室辞典』
原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
1871年の大嘗祭は東京で行われ、
廃仏毀釈や文明開化状況の中で前近代の伝統が軽視された。
それに対し、77年1~7月の大和・京都行幸を契機とし、
京都の「伝統」的な空間を保存しようとする動きが、
80年代に起こってくる。
宮内庁書陵部には、たとえばロシア(ロマノフ家)の
「露国帝室礼式報告書」(1882)をはじめ
イギリス(ハノーヴァー家)・オーストリア(ハプスブルク家)・
プロイセン(ホーエンツォレルン家)などの、
戴冠式や王室儀礼の報告書が多く存在する。
(『岩波 天皇・皇室辞典』
原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
ロシア兼スウェーデン公使としてヨーロッパに滞在していた
柳原前光(やなぎわらさきみつ)は、82年の「帝室儀式の議」の中で、
オーストリアではすでにリンク通りにガス灯がともっているのに、
わざわざ戴冠式では松明を焼き、
新帝が馬に乗って高い丘で号令をかけるといった
オーストリア独自の「国風」の儀式がなされる実態を伝える。
またロシアでは政治的首都ペテルブルクではなく、
わざわざ伝統ある宗教都市のモスクワに移動して戴冠式を行う。
ヨーロッパという1つの文化があるのではなく、
オーストリアはオーストリアなりの、
ロシアはロシアなりの独自の文化を有することが、
「一等国」たるに不可欠との論である。
(『岩波 天皇・皇室辞典』
原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
かくして83年1月の岩倉具視「京都皇宮保存に関し意見書」で、
即位式・大嘗祭を京都御苑で行うことを核とし、
賀茂祭・石清水放生会を復興し、桓武天皇奉祀の神社を創建し、
宮内省支庁を設置するなどの総合的な古都京都の「旧慣」保存策が登場する。
岩倉は、ロシアのペテルブルクとモスクワの二都制を、
東京と京都に応用しようとする。
この建議が、89年2月に制定された皇室典範第11条の
「即位の礼及大嘗祭は京都に於いて之を行ふ」の規程につながる。
(『岩波 天皇・皇室辞典』
原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
今朝の父の一枚です。
今日から「山のエリア」が全面開園になりました。
父が写しているのは大きな松ぼっくりを楽しませてくれたヒマラヤスギ
倒れなかったけどなんか哀れな姿に…
それにしても大変な復旧作業を委託業者の人たちはやってくれたと
おなじみさんと話していましたし
この期間、市の職員の姿を見ることはなかったので
大阪市は、カジノ誘致などに予算を回しているんだろなとも話していました。