石造鳥居
正徳元年(1711年)銘有り。
この鳥居には額が無いが、むかし後水尾天皇宸筆の額がかゝげて有り、
江戸時代 前の道が西国大名参勤交代の道筋にあたっていたので
各大名は神社前を通る時駕籠からおり拝礼をして
槍などをたおして通行しなければならなかった。
しかし幕末動乱の時代となりこのような悠長なことでは時代に即しないと
新撰組の近藤勇がはずしたと云われている。
社務所
正徳元年(1711年)銘有り。
この鳥居には額が無いが、むかし後水尾天皇宸筆の額がかゝげて有り、
江戸時代 前の道が西国大名参勤交代の道筋にあたっていたので
各大名は神社前を通る時駕籠からおり拝礼をして
槍などをたおして通行しなければならなかった。
しかし幕末動乱の時代となりこのような悠長なことでは時代に即しないと
新撰組の近藤勇がはずしたと云われている。
社務所
義民焼塩屋権兵衛之碑
焼塩屋権兵衛(姓は平田)は深草村に生まれました。
とても人情に厚く多くの人々に慕われ町の年寄(役員)に選ばれました。
時に安永8年(1779)伏見奉行(役所)に小堀政方が着任し
その後地位を利用して暴政を振舞うに至り、
そのために伏見の人々を窮地の底に陥れる結果となりました。
こうした人々の苦難を救おうと焼塩屋権兵衛は
他の年寄文珠九助ら総勢7名と共に立ち上がり、
江戸幕府に命がけの直訴に及び
ついに奉行を罷免させる本懐を遂げたのであります。
しかし、焼塩屋権兵衛は、再吟味による尋問に遭い、
天明7年(1788)獄中で病臥し非業の最後を遂げました。
深草そして伏見の地が栄えて来たのも
ひとえに焼塩屋権兵衛ら義民の犠牲の賜物です。
(説明板より。いつものことですが、原文のままではありませんし、
焼塩屋権兵衛(姓は平田)は深草村に生まれました。
とても人情に厚く多くの人々に慕われ町の年寄(役員)に選ばれました。
時に安永8年(1779)伏見奉行(役所)に小堀政方が着任し
その後地位を利用して暴政を振舞うに至り、
そのために伏見の人々を窮地の底に陥れる結果となりました。
こうした人々の苦難を救おうと焼塩屋権兵衛は
他の年寄文珠九助ら総勢7名と共に立ち上がり、
江戸幕府に命がけの直訴に及び
ついに奉行を罷免させる本懐を遂げたのであります。
しかし、焼塩屋権兵衛は、再吟味による尋問に遭い、
天明7年(1788)獄中で病臥し非業の最後を遂げました。
深草そして伏見の地が栄えて来たのも
ひとえに焼塩屋権兵衛ら義民の犠牲の賜物です。
(説明板より。いつものことですが、原文のままではありませんし、
転記間違いがあると思います)
着いたのが紫陽花苑の開園時間の9時前で
アジサイも咲き初め…
アジサイも咲き初め…
藤森神社(ふじのもりじんじゃ)にやってきました(o^^o)
藤森神社
本殿中央に神功(じんぐう)皇后・応神(おうじん)天皇・素戔嗚命(すさのおのみこと)ら7柱、
東殿(藤尾社(ふじおしゃ))に、天武(てんむ)天皇ら2柱・
西殿(塚本社(つかもとしゃ))に早良(さわら)親王ら3柱をまつる。
深草の産土神(うぶすながみ)。
社伝によれば神功皇后の創建というが、深草郷(ごう)各所にあった社(やしろ)を、
中世になってこの地に合祀(ごうし)したものと思われる。
古くから武神としてあがめられ、5月5日の藤森祭りは、
武者行列や駈馬(かけうま)の曲乗りが奉納される。
菖蒲の節句に武者人形をかざるのは当社にはじまるという。
本殿背後の摂社八幡宮社(せっしゃはちまんぐうしゃ)と大将軍社(だいしょうぐんしゃ)の社殿(ともに国重文)は、
ともに1438(永享(えいきょう)10)年、足利6代将軍義教(よしのり)の造営と伝える。
境内には、神功皇后が外征から凱旋(がいせん)した際に旗を埋めたという旗塚や、
元寇(げんこう)のとき斬った蒙古の将兵の首を埋めたという蒙古塚などがある。
また6月になると、境内の一画がアジサイ園として開放される。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』)
本殿中央に神功(じんぐう)皇后・応神(おうじん)天皇・素戔嗚命(すさのおのみこと)ら7柱、
東殿(藤尾社(ふじおしゃ))に、天武(てんむ)天皇ら2柱・
西殿(塚本社(つかもとしゃ))に早良(さわら)親王ら3柱をまつる。
深草の産土神(うぶすながみ)。
社伝によれば神功皇后の創建というが、深草郷(ごう)各所にあった社(やしろ)を、
中世になってこの地に合祀(ごうし)したものと思われる。
古くから武神としてあがめられ、5月5日の藤森祭りは、
武者行列や駈馬(かけうま)の曲乗りが奉納される。
菖蒲の節句に武者人形をかざるのは当社にはじまるという。
本殿背後の摂社八幡宮社(せっしゃはちまんぐうしゃ)と大将軍社(だいしょうぐんしゃ)の社殿(ともに国重文)は、
ともに1438(永享(えいきょう)10)年、足利6代将軍義教(よしのり)の造営と伝える。
境内には、神功皇后が外征から凱旋(がいせん)した際に旗を埋めたという旗塚や、
元寇(げんこう)のとき斬った蒙古の将兵の首を埋めたという蒙古塚などがある。
また6月になると、境内の一画がアジサイ園として開放される。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』)
手水鉢台石の由来
この手水舎の水鉢の台石は宇治浮島にある十三重の塔の上より五番目の石を
石川五衛門がもち来たりし物と云われており
現在十三重の塔を見るとその部分だけ石の色が違っているのがわかる。
社務所
この手水舎の水鉢の台石は宇治浮島にある十三重の塔の上より五番目の石を
石川五衛門がもち来たりし物と云われており
現在十三重の塔を見るとその部分だけ石の色が違っているのがわかる。
社務所
学藝の祖 舎人親王崇敬碑
(右側)
舎人(とねり)親王は天武天皇の皇子。
親王は持統、文武、元明、元正、聖武の五朝で国政に参与され皇室の長老として重んじられ、
日本書紀の編集を主宰(しゃさい)し奏上した。
この年 知太政官事(ちだじょうかんじ)となり、死後 御子 淳仁(じゅんにん)天皇即位に及んで、
崇道尽敬(すどうじんぎょう)天皇の称号が贈られた。
舎人(とねり)親王は天武天皇の皇子。
親王は持統、文武、元明、元正、聖武の五朝で国政に参与され皇室の長老として重んじられ、
日本書紀の編集を主宰(しゃさい)し奏上した。
この年 知太政官事(ちだじょうかんじ)となり、死後 御子 淳仁(じゅんにん)天皇即位に及んで、
崇道尽敬(すどうじんぎょう)天皇の称号が贈られた。
(左側)
舎人親王(崇道尽敬天皇)は日本最初の歴史書である「日本書紀」の編纂を主宰。
720年に完成し、紀30巻系図1巻を奏上した。
また、曾孫の清原夏野は「令義解(りょうのぎけ)」「日本後紀」を編集、
同族の清原深養父(ふかやぶ)、清原元輔(もとすけ)や清少納言は歌人・文人として知られ、
清原家は、菅原家、江家と並び学問の家系として活躍、万葉集には3首の歌が残されている。
そのため舎人親王を祀る藤森神社は学問の神として、崇敬され近世国学発生の母体となった。
また一方で、舎人親王は弓矢蟇目(ゆみやひきめ)の秘法を伝えられるなど、
文武両道に優れたお方であられ、皇室や藤原一門、武家の崇敬もあつかった。
舎人親王(崇道尽敬天皇)は日本最初の歴史書である「日本書紀」の編纂を主宰。
720年に完成し、紀30巻系図1巻を奏上した。
また、曾孫の清原夏野は「令義解(りょうのぎけ)」「日本後紀」を編集、
同族の清原深養父(ふかやぶ)、清原元輔(もとすけ)や清少納言は歌人・文人として知られ、
清原家は、菅原家、江家と並び学問の家系として活躍、万葉集には3首の歌が残されている。
そのため舎人親王を祀る藤森神社は学問の神として、崇敬され近世国学発生の母体となった。
また一方で、舎人親王は弓矢蟇目(ゆみやひきめ)の秘法を伝えられるなど、
文武両道に優れたお方であられ、皇室や藤原一門、武家の崇敬もあつかった。
御旗塚
神功皇后が、纛旗(とうき)(軍中の大旗)を樹てた所で、当社発祥の場所である。
このいちいの木は〝いちのきさん〟として親しまれ、こゝ参拝すると腰痛が治ると云われ
幕末の近藤勇も参拝し治したと伝えられている。
(腰痛除守を授与しております。)
神功皇后が、纛旗(とうき)(軍中の大旗)を樹てた所で、当社発祥の場所である。
このいちいの木は〝いちのきさん〟として親しまれ、こゝ参拝すると腰痛が治ると云われ
幕末の近藤勇も参拝し治したと伝えられている。
(腰痛除守を授与しております。)
摂社八幡宮社
大将軍社 重要文化財
御祭神 磐長姫命(いわながひめのみこと)
桓武天皇が平安遷都をされた時に、
都の四方に大将軍社が祀られ、
その内の南方の守護神として祀られたのがこの社である。
古来より方除けの神として崇敬を集めている。
現在の社殿は、室町時代永享10(1438)年、時の将軍足利義教の造営で、
造りは一間社流造りのこけら葺の建物である。
御祭神 磐長姫命(いわながひめのみこと)
桓武天皇が平安遷都をされた時に、
都の四方に大将軍社が祀られ、
その内の南方の守護神として祀られたのがこの社である。
古来より方除けの神として崇敬を集めている。
現在の社殿は、室町時代永享10(1438)年、時の将軍足利義教の造営で、
造りは一間社流造りのこけら葺の建物である。
不二の水
水 六 訓
一、水は尊し
水無くんば成らず、育たず心有る者
その加減を知り水を大切にせよ
水無くんば成らず、育たず心有る者
その加減を知り水を大切にせよ
二、水は美し
冷熱に応じて虹と化し氷と変わり、
水晶となる
冷熱に応じて虹と化し氷と変わり、
水晶となる
三、水は清し
常に味わいて飽きず、
汚穢を洗い清める
常に味わいて飽きず、
汚穢を洗い清める
四、水は強し
いかなる障害にも屈せず、
自ら進みて天を成し地を動かす
いかなる障害にも屈せず、
自ら進みて天を成し地を動かす
五、水は恐し
人を呑み、船を覆し、
山野を汲して地表をも変貌す
人を呑み、船を覆し、
山野を汲して地表をも変貌す
六、水は深し
その源神に発し大自然の道を示し、
波瀾曲折の人生を思わしむ
社務所
その源神に発し大自然の道を示し、
波瀾曲折の人生を思わしむ
社務所
9時を過ぎても紫陽花苑は開園しないみたいなので
先を急ぐことにしました…
先を急ぐことにしました…
紫陽花苑の外に
蒙古塚(もうこづか)
昔は七つの塚が有り 七ツ塚とも云われていました。
蒙古の将兵と戦利の兵器を納めた所です。
社務所
昔は七つの塚が有り 七ツ塚とも云われていました。
蒙古の将兵と戦利の兵器を納めた所です。
社務所
略図を見ながら歩いていて標識があったので駐車場の所から入ると
なんか裏口から入ったみたい…
(本堂から境内を撮しています。
帰るときに入口に向かうと鍵はかかっていなかったのですが、扉が閉まっていました。
入口から訪問していたら諦めていただろうな…)
なんか裏口から入ったみたい…
(本堂から境内を撮しています。
帰るときに入口に向かうと鍵はかかっていなかったのですが、扉が閉まっていました。
入口から訪問していたら諦めていただろうな…)
欣浄寺(ごんじょうじ)
清涼山(せいりょうざん)と号する曹洞宗の寺院である。
寺伝によれば寛喜2年(1230)から天福元年(1233)まで道元禅師がこの地で教化を努め、当寺を創建したといわれている。
当初、真言宗であったが応仁の乱(1467)後曹洞宗となり、天正・文禄(1573~92)の頃、
僧 告厭(こくえん)が中興し浄土宗に改められ、さらに文化年間(1804~18)にもとの曹洞宗に改宗した。
本堂には俗に「伏見の大仏」と呼ばれる丈六の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)をはじめ、
阿弥陀如来像、道元禅師石像などを安置している。
また当地は昔深草少将の屋敷があったところと伝えられ、池の東の籔陰の道は「少将の通い道」と呼ばれ、
訴訟のある者はこの道を通ると願いが叶わないといわれている。
なお、池の畔には少将と小野小町の塚と「墨染井(すみぞめい)」と呼ばれる井戸がある。
京都市
清涼山(せいりょうざん)と号する曹洞宗の寺院である。
寺伝によれば寛喜2年(1230)から天福元年(1233)まで道元禅師がこの地で教化を努め、当寺を創建したといわれている。
当初、真言宗であったが応仁の乱(1467)後曹洞宗となり、天正・文禄(1573~92)の頃、
僧 告厭(こくえん)が中興し浄土宗に改められ、さらに文化年間(1804~18)にもとの曹洞宗に改宗した。
本堂には俗に「伏見の大仏」と呼ばれる丈六の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)をはじめ、
阿弥陀如来像、道元禅師石像などを安置している。
また当地は昔深草少将の屋敷があったところと伝えられ、池の東の籔陰の道は「少将の通い道」と呼ばれ、
訴訟のある者はこの道を通ると願いが叶わないといわれている。
なお、池の畔には少将と小野小町の塚と「墨染井(すみぞめい)」と呼ばれる井戸がある。
京都市
小野小町塚(左)・少将の塚(右)
池の畔にあるのが
墨染井(すみぞめのい)
井戸は一名「涙の水」、あるいは「少将姿見の井戸」ともいうそうです。
少将が通ったのが山科の「随心院」だそうですね。
井戸は一名「涙の水」、あるいは「少将姿見の井戸」ともいうそうです。
少将が通ったのが山科の「随心院」だそうですね。
少将は百日目に…
(本堂の見学は事前の予約が必要です。
(本堂の見学は事前の予約が必要です。
右の柱に「撞木町廓(しゅもくちょうくるわ)入口」、
左には「志ゆもく町廓入口」。
左には「志ゆもく町廓入口」。
近くまで行きながら見つけられなかったのですが
「撞木町廓之碑」があるそうです(^^ゞ
この祠の近くだと思うのですが…
地蔵さんに笑われているかな(^0^;)
近鉄の伏見駅を目ざしました。
そこから丹波橋に戻ったのは
駅に着いたのが10時頃なので大阪に帰ることにしました。そこから丹波橋に戻ったのは
昨日紹介した『ネガティブ・ケイパビリティ』を読んでいると
『キーツ詩集』が読みたくなったので天満橋で購入しました。
やっと11時になったので辛子大根の蕎麦をいただきました(*゜∀゜*)
KAZEさん
返信削除こんばんは
藤森神社ちょうど一年前に
母と紫陽花を見に行きました
http://kokorono.html.xdomain.jp/archive3/kokoronoyukue3/article/181.html
KAZEさん入ることができなかったのでしょうか?
KAZEさんがお出かけされる
あちらこちらのお写真から
お母様の気配が伝わってきます
息子さんにこんなに愛されるお母様
幸せですね
becoさんこんばんは(*^O^*)/
削除becoさんのお母さんの誕生日プレゼントに訪ねられたのですよね(o^^o)
平日だったのでのんびりとされていたのかな?
昔、訪ねたことがありますし、まだ咲き初めだったので
紫陽花苑の外からでも楽しめたので次に移動しました(*^ー゜)
悲しみを癒やす方法として表現(絵画、文章など)をすることが有効だと言われますよね。
こうして、母さんのことを思い浮かべながら記事にしたりすることが
母さんを弔うことにもなるのだなと思います。
今読んでいる帚木蓬生さんの『ネガティブ・ケイパビリティ』はとっても心に響いてきます。
<日薬><目薬>という言葉があるのですが、なるほどと思いました。
(<目薬>は点眼薬ではありません(^▽^)…)
こんばんは~
返信削除藤森神社のアジサイ園は、残念でしたねぇ~
雨上がりのアジサイはきっとキラキラゆらゆら素敵だっただろうと思いました。
次の機会のお楽しみですね。(^^)/
>水六訓
水は強し、清し、響きます。
カイさんおはようございます(*^O^*)/
削除>雨上がりのアジサイはきっとキラキラゆらゆら素敵だっただろうと思いました。
紫陽花に囲まれて撮したかったのですが…
いつもリハビリ散歩で撮しているような写真になりました(^^ゞ
水は変化自在ですよね。
そして人間の力ではどうすることも出来ない力をもっている!
自然に対して、ものごとに対して謙虚でなければならないと思います。
ある事故で「想定外」という言葉が聞こえてきましたが
人間の知恵なんてちっぽけなものなのにと思います。