血圧を測ると上が148で、下が92もありました…
朝食は食べることができましたが休養日にすることにしました。
午前中は、腰痛もきになるので整骨院へ通院するとかなり背中・腰が硬いそうです…
テーピングをしていただくとかなり楽になりました。
午後からメガネ屋さんに行って、昨日の処方箋をみていただいて新しいメガネを作ってもらうことにしました。
気分が悪くなる原因の一つにメガネが合っていないこともあるかもしれません。
近視が軽くなり、遠視(老眼)が進んでいるそうです(@@;)
来週には、出来上がる予定です。
○ ○ ○ ○
6月24日(土)の中之島図書館での講演会では、新資料発見の意義を詳しく話していただきました。
・夫婦善哉は相当推敲している
・落ちを最初から考えて書かれていること
・反古紙が多く、いつでも詰まると続けずに止めてしまう
・ペン書き草稿『夫婦善哉―めをとぜんざい―』には、
ルビを振っているところから、自分では完成に近いと感じていたようである。
(赤の傍線は、私が画像に赤線を書き込んでいます)
など興味深かったです(90分間の講演でしたのでもっと内容は濃かったです)。
織田作之助の創作期間はたった7年間でしたが
“ 織田作之助の没後70年に際して、その仕事の再検証していくことのきっかけが与えられた。
現代の不安な時代にあってこそ、昭和14年から22年という戦争真っ只中にあって「軽佻」を標榜して文士として活躍した織田作之助を見直す価値がある。”(高橋俊郎氏のレジメより)
6月26日(月)に再び中之島図書館を訪ね
特別展 「没後70年記念 甦る織田作之助~大阪を駆け抜けた夭折の天才~」を見てきました。
資料は、撮影禁止だったのですが、HPに掲載されている色紙についてパンフレットに書かれていたのは
「がたろ忌寄書色紙(1963)」
昭和38(1963)年、作之助の命日に藤沢恒夫や石濱恒夫、長沖一、杉山平一らが名前を寄せた。
「がたろ忌」とは、毎年1月10日の織田作之助の命日を指す文学忌のことで、現在は「善哉忌」といわれることが多いようである。
作之助の自筆原稿などを見ながら読んでみたい作品が次々と出てきました(o^^o)
織田作之助が亡くなったときに太宰治が寄せた文章がありました(『東京新聞』昭和22(1947)年1月13日)
織田君の死
織田君は死ぬ氣でゐたのである。
私は織田君の短編小説を二つ通讀した事があるきりで、また、逢つたのも、二度、それもつい一箇月ほど前に、はじめて逢つたばかりで、かくべつ深い附合ひがあつたわけではない。
しかし、織田君の哀しさを、私はたいていの人よりも、はるかに深く感知してゐたつもりであつた。
はじめて彼と銀座で逢ひ、「なんてまあ哀しい男だらう」と思ひ、私も、つらくてかなはなかつた。
彼の行く手には、死の壁以外に何も無いのが、ありありと見える心地がしたからだ。
こいつは、死ぬ氣だ。
しかし、おれには、どう仕樣もない。
先輩らしい忠告なんて、いやらしい偽善だ。
ただ、見てゐるより外は無い。
死ぬ氣でものを書きとばしてゐる男。
それは、いまのこの時代に、もつともつとたくさんあつて當然のやうに私には感ぜられるのだが、しかし、案外、見當らない。
いよいよ、くだらない世の中である。
世のおとなたちは、織田君の死に就いて、自重が足りなかつたとか何とか、したり顔の批判を與へるかも知れないが、そんな恥知らずの事はもう言ふな!
きのふ讀んだ辰野氏のセナンクウルの紹介文の中に、次のやうなセナンクウルの言葉が錄されてあつた。
「生を棄てて逃げ去るのは罪惡だと人は言ふ。しかし、僕に死を禁ずるその同じ詭辯家が時には僕を死の前にさらしたり、死に赴かせたりするのだ。彼等の考へ出すいろいろな革新は僕の周圍に死の機會を增し、彼等の説くところは僕を死に導き、または彼等の定める法律は僕に死を與へるのだ。」
織田君を殺したのは、お前ぢやないか。
彼のこのたびの急逝は、彼の哀しい最後の抗議の詩であつた。
織田君! 君は、よくやつた。
(『太宰治全集 第十巻』筑摩書房 昭和52年)
・「生誕100年記念 織田作之助と大大阪」は2013年10月17日(木)の記事。
・織田作之助の墓を訪ねた記事は2015年9月24日(木)。