2017年6月13日火曜日

心臓リハビリ

今朝も体調が悪かったです。
テレビ体操を父さんとした後、
血圧を測ると上が147、下が102、心拍数は93でした。
今日もリハビリ散歩は、諦めて午前中静かにしていました。


午後から心臓リハビリなので病院について測ると「104,69,95」 で低いくらいでした。
始めに理学療法士のYさんの指導でセラバンドを使っての筋トレ
次にトレッドミルで30分間の歩行でした。
始める前に今朝の体調を伝えていたので理学療法士のNさんがついてくれて
看護師さんも途中で様子を見にきてくれました。

Nさんは退院を控えた2011年9月9日から心臓リハビリを担当してくださっている。
(産休・育休でしたが5月より復帰された)
今日も無理をせず時速4kmで歩きました。
30分間の歩行距離は、1.99kmで、消費カロリーは108kcalでした。

○ ○ ○ ○

リハビリが始まるまでの待ち時間に読んでいたのが
100分de名著の6月のテキスト『維摩経(ゆいまきょう』です。
今回の講師は釈徹宗さんで楽しみにしていました(^_^)b
『維摩経』は『大乗仏典 第七巻』(長尾雅人訳 中央公論社 昭和49年)で読んだことがあります。
とっても不思議な経典だと思っていました。
今回、釈徹宗さんの解説で魅力的な経典だということが分りました(^-^)
第1回が「仏教思想の一大転換
テキストの中から一部を抜き書きすると

「中阿含経ちゅうあごんきょう」の中の『阿梨咜ありた経』に、釈迦が、「私の教えは川を渡るための筏いかだのようなものである(欲望に流されず、安寧あんねいな世界へと到達するための比喩)。そして、向こう岸に渡ったら、筏を捨てていけばよい」と語っています。
この経典では、長夜じょうや 迷いの闇)の中にいる者に対して、欲望を捨てていく道を説いているのですが、究極的には仏教も捨てることを述べているのです。
つまり、「すべての執着を捨てよ」という教えは、その教え自体にも執着するなということです。
すごい話ではありませんか。

ある宗教体系がその内部に自己否定を設定している、そう考えることが出来ます。
こういう宗教体系はなかなかありません。
いわば「脱構築装置」(構築されたものを内部から揺さぶりを起こし、体系を再構築していく装置)とでも言うべきものが、仏教には内蔵されているということです。
そしてその装置をセットしたのは他ならぬ釈迦その人だったのです。

(P18)

 第2回が“「得意分野」こそ疑え”(再放送が、水曜日/午前5時30分~5時55分、午後0時00分~0時25分)

 維摩ゆいまはそれぞれの弟子が一番得意としているものをことごとく否定します。
舎利弗しゃりほつに対しては智慧、目連もくれんに対しては能力、大迦葉だいかしょう)に対しては乞食行のあり方を問い詰めています。
ここが『維摩経』の面白いところです。

(略)
 得意分野を持ち、ましてやそれを人から高く評価されると、人はどうしても「自分の考え方、やり方こそ正しいのだ」と思い込み、自分の作った枠組みを堅固にします。
維摩は釈迦の高弟たちに揺さぶりをかけ、自らの仏道を再構築するように導いたのですね。

(P37~38)
(『維摩経』)

聖徳太子が著わしたとされる『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)に『維摩経義疏』がありますが、
太子が数ある経典の中で維摩経を取り上げたヒントになるのが、
以下の中村元さんの解説だと思います。

太子はいうまでもなく、摂政という最高政治に携わる世俗の人であり、人間が生きていくうえの倫理の指針として、また統治の根本原理として仏教を採択したのである。
したがって仏教の理想は僧侶(出家)によって実現されるだけでなく、社会的な実践課題でなければならなかった。 (P78)
(中公バックス『日本の名著2 聖徳太子』責任編集 中村元 昭和58年)

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