今日から新年度が始まる
入社式などで希望を抱きながらも緊張している若者たちがいるのでしょうね。
大学を卒業した後、自分のやりたいことが分らず就職を諦めたけど
テレビに映る新入社員を見ながら鬱々としていたなぁ……
〝愛子さま 日本赤十字社に入社 「身の引き締まる思い」〟(NHK)三ヶ月がたっても断水などで
生活の再建が困難な状況におかれている人々がいます。
「能登半島地震3か月 今後も強い揺れや津波伴う地震に注意を」(NHK)今日から始まった朝ドラ「虎に翼」第1週「女賢しくて牛売り損なう?」 (1)
主人公の猪爪寅子(いのつめともこ)が家出をして向かおうとした先が「梅丸少女歌劇団」(「桜咲く国」)。
モデルになっている三淵嘉子と笠置シヅ子は同じ大正3年生まれ。
二人とも寅は寅でも「五黄(ごおう)の寅」(同志社女子大学 2021年)。
道を切り開いてく星のもとに生まれたのかもしれませんね。
寅子の父は「ブギウギ」で「アホのおっちゃん」を演じていた岡部たかしさん。
番組の冒頭で昭和21年日本国憲法が公布された新聞記事を読む姿が描かれていました。
(「帝国憲法ヲ改正スル(日本国憲法)」国立公文書館)
三淵嘉子について知らなかったのでこれからドラマがどのように描かれるのか楽しみにしています。この時期、目のかゆみやクシャミに悩まされるのですが、
1960年代にブタクサ花粉症の症例が発表され
1970年代後半からスギ花粉症が報告されるようになりました。
「過去40年間に見るスギ・ヒノキ花粉年次変動と患者数の推移」(佐橋紀男 東邦大学 2018. 6. 12)朝ドラ「虎に翼」では進駐軍が映っていました。
第5章 スギ花粉症になることができた日本人
●GHQと花粉症
戦後になって、いち早く日本の花粉症事情について論文を書いたのは、ニュージャージーアレルギー学会を立ち上げ、会長も務めたラルフ・アルフォード[1904-74]である。
アルフォードは1926年にプリンストン大学、1931年にコロンビア大学を卒業し、ニューヨークの大学病院などに勤めたあと、1942年から陸軍少佐となり、フィリピンを経て、戦後しばらく日本に滞在した。
GHQが接収した第307総合病院(旧大阪陸軍病院赤十字病院)でアレルギー主任を務め、「日本におけるアレルギー」という論文を『アレルギー』誌に投稿している(1948年)。
おそらく、駐日米兵のアレルギー対策のために文献調査を行なったのであろう。
(『花粉症と人類』小塩海平 岩波新書 2021年) 日本で手にすることのできるドイツ語や日本語の医学論文に依拠すると、牧草やブタクサの花粉はさほど問題にならず、とくに日本では草取りが熱心に行なわれるためブタクサは少ないはずであるという面白い考察がなされている。
日本の家屋は風通しがよく、寒い半面、ハウスダストは非常に少ないとも記されている。
日本でもっとも問題となっているアレルギーはじん麻疹で、エビ、カニ、カキ、青魚などの魚介、馬肉、ミルク、牛肉などの食べ物が原因とある。
この論文の締めくくりには「(日本には)アレルギーに関する医学文献は十分存在するが、それらの知識を臨床で応用する機会は限られている」という興味深い一文が登場する。
当時、患者が実在しなかったにもかかわらず、花粉症(枯草熱)に関する論文がいくつも報告されていた実情を指しているものと思われる。 日本における花粉研究の草分け的な存在である幾瀬マサ[1914―2011]も、研究のきっかけは1950年頃「横浜駐留軍が横浜ゼンソクにかかり大さわぎをした」ためと回想している。
結局、横浜喘息の原因は花粉ではなく亜硫酸ガスであることが判明したが、幾瀬はその後も花粉研究を継続、1956年には、大著『日本植物の花粉』(廣川書店)を上梓した。
また、1965年4月には、空中に飛散する花粉を調べるため、東京タワーの展望台の上部(地上135メートル)に花粉捕集器を取り付け、10平方センチあたり1日で10数個から80個(17種類)の花粉がとれたことを報告している。 東邦大学薬学部の教授であった幾瀬マサは、スギ花粉の数を正確に数えた最初の研究者であったと思われる。
「花粉とともに」(1967年)という随想から引用してみよう。
「スギは1花粉ぶくろに約3300箇、スギ鉄ぽうのたまにするあの米つぶのような雄花の集りに約39万6000箇数えられ、さらにスギの花の着いた枝約20センチをとってこの花の数を調べてかんさつするとなんと約10億にもなる。したがって1本の杉の木、そしてスギ林の花粉数と考えていくと天文学的数字である。したがって空中飛散花粉数を調べようとして屋上にだしておいたスライドの10平方センチに24時間に何千ものスギの花粉が数えられてもあたりまえといえる」 ●田淵幸一選手の引退
花粉症の存在が世間に広く知られるようになったのは、管見の限り、プロ野球の田淵幸一選手が花粉症のために引退を表明してからである。
『週刊文春』の1984年4月12日号には、本人の談話が以下のように掲載されている。 「いやー、はな水が自然に出て、鼻がむずがゆくて、むずがゆくて……。水っけの多いはな水で、ひとりでに出てくるんです。何かを見ても、焦点が定まらなくて、ボケーッとしているんです。かすんでいる感じですね。本当に往生していますわ。(中略)ものを食べてもおしくないし、においもまったくわからない。味が消されているんですから、食べてもおいしくないはずですよ。(中略)打撲とか外傷の方が気が楽ですよ。時間がたてば完治するんですからね。こういうのが一番タチが悪い。風邪だって、摂生すればある程度は防げるでしょう。しかしこればっかりは、いくら摂生してもどうしようもない。誰のせでもないから、誰にあたることもできない。これはつらいですよね。(中略)こんな気持ちで開幕を迎えたのは、16年の選手生活で初めてですよ。集中力がまったくなくなり、気持がのんべんだらりとする。もう、選手にとって大敵ですよ(クション)」 厚生省が動き始めたのはこの頃で、1985年から2年間「植物に起因するアレルギー症の基礎的臨床研究」を、1988年から3年間「花粉症における予防・治療に関する研究」を課題として取り上げた。
一方、1991年に平田米男衆議院議員が花粉症に関する国会質問をした際、林野庁は「全国における花粉症患者数についてはこれまで調査をしておらず、その数は不明である」などと回答した。
花粉症関連グッズで儲かる厚生省と戦後の植林政策の後ろめたさを覚える林野庁の対応は、極めて対照的であったといえるだろう。
(『花粉症と人類』小塩海平 岩波新書 2021年)
新型コロナへの認識が一気に変ったのは
「コメディアンの志村けんさん死去 新型コロナ感染で肺炎発症」(NHK 2020.3.30)今朝の父の一枚です(^^)/
アオサギがへたりこんでいるみたい?
第4章 鳥の五感、鳥が感じる世界
2 鳥にとって重要な感覚は「視覚」、そして「聴覚」
…つづき…
ところが、その隔たりを意図せず乗り越えてしまった生物がいます。
そう。私たち人間です。
人間も哺乳類ではありますが、イヌやネコのように鋭い嗅覚はなく、目で見てさまざまなことを判断します。
人間にとって、耳に聞こえる音や言葉や歌が重要であることはいうまでもありません。
これは、ほかの哺乳類には見られない、きわめて特異な性質です。
人間がそうなったのは、祖先がたどった進化の結果です。
サルが人類に進化する過程で、獣脚類の恐竜が鳥に進化する際にたどった道を、トレースするように追ったことが判明しています。
そんな偶然の過程が、人間の五感を鳥に近づけました。
近いということは、人間には、種も類も隔たりも越えて、鳥のことを深く理解できる素質があるということにほかなりません。
それはある意味、とても喜ばしいことだと思っています。
(『鳥を識る なぜ鳥と人間は似ているのか』細川博昭 春秋社 2016年)