工事が昨日で終わり、上がっていきました。
2011年に発病以来、何度も上がってきているのですが
ここでカルガモと出会ったのは初めて!
高槻方面を見ていましたが眺めを楽しんでいるのかな?(^_-)カルガモと反対方向
2月8日からリニューアル工事で立ち入り禁止になっていました。
今朝は、曇り空で帰りには少し雨が降り出した。
「鶴見新山リニューアルのお知らせ」ははのころ
新知識を求めて
明治5(1872)年、北海道開拓使は、北海道開拓に従う男子のため芝増上寺内に開拓使仮学校を設け、その男子の配偶者を養成する目的で、その隣りに女学校をおきました。
その前年11月には新しい女性の指導者をつくるために津田海子以下五人の少女をアメリカに留学させました。
その女学校も早く閉ざされ、留学生も一回きりで終わりましたが、はじめはつづいて送る計画だったのです。
千世(ちせ)は水戸の草深い蟄居屋敷でかすかにこういう新時代のたよりを耳にするごとに胸をおどらせ、一日も早く東京へ出て、英語を習い、外国へ留学したいものとそればかり思いつめていました。
が千世が出京したころの東京には全市を通じてまだ1中学、6小学があるきりで、その小学校とてもお寺を教室にし、寺子屋に毛のはえた程度のもの。
まして女学校はないも同然でした。
(『おんな二代の記』山川菊栄 岩波文庫 2014年) 明治5年2月、文部省の創立した最初の竹平女学校は千世の出京したときすでに満員で新入学者をうけつけず、延寿の門人が京橋女学校というのを聞いてさがしてみるとこれはどこかに引越ししたあたでした。
つぎに前に出た淵野辺氏が昔蕃書調所(ばんしょしらべしょ)にいたころの同僚が女学校を開いているというので、延寿が頼みにいき、10月30日、念願かなってやっと千世は女学校の門をくぐることができました。
校長、外務省中録上田畯氏は職業がら外国の事情に明るく、女子教育の必要を痛感してこの学校を開いたもので、その娘は16歳で、津田梅子らとともに最初にアメリカに留学した一人、後に上田敏博士の母君となった人でした。
千世は願いかなって、唐人まげに仙台平の袴という、当年の女学生姿で、築地万年橋にあった、この上田女学校に毎日通いはじめました。 …中略…
上田女学校には訳や洋算のためには日本人の先生もあり、カローザル夫人は簡単な会話を教えましたが、千世はABCも習わずに、いきなり先輩といっしょにリーダーの中途から教えられて何もわかりませんでした。
生徒は十人ばかり、上流の子が多く、ときの外務大輔寺島宗則の娘、侍医岩佐純の娘、旧土佐藩士で、ときの司法少輔島本仲道の娘幾代さんという十七、八の人とその妹、山口県人陸軍少佐宮木という人の妻お信さんという二十二、三の人などでした。
この人は南サヤ町の芸者だっといいますが、いかにも歯ぎれのいい江戸っ子でした。
上田校長の奥さんは後妻で若く、ちょっときれいな人でした。
が、どいういう問題があったのか、年上の宮木さんがこんな学校にいてはいけない、よその学校へ変ろうといいだし、千世も島本姉妹もそのいうなりに、なにがなんだかわからずに上田女学校をやめて、報国学舎へ移ったのは明治6年2月のことでした。 報国学舎は俗に有馬学校といわれ、四谷見附に近く、いまの国会図書館(昭和29年当時)の敷地にあった有馬侯の邸内にありました。
浜町の水天宮とともに類焼したとき、ここに仮(か)りに移転したので、そのお賽銭(さいせん)でまかなわれていたものでした。
月謝は他の学校の半分、月一円で先生はミス・ピアソンという、だいぶ年をとったイギリス人でした。 この先生はたいそうきびしく、書き取りを直しながらミステークがあると「ノオティ・ガール、ノオティ・ガール」とおこりました。
しかし、千世はここではじめてアルファベットからスペリング、リーダーの一の巻と順序よく教えこまれて目鼻がつき、この1年間は会話、地理、文典などじつに面白く勉強し、リーダーも第四まで進みましたが、これはまったくピアソン先生がきびしかったおかげでした。
訳や漢学や洋算の先生など手も揃い、アラビア数字も習って四則を知り、開平開立まで習いました。
この学校には寄宿舎もあり、千世も島本姉妹もそこに寄宿して土曜日曜に家に帰りましたが、その島本幾代さんが巻紙に走りがきした、千世あての手紙が今も一通残っています。 「一筆申上まゐらせ候。さては今晩要用御座候ゆへかへりがたく候あひだ、石盤に書て御座候分をベン(ペン)にて明朝までに紙え御うつしつかはされ度、はばかりながらよろしく御ねがひ申上候、まづはあらあらかしこ」。
当時は石盤かペンをつかい、舶来品で貴重だったのか、鉛筆は使わなかったらしいのです。 報国学舎は男女共学で男の子は15、6歳から18、9歳のなまいきざかり、数も多く、なにぶん女といえば虫けら同様にしか考えなかった時代のことですから、女と机を並べるのがよほどいまいましかったらしく、ミス・ピアソンの前でこそ慎んでいたものの、その姿が見えない所では、あらゆるいやがらせをやりました。
女の子を見れば「おかめ」、「ひょっとこ」、「おたふく」などとよびかけるのは普通のこと、女の子がなにかいったり、したりするごとにワッと笑ったり、ヒューヒューヒュー口笛をふいたり、ガタガタ床をふみならしたり、なにかにつけて意地わるく出て、女の子をおさえつけ、結局来させないようにする腹だったようです。
女の子は数が少なく、おまけにお嬢さん育ちときては達者なやりとりはできないところでしたが、幸い年もとっており、伝法な宮木お信さんがいてくれて助かりました。 「何をッ! べらぼうめ。おたんちん野郎! 女だろうがおたふくだろうがてめえらのお世話になるかってんだ。女に英語が読めてくやしいのか。男のくせにケチな野郎だ。くやしけりゃあ遠慮はいらねェ。てめらも負けずにペラペラッと読んで見ねえ。さ、読んでみな。読めねェか。ざまァみやがれ、読めねえなら読めねえでいいからおとなしくひっこんでろい。文句があるならタバになってかかってきやがれ。てめらの相手にゃおいらひとりでもったいねェや」。 あのすんなりとしたいきなお信さんのどこからあんなすさまじい悪態がわきだしてくるかと思うようでしたが、いくたびかこういう場面がくり返されるうちに、いつのまにか少年たちはおとなしくなってしまい、女を目のかたきにしてからかうようなことはなくなりました。
が娘たちの方でも勉強には真剣で男の子が何といおうと相手にせず、実力で少年たちを圧倒する勢いでもあったので、しぜん悪口がいえなくなった点もありましょう。 が、お信さんも只の少佐夫人ではなかったのです。
母は名のある江戸芸者、父は水戸藩の執政(大臣)鳥居瀬兵衛で、その江戸詰めのあいだにできた子でした。
例の「子年のおおさわぎ」(1864)のとき、父瀬兵衛は水戸公の代理、宍戸藩主松平大炊頭(おおいのかみ)という26歳の青年貴公子につきそうて、内紛調停のため水戸に下ったところ、思わぬ行きがかりから争いの渦中にまきこまれ、天狗党激派とみなされてむほんの罪にとわれ、公とともに幕府から切腹仰せつけられたのです。
そのころ十四、五だったお信さんは母の手一つで育てられ、踊りと清元の名取りで、芸は売っても身は売らぬきっすいの江戸芸者となりました。
維新になると父鳥居瀬兵衛は勤王の志士として靖国神社に祭られさえしたもの、日かげの身のお信さんはその人にはなんの変りもなく、ただ封建時代とちがって身分制度の制約がなくなったので、正々堂々少佐夫人となり、好きな学校通いをして新知識を身につけていたのでした。 明治7年の春、報国学舎の監督木戸氏が死亡し、そのあとで市原という会計係りがお金を使いこんで学校は経営難に陥り、ついに閉ざされてしまいました。
(『おんな二代の記』山川菊栄 岩波文庫 2014年)
山川菊栄の母青山千世(ちせ)は
お茶の水女子大学歴史資料館とMuSA(Museum Student Assistant)のイメージキャラクターにもなっています。
今朝の父の一枚です(^^)/
リニューアル工事が終わるまではバラ園から眺めていました。
4月27日
明治29年(1896) 民法1・2・3編公布(明治23年4月21日公布・未執行の民法は廃止。明治31年7月16日施行)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
何が彼を笑わせたのか。何も笑わせはしなかった。
ただ彼が必要に応じて笑っただけなのだ。
=由起しげ子 警視総監の笑い
彼女は、客間から聞こえてくる警視総監の哄笑に凍りついている。
この総監は、某政商との癒着を保つためには、法的虐待に泣く一女性に知恵を貸すことさえ拒んだ人物だからだ。
その笑いは、相手を同意させ命令に反駁させないための、自信と成算に満ちた笑いだった。
人の世の恥辱や破綻や生々しい生活の焦燥を遮断し切り捨て、共に泣きも笑いもしない支配層の厚さよ。
12月28日
(『おんなの言葉365日』相星雅子 高城書房出版 1991年)
朝ドラ「虎に翼」、寅子の父、猪爪直言(いのつめなおこと)がどうなるのか気になりますね…