公園で出会った方と先日の雨の時に満開にならなくてよかったですねと話していました。
「京都で桜が満開 気象台発表」(京都NHK 4月5日)年年(としどし)に人こそ旧(ふ)りてなき世なれ
色(いろ)も香(か)も変はらぬ宿(やど)の花盛(はなざか)り
変はらぬ宿の花盛り
誰(たれ)見はやさんとばかりに
又廻(めぐ)り来て小車(おぐるま)の
我と憂(う)き世に有明(ありあけ)の
尽(つ)きぬや恨(うら)みなるらむ
よしそれとても春の夜の
夢の中(うち)なる夢なれや
夢の中の夢なれや
(『閑吟集』真鍋昌弘 校注 岩波文庫 2023年) 年々歳々人は老いて死んでゆく世の中に、色も香も変わることなく今も盛りと咲いているのは我が家の桜。
この桜の花を誰か眺めて愛でることもあろうかと期待して、それだけを頼りに生きるしばしの間も、いつのまにかまた年月は、廻る小車のようにめぐって、浮き世に暮らす私は、いたずらに年老いてゆくのがなによりも恨めしいことです。
だがままよ、そのようにいくら恨んでも、所詮この浮き世は、春の夜の夢の中の夢のように、はかないものです。
…後略…
(『閑吟集』真鍋昌弘 校注 岩波文庫 2023年) 朝ドラ「虎に翼」第1週「女賢しくて牛売り損なう?」 (5)
寅子の母はるさんの「お黙んなさい!」
痛烈でしたね!
これまでの人生で蓋をして押し殺してきた怒りがマグマとなって噴き出したような啖呵だった。
それにしても第1話では焼き芋(?)を口に入れようとしたときに
第5話では、お団子を口に入れようとしたときに
寅子に邪魔された桂場が可哀相でした(^_-)
甘味処に男が独りで入るのは勇気がいりますよ!
私も研修会のあとなど疲れたときに、帰り道、寄っていたことがあります。
周りは女性客ばかり……(^_^;)ドキュランドへようこそ「スイスの象徴になった少女~“ハイジ”はこうして生まれた~」
作者ヨハンナ・シュピーリの生きた時代も「男性優位主義」の時代でしたし
子どもの人身売買もあったようです。
朝ドラ「虎に翼」の今週のタイトル「女賢しくて牛売り損なう?」は女性蔑視の諺。
女賢(さか)しゅうて牛売り損(そこ)なう
女は利口そうに見えても目先のことにとらわれがちで、広い視野からものごとを判断できない。
女が利口ぶって出しゃばると、とかく失敗するという、女性をなじったことば。
…後略…
(『用例でわかる故事ことわざ辞典』学研辞典編集部 2005年)
この諺、日本の政治家にこそあてはまる。 牛を売り損なうという話で『徒然草』を思い出しました。
【第九十三段】
「牛を売る者、有(あ)り。買ふ人、「明日(あす)、その値(あたひ)を遣(や)りて、牛を取らん」と言ふ。夜(よ)の間(ま)に、牛、死ぬ。買はんとする人に、利(り)あり。売らんとする人に、損(そん)有(あ)り」と語る人、有り。
(古文、後略)
(『徒然草』兼好著 島内裕子翻訳 ちくま学芸文庫 2010年) 訳 「牛を売る者がいて、その牛を買う人が、「それでは、明日、買い取る代金を支払って、牛を引き取りましょう」と言って商談が成立した。ところが、あに図らや、その夜のうちに、牛が死んでしまった。買おうとした人は、代金を支払う前だったので得をしたが、牛を売ろうとした人は、代金を受け取る直前に牛に死なれてしまって、売り損(そこ)ねて損をした」と語る人がいる。 この話を聞いて、傍(そば)にいた者が言うには、「確かに、牛の持ち主は、損をしているのだけれども、また考えようによっては、大きな利益があった。なぜならば、現に今、生きているものが、死の近いことを知らないのは、この牛がよい例だ。人間だって、また同じことである。思いがけず、たまたま牛は死に、思いがけず、たまたま持ち主は生きている。たった一日の命だって、万金より重い。それに比べたら、牛の代金など、鵞鳥(がちょう)の羽よりも軽い。牛の持ち主は、万金よりも価値のある一日の命を生き長らえ、その一日の命のかけがえのなさを教えてもらったのだから、牛の代金がフイになったとしても、喩(たと)えてみれば、万金を得た替わりに一銭を失ったようなもので、このような人は、決して損をしたなどと言うべきではない」と言った。けれども、そこにいた人々は、皆が嘲(あざけ)って、「そんな屁理屈は、別に牛の持ち主だけに限るわけではなかろう」と言う。
つまり、皆から見れば、「そのくらいの理屈は牛に死なれなくても、誰にだってわかっているのだから、やっぱり牛を売り損ねてお金を受け取れなかった分、損をしたのだ」と言わんばかりなのである。 これに反論して、先ほどの者がまた言うには、「だから、そうではないのだ。人が死を憎むのだったら、今、自分がこのように生きていることを愛さなくてはならない。存命の喜び、なぜ毎日、楽しまないのか。愚かな人は、この楽しみを忘れて、無駄な努力をして、それ以外の楽しみを求める。命というかけがえのない宝を忘れて、危うくそれ以外の理財を貪(むさぼ)っていると、いくら求めても、満足できない。そういう人が、生きている間に、この生きているということ自体を楽しまないでいて、死に臨(のぞ)んで死を恐れるというのでは、その理屈は通用しない。愚かな人間が、生きていることを楽しまないのは、死を恐れていないからである。いや、死を恐れていないのではなく、死が差し迫っていることを忘れているのだ。もしも、生とか死とかいった事柄を完全に超越しているというのなら、本当のこの世界の真理を悟り得ていると言ってもよいのだが」と言ったが、人々は、全く論旨を理解できず、いよいよ嘲るばかりだった。 評 日常的な体験を例に取りながら、「人間、いかに生きるべきか」という永遠のテーマに肉迫した段である。
死が差し迫っていることの実感を、いかにして、日常の中に感じ取るか、いかにすれば、それを、今この瞬間を生きていることの愛惜へと、変容できるのか。
このことは、人間の生き方の根本を決定している。
なお、「この財(たから)を忘れて、危(あやふ)く他の財を貪(むさぼ)るには、志(こころざし)、満つ事無(な)し」という箇所は、遥かに第二百十七段の、大福長者の言葉とも響き合い、人間が持つ無限の欲望を戒める言葉となっている。
(『徒然草』兼好著 島内裕子翻訳 ちくま学芸文庫 2010年)問題56 サクラのオシベは、何本あるか?
ソメイヨシノの花びらは5枚ある。
そのまん中に1本のメシベがある。
では、メシベのまわりにオシベは何本あるのか。
(A) 5本
(B) 10本
(C) 20本以上
(『クイズ 植物入門』田中修 ブルーバックス 2005年)今朝の父の一枚です(^^)/
伐採された桜から蘖(ひこばえ)が伸びて花を咲かせていました。
「よう咲いてくれた」と喜んでいました。
正解(C) サクラのオシベは、20本以上。
多くの植物種で、一つの花の中にメシベは1本だがオシベは複数ある。
品種により多少異なるが、サクラは約40本、ウメは約50本のオシベを持っている。
ツバキの中には100本以上もオシベのある品種がある。
なぜ、オシベはメシベよりたくさんあるのだろうか。
種ができるためには、オシベの先にできる花粉がメシベに移らねばならない。
植物はこの花粉の移動を風や虫に託す。
「子孫(種)を残すという大切な行為を、風や虫まかせにして大丈夫なのか」と心配になる。
植物たちも不安なのだろう。
その不安を打ち消すように、いろいろな工夫を凝らしている。
もっとも確かな方法は「花粉を多くつくる」ことである。
花粉はオシベの先端にある葯(やく)の中でつくられる。
だから、花粉を多くつくるためにはオシベが多くあればよい。
オシベの本数が多いのは、植物の生殖のための工夫なのだ。
マツやスギなどの風まかせの場合、花粉がどこへ飛んでいくかわからない。
そのため、あたりが真っ白になるほど多くの花粉を風に託す。
また、虫に託す植物たちは、花の色、香り、甘い蜜を準備して虫を呼ぶ。
花粉には、寄ってきた虫にへばりつきやすい工夫もされている。
(『クイズ 植物入門』田中修 ブルーバックス 2005年)