2024年4月16日火曜日

雨が止んでくれて

家を出たときは、通勤通学の人たちは傘をさしていました。
公園に着くと雨は止んでくれて
帰る頃には日ざしが出てきて暑いくらいでした。

西~東日本 17日にかけ大気不安定に 落雷や竜巻などに注意を」(NHK)
昨日の朝ドラ「虎に翼」第3週「女は三界に家なし?」 (11)
今週も深刻な話が続くようですが
寅子の頭の中のイメージ映像」として「毒饅頭殺人事件


寅子たち女子部のみんなが、課外授業として裁判を傍聴に出かけていましたね。
明治大学専門部女子部の学生たちも裁判所などを見学していたようです!

ところで「毒饅頭」を販売した老舗の店があるのです(^_-)
明治36年
 毒饅頭 <読売新聞36・3・18「芝居だより」>
 歌舞伎座の「清正誠忠録(きよまさせいちゅうろく)」の芝居で、団十郎が清正に扮して毒饅頭(どくまんじゅう)を食べるのに、普通の饅頭では腹に持つというので、特に京橋鍋町の凮月堂に誂(あつら)えて、甘味のない、特別の饅頭を造らせた。――
 それだけのことが、ニュースとして出ているが、凮月堂ではその饅頭を、一般にも売出して、一部の人々から喜ばれた。
名前だけにもせよ、毒饅頭の売出しというのがおかしい。
(『明治東京逸聞史 2』森銑三 東洋文庫142 1969年)

秀山十種(しゅうざんじゅっしゅ)」(歌舞伎用語案内)
 「一部の人々から喜ばれた
おおらかな時代だなぁ!
京橋鍋町の凮月堂」は
明治10年、本拠地を京橋南鍋町店に定めた(「東京凮月堂銀座」)
名前だけにしても「毒饅頭」を売出すのですから(^_-)
この凮月堂で修行してのれん分けで出店したのが
明治35年創業の「岸和田風月堂」。
先代の店主が若くして亡くなった後、息子さんが店を引き継いでいます。

今は若き5代目が実直にお菓子作りの心と技術を継承し、新しく美味しさにこだわった創作菓子にも挑戦し続けています。
( 「大阪産(もん) 事業者の歴史 岸和田風月堂」)
冒頭に「昭和8年(1933)」。
反応してしまったのは、母が生まれた年。
婦人用のご不浄増設は急務です」と女子部が待遇改善を求めて大学側との交渉。
女性たちが団体交渉をしたのは、明律大学女子部だけではありません。
寅子たちと同世代の女性たち
以前、紹介したのですが、書き手が違うとまた別の情報が得られます。
 第三話 束の間の穏やかな日々―昭和8~10年
 ●「桃色スト」と防空演習


 くり返しになるが、ともかくも昭和8年は「非常時日本」という流行語がしきりにいわれた年なのである。
日本帝国は国際連盟を脱退し、日比谷公会堂で帰朝報告をする松岡洋右全権の甲高い声が、「日本はこれから名誉ある孤立を守っていくのだ」とラジオから流れ出た年。
あるいは左翼主義者への逮捕が国民の眼の前でつぎつぎに行われた年なのである。
国民の多くはそうした世情の急変に一抹の不安感を隠しきれなかったのではないか。
ある意味では庶民の鋭い生活感覚が、そこの危険な何かを感じとっていたのではないか。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)
 と思うのであるが、どうもB面的にはそうとばかりはいえないようなのである。
なにしろ妙なストライキ騒ぎで東京中が沸きに沸いていたからである。
6月15日、世界広しといえども〝少女歌劇〟は日本にしかない、その東京松竹歌劇団のうら若き踊り子百数十人が「首切り減給反対」「衛生設備の完備」など二十八項目の待遇改善要求をかかげ、ストライキに突入した。
新聞は連日その闘争を報道、しかもこれを「桃色スト」と銘打って華々しく報じたから、いやでも民衆はこの成り行き如何に注目せざるを得なくなる。
 そしてその輝ける闘争委員長が水の江瀧子(ターキー)、ときに十九歳。
この踊り子は、それまで男役はカツラをかぶっていたのに、髪をショート・カットにし、シルクハットにタキシードで登場、世間をアッといわせ、〝男装の麗人〟と騒がれたこともある。
いわば時代の尖端をゆく女性、ときたから「非常時日本」どこ吹く風とスト人気はうなぎ登り。
 翌16日、浅草公園六区で働く全従業員が闘争支持を声明。
25日、大阪松竹座のレビューガールもこれに呼応してストに入る。
彼女らは会社側の圧力をうけ、27日に高野山に籠城。
東京では松竹側の城戸四郎専務がもう一人のスター津阪オリエら数人を切りくずしに成功するが、ターキー以下の争議団の結束はいっそう強まり、百二十九人が東京脱出に成功、湯河原温泉にたて籠った。
このかんにターキーら46人が検挙されるが、こうなってはファンも「彼女たちを助けろ」と立ち上がって、抗議団がいくつも松竹に殺到する。
会社側も譲歩するしかなかった。
 かいていて楽しくもあり、ちょっぴり阿呆らしくもあるが、結末だけを記しておくと、7月8日、高野山の老師の斡旋もあって大阪のストは手打ち式、さながらこれに呼応したように、東京は15日に会社側が白旗をあげて全面解決となる。
東でも西でも女たちの堂々のねばり勝ちである。
そして19日に浅草の並木クラブで盛大に「松竹レビューガール争議団解団式」がひらかれ、新聞はまたこれを大きく報じた。

 …後略…
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)

大阪松竹座のレビューガールもこれに呼応してストに入る
朝ドラ「ブギウギ」で大阪のストライキが描かれていました(第3週「桃色争議や!」 、第4週「ワテ、香川に行くで」 )。
今朝の父の一枚です(^^)/
白い花のフジが満開になっています。

 「吉宗と桜餅」つづき

 ちなみに江戸時代後期を代表する作家滝沢馬琴らが編纂した『兎園小説(とえんしょうせつ)』は、当時の珍しい話を集めているものですが、幕府の右筆(ゆうひつ)で有名な国学者であった屋代弘賢(やしろひろかた)の担当部分に桜餅の話題があります。
文政7年(1824)には、長命寺桜餅の店では桜の葉31樽を漬け込んだと書かれています。
1樽に2万5千枚の葉が入っているので、合計77万5千枚にもなります。
当時桜餅は2枚の葉を使っていたので、餅の数は38万7千5百個、ひとつの価格が4文なので、総売上は銭千五百五十貫文、金に換算すると2百27両1分2朱と銭4百5十文です。
「下戸もまたありやと墨田の桜餅」とうたわれた桜餅の人気の程がうかがえます。
 吉宗は意識的に鷹場という将軍の権威を示す場を「公園」として整備しているのですが、墨堤のほかにも、飛鳥山(北区)や御殿山(品川区)などにも桜ほかの植樹を行い、中野(中野区)では桃園を作っています。
そして「公園」の茶店では多くの江戸庶民がくつろいでいました。
そして桜餅に代表される名物の菓子に舌鼓を打つ人々の姿が見られたことでしょう。
(『図説 和菓子の歴史』青木直己 ちくま学芸文庫 2017年)