午後には、2月下旬から3月上旬並みの気温になるとか…
「向こう3か月の天候の見通し 全国 (02月~04月)」(1月23日発表 気象庁)
タカ?が青空を舞っていました。
私が持っているレンズ(70~300mmズーム)では、識別できるほどに写せません(^^ゞ
公園で出会うカメラマンは、600mm以上のレンズで撮影されているようです。
私には、購入する資金もありませんし、重いレンズを持ち歩く体力もない(^_^;
父が使っているコンデジなら写せたと思います。今朝の朝ドラ「ブギウギ」第18週「あんたと一緒に生きるで」 (83)で
茨田りつ子が10歳になる子どもがいるとサラッと言っていましたね。
転記する予定を変更して(^^ゞ
第六章 モンペなんかはくものか
母になってはみたものの
私の恋の相手だった男性は青島(チンタオ)で急死しましたが、彼の葬儀が横浜の実家で執り行なわれた時も私は列席できませんでした。
実家の事情でそれはできないことだったんです。
私は彼の子供を身ごもっていました。
でも、誰の子供だってことは一切言わなかったんですね。
母にさえ誰の子供かわからないって言ってたんです。
母にはそれとなくわかってたみたいでしたけど。
(『女の自叙伝 歌わない日はなかった』淡谷のり子 婦人画報社 1988年) 私は子供を先方に取られるのを警戒してたんです。
だって、ひとり息子は亡くなっちゃったけど、でも息子が一粒だねを残していると先方のご両親が知ったら、先方にとっては孫ですからね、やっぱり欲しいと思うのが人情でしょう。
芸人だ、河原乞食だって、私を軽蔑していても、孫は孫ですよ。
なんといってもひとり息子の子供ですから。 向こうのお母さまはなんとなく感付いていたんじゃないでしょうかね。
私が妊娠してるってことをどこからともなく聞いて、もしや、というので探ってみたんじゃないかと思います。
でも、私は、誰の子供だかわかんないって言ってましたから、先方から、うちの息子の子だからよこせと言ってくるようなことはありませんでした。 妊娠した時、母にそのことを告げると、母はなんの詮索もしませんでした。
ただ「産みなさいよ」って言ってくれたんです。
「私たちが育てるから、産みなさいよ。いればいいものよ、子供は」って。
旧家での忍従の生活、婚家でたったひとり頼りになるはずの夫の裏切り――そんな苦労をなんとか耐えて今日までこられたのは娘ふたりがいたからだという思いが、母の中にあったのかもしれません。
とにかく娘の不始末を批難するうようなことはひとことも言いませんでした。 私は彼の赤ちゃんが欲しいとか思ったことはなかった。
好きな人の子供を産みたいなんて、そんなしおらしい女じゃないんです、私は。
ただ歌があればいいの。
歌のためになることだったらなんでもやるし、歌のためにならないんだったらなんでも捨てる。
そういう女なのです。
でも、子供ができたらそうとばかりは言っていられない。
当時は子供をおろすなんて考えられませんからね。
中絶がわかったら刑務所行きですから、昔は誰もおろすなんてことはしませんもの。
いまだったらどうしてましたかね。
だから、後年よく娘に言われましたよ。
「もうすんでんのところで、私、いなかったわね」って。 昭和13年(1938年)4月20日、女の子を出産しました。
私が31歳の時です。
名前は奈々子って付けました。
女の子って聞いて嬉しかったですね。
まあ生れてしまえば、男でも女でも、そりゃあ子供だから可愛いでしょうけど、やっぱり女の子でよかったって思いました。
深く考えてたわけではありませんが、私の父に似て、不良の男にでもなったらどうしようと思っていましたから。
それに、それまで付き合ってきた男たちを見ても、そうそういい人間というのはいませんでしたからね。 私は父親には早く別れましたし、きょうだいに男がいるわけじゃない。
家族に男がいないから、男の子だったらどう育てればいいのかわからないという不安もあったんですね。
男の子の気持なんか全然わかりませんから、どうしようもない男に育ったらどうしよう……。
女子だったらなんとか育てられる。
自分が女だから、女の子の気持ちもわかりますしね。
幸い、娘はクソ真面目な、頑固なくらい固い女に育ちましたから、よかったんですが……。 私の友人が女医さんだったんです。
そこの病院で出産し、一年間は病院で育ててもらったんです。
子供を預けっぱなしにしてるとか、子供を捨てたも同然だとか、ひどいことも言われましたが、ほかにどうすることもできない。
私には仕事が待ってたんです。
すぐにでも歌に復帰しなければならなかったんです。
だって出産してひと月も経たないうちに、十周年記念コンサートを開いたんですから。
子供を育てるためにも、私は働かなければなりませんでした。
一年経って、それ以後は母と妹が育ててくれたんですね。
…後略…
(『女の自叙伝 歌わない日はなかった』淡谷のり子 婦人画報社 1988年)と、自叙伝から転記しましたがφ(.. )
「歌に生きて 淡谷のり子の素顔」(青森NHK 2023年12月28日)に
「のり子は決して真実を明かしませんでした。」
を、去年読んだ時にスズ子の義母ツヤを思い浮かべました。
ツヤの口癖?「義理と人情」も淡谷のり子さんの信条につながると思いました。今朝の父の一枚です(^^)/
第3章 公園や人里の鳥――ジョウビタキ
✤規則正しい生活
ジョウビタキは、渡来する時期も、渡去する時期も毎年ほとんど同じであり、しかも、越冬中の毎日の生活はたいへん規則正しいものがある。
人家周辺を縄張りにしたときなど、毎日の生活を観察することができるが、ほとんど毎日、同じような方角から飛んできて、同じ場所にとまって、似たようなコースを通って飛び去っていくのである。
また、主として地上に飛び下りてエサを捕らえるが、木の実もよく食べる。
マサキ、イヌツゲ、トキワサンザシなどの小型でやわらかい実を好む。
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)
転記する予定を変更して(^^ゞ
第六章 モンペなんかはくものか
母になってはみたものの
私の恋の相手だった男性は青島(チンタオ)で急死しましたが、彼の葬儀が横浜の実家で執り行なわれた時も私は列席できませんでした。
実家の事情でそれはできないことだったんです。
私は彼の子供を身ごもっていました。
でも、誰の子供だってことは一切言わなかったんですね。
母にさえ誰の子供かわからないって言ってたんです。
母にはそれとなくわかってたみたいでしたけど。
(『女の自叙伝 歌わない日はなかった』淡谷のり子 婦人画報社 1988年) 私は子供を先方に取られるのを警戒してたんです。
だって、ひとり息子は亡くなっちゃったけど、でも息子が一粒だねを残していると先方のご両親が知ったら、先方にとっては孫ですからね、やっぱり欲しいと思うのが人情でしょう。
芸人だ、河原乞食だって、私を軽蔑していても、孫は孫ですよ。
なんといってもひとり息子の子供ですから。 向こうのお母さまはなんとなく感付いていたんじゃないでしょうかね。
私が妊娠してるってことをどこからともなく聞いて、もしや、というので探ってみたんじゃないかと思います。
でも、私は、誰の子供だかわかんないって言ってましたから、先方から、うちの息子の子だからよこせと言ってくるようなことはありませんでした。 妊娠した時、母にそのことを告げると、母はなんの詮索もしませんでした。
ただ「産みなさいよ」って言ってくれたんです。
「私たちが育てるから、産みなさいよ。いればいいものよ、子供は」って。
旧家での忍従の生活、婚家でたったひとり頼りになるはずの夫の裏切り――そんな苦労をなんとか耐えて今日までこられたのは娘ふたりがいたからだという思いが、母の中にあったのかもしれません。
とにかく娘の不始末を批難するうようなことはひとことも言いませんでした。 私は彼の赤ちゃんが欲しいとか思ったことはなかった。
好きな人の子供を産みたいなんて、そんなしおらしい女じゃないんです、私は。
ただ歌があればいいの。
歌のためになることだったらなんでもやるし、歌のためにならないんだったらなんでも捨てる。
そういう女なのです。
でも、子供ができたらそうとばかりは言っていられない。
当時は子供をおろすなんて考えられませんからね。
中絶がわかったら刑務所行きですから、昔は誰もおろすなんてことはしませんもの。
いまだったらどうしてましたかね。
だから、後年よく娘に言われましたよ。
「もうすんでんのところで、私、いなかったわね」って。 昭和13年(1938年)4月20日、女の子を出産しました。
私が31歳の時です。
名前は奈々子って付けました。
女の子って聞いて嬉しかったですね。
まあ生れてしまえば、男でも女でも、そりゃあ子供だから可愛いでしょうけど、やっぱり女の子でよかったって思いました。
深く考えてたわけではありませんが、私の父に似て、不良の男にでもなったらどうしようと思っていましたから。
それに、それまで付き合ってきた男たちを見ても、そうそういい人間というのはいませんでしたからね。 私は父親には早く別れましたし、きょうだいに男がいるわけじゃない。
家族に男がいないから、男の子だったらどう育てればいいのかわからないという不安もあったんですね。
男の子の気持なんか全然わかりませんから、どうしようもない男に育ったらどうしよう……。
女子だったらなんとか育てられる。
自分が女だから、女の子の気持ちもわかりますしね。
幸い、娘はクソ真面目な、頑固なくらい固い女に育ちましたから、よかったんですが……。 私の友人が女医さんだったんです。
そこの病院で出産し、一年間は病院で育ててもらったんです。
子供を預けっぱなしにしてるとか、子供を捨てたも同然だとか、ひどいことも言われましたが、ほかにどうすることもできない。
私には仕事が待ってたんです。
すぐにでも歌に復帰しなければならなかったんです。
だって出産してひと月も経たないうちに、十周年記念コンサートを開いたんですから。
子供を育てるためにも、私は働かなければなりませんでした。
一年経って、それ以後は母と妹が育ててくれたんですね。
…後略…
(『女の自叙伝 歌わない日はなかった』淡谷のり子 婦人画報社 1988年)と、自叙伝から転記しましたがφ(.. )
「歌に生きて 淡谷のり子の素顔」(青森NHK 2023年12月28日)に
「のり子は決して真実を明かしませんでした。」
を、去年読んだ時にスズ子の義母ツヤを思い浮かべました。
ツヤの口癖?「義理と人情」も淡谷のり子さんの信条につながると思いました。今朝の父の一枚です(^^)/
第3章 公園や人里の鳥――ジョウビタキ
✤規則正しい生活
ジョウビタキは、渡来する時期も、渡去する時期も毎年ほとんど同じであり、しかも、越冬中の毎日の生活はたいへん規則正しいものがある。
人家周辺を縄張りにしたときなど、毎日の生活を観察することができるが、ほとんど毎日、同じような方角から飛んできて、同じ場所にとまって、似たようなコースを通って飛び去っていくのである。
また、主として地上に飛び下りてエサを捕らえるが、木の実もよく食べる。
マサキ、イヌツゲ、トキワサンザシなどの小型でやわらかい実を好む。
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)