2024年1月12日金曜日

晴れたのは…

公園を歩いている時は曇り空で寒かったのですが
帰り、駐車場を出る時に晴れました。
午後から心臓リハビリで病院へ
晴れて車の中は暖房をつけているみたいでした。
明日から大学入学共通テストが始まる

あすから大学入学共通テスト 被災地の受験生たちは」(NHK)
昨日の朝、テレビの前を通り過ぎようとしていた父が、
立ったまま画面に釘付けになっていました。
普段は、歌番組や朝ドラなどには見向きもしないのですが
赤いドレスの女性がステージ狭しと歌い踊る姿に
「あんな華奢な体ですごいなぁ」と驚いていました。

朝ドラ「ブギウギ」第15週「ワテらはもう自由や」 (70)
前日の第15週「ワテらはもう自由や」 (69)
茨田りつ子が特攻隊員の姿を思い浮かべながら「別れのブルース」を歌いました。
茨田りつ子モデルの淡谷のり子さんが特攻隊の少年たちの前で歌ったことを
1月6日の記事に『女の自叙伝 歌わない日はなかった』より「一度だけステージで泣いた」を転記しました。
淡谷のり子さんように特攻隊の少年たちの前で歌ったことを高峰秀子さんが書いています。
 同期の桜

…前略…

  〽貴様と俺とは同期の桜
   離れ離れに散ろうとも
   花の都の靖国神社
   枝の梢に咲いて会おう

 特攻隊慰問では、フィナーレに「同期の桜」を合唱する。
まだ少年としか言いようのない紅顔の特攻隊員は、舞台の私たちと一緒に元気に歌った。
この人々の行く手に待っているのは、確実な「死」である。
いったん命令が下れば、彼らはだれ一人ためらうことなく、お腹に爆弾を抱えた零戦に乗って、沖縄やサイパンの米軍の基地、南の海に浮かぶ軍艦めがけて飛び立って行く。
それは明日だろうか?
明後日だろうか?
彼らのだれ一人としてそれを知っている者はない……。
(『私の渡世日記 上』高峰秀子 文春文庫 1998年)
私は二十一歳だった。
見物席から食い入るように私を見上げ歌っている彼らの目を、とても、まともにみつめられはしない。
喉もとに熱いかたまりが突き上げてきて、私は半べそだ。
「これはいけない」と思えば思うほど歌声がレロレロと乱れる。
二番の最後は声にならず、伴奏だけが場内に響いている。
私の涙にさそわれたのか、こらえていた涙がいちどきに溢れ出たのか、見物席の隊員たちはオイオイと男泣きに泣きだした。
「同期の桜」。
私の脳裏によみがえるのは、あのときの、恥も外聞もないといった特攻隊員たちの子供のような嗚咽である。
(『私の渡世日記 上』高峰秀子 文春文庫 1998年)
 黄色いアメリカ人
 
 ポツダム宣言が受諾された。
日本の空襲による被害は、罹災都市百十余カ所、爆死者六十万人、罹災総人口一千五百万人という悲惨な数字を残して、悪夢のような戦争は終わった。

 八月三十日。
アメリカの、ジェネラル・マッカーサーが厚木に到着した。
鬼畜米英、人食い人種と教えられ、アメリカ兵が日本本土に上陸すれば、男は皆殺し、女は強姦される、と流言飛語のとび交う真っ只中に、おびただしい数のGI、MP、ジープが続々とやって来た。
青い目の人食い人種はみんな柔らかい微笑を浮べていた。
いまは亡き徳川夢声の「夢声戦争日記」二十年十月七日付の日記に、次のような文章がある。
(『わたしの渡世日記 下』高峰秀子 文春文庫 1998年)
 「日曜ノコト故、秋晴レノ好天気デ、街ノ出ハ相当アル。アメリカ兵ガ、続々ト歩イテイル。素晴ラシキ美男アリ。……辻氏ヨリ、〝キャバレー〟行キヲ誘ワレ、座員一同デ見学ニ行ク。元公会堂ヲ、急ニ改装シテ間ニ合ワセタル由。玄関ニMPアリテ、日本人ノ客ハ拒絶ト言ウ。吾ラハ余興屋ノ一行トシテ入場スル。……
 さて私は、このキャバレーで見た、アメリカの士官たちに、すつかり感服してしまつたのである。……とにかく、女性に対して、実に礼儀正しいということ。ダンサーの控所に行つて、恭(うやうや)しくこれを迎えてくる。それがまつたく身についた礼儀作法なのである。……席にくると、必ず女の方から先に腰をかけさせる。征服者の士官が、被征服者のダンサーに対して、甚だインギンをきわめる」
 同じころ、私も、日比谷の東宝劇場を急遽(きゅうきょ)米軍用として改造された「アーニー・パイル劇場」の広いステージで、超満員の米兵を前に、アメリカの流行歌を歌っていた。
私のうしろには、国民服にゲートル姿の楽団ではなく、楽器もアメリカ風に編成された四十人ほどの楽団員が、真っ白いダブルの上衣に蝶ネクタイで、トランペットを吹き、ドラムを叩き、サキソホンを奏でていた。
一曲終わるごとに、場内がゆれるほどの拍手と鋭い口笛が、私を棒立ちにさせた。
 ステージから楽屋に入ると、米兵たちが「ハロウ! ミス、タカミネ!」と言いながら、手に手に贈りものを抱えてなだれ込んで来る。
キャンデー、チョコレート、チューインガム、クッキー、ピーナツ……。
ステージが一回終わるごとに、私の周りには贈りものが山と積まれて身動きも出来ない。
ラストショーが終わると、劇場の楽屋口には真新しいキャデラックが横づけにされていて、私は成城の家まで送り届けられた。
 つい昨日までの私は、日本軍の兵士のために軍歌を歌い、士気を鼓舞し、一億玉砕と叫び、日本軍の食糧に養われていた。
いや、食糧ばかりではない。
私の着ていた上衣やズボンも日本陸軍将校から贈られた軍服の布地で仕立てた洋服だったのである。
色はカーキ色だが布地は民間では到底手に入らぬ立派なウールで、裏地からボタンまで一揃いになっていた。
私はその布地を貰ったとき、文字通り飛びあがって喜んだものだ。
 それが、戦争が終わってまだ半年も経たないまま、今度は米軍の将兵のためにアメリカのポピュラーソングを歌い、PXのチョコレートやクッキーに食傷し、おまけにアメリカ・マリーンの将校服地で仕立てた美しいグレーのコートを羽織って、テンとして恥じない。
「昨日までの自分」と「今日の自分」のつじつまは絶対に合わないはずなのに、私はそれに目をつぶり、過去という頁をふせて見ようともしないのである。
なんという現金さ、なんという変わり身の早さ。
人気商売とはいいながら、こんなことが許されていいのだろうか……。
人には言えない、妙なうしろめたさが、私の背後に忍び寄って、夜となく昼となく、とがった爪の先で、チョイ、チョイと私をつつくのだ。
 私の歌った「同期の桜」で決意を固め、爆弾と共に散った若き将兵も何人かはあったはずだ。
私がみせた涙で「生」への決別を誓った軍人もあったに違いない。
あの日の涙は、何人かの人間を殺している。
私は「アーニー・パイル」のステージに立ちながら、混乱するばかりであった。
 マニラ残虐事件の責任を問われて、山下奉文(ともゆき)大将がマニラで軍事裁判にかけられて死刑を宣告されたのはこの年の十二月。
日本国天皇裕仁が「人間宣言」を発して全国巡幸の旅に出たのが、翌昭和二十一年二月であった。
…後略…
(『わたしの渡世日記 下』高峰秀子 文春文庫 1998年)

小見出しの「黄色いアメリカ人」は、日系のアメリカ兵のことです。

高峰秀子(たかみねひでこ) 俳優」(NHKアーカイブス)
 今朝の父の一枚です(^^)/
地上でスズメたちの中にまぎれていることもあるのですが

第2章 住宅地や餌台にくる鳥――カワラヒワ 
 ✤翼の黄斑

 スズメくらいの大きさで、短くて丈夫そうな嘴(くちばし)の形もスズメによく似ている。
しかし、注意してみると、飛んだときには翼にははっきりした黄色い帯が現れ、とまっているときにも黄色の斑がある。
全身オリーブがかった褐色をしている。
尾羽の先はV字状に食い込んでいる。
 上空を飛ぶときに、〝キリリリ……〟といった浮いたような声で鳴く。
さえずりの時には、〝キリリコロロ、チョンチョンチョンジューイ〟と軽やかな声で鳴く。
スズメに体型は似ているが、注意してみると声も姿も異なっている。
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)
 午後から心臓リハビリでした。
来週、循環器科の診察があるのでデータを撮ってもらいました。
心電図を撮りながら自転車(エルゴメーター)で30分間、運動をしました。
消費カロリーは25.11kcal 回転回数1474回でした。