雨が温められて靄がかかっていました。
歩いている時は、まるで春のような…
河津桜の蕾が膨らんでいました。
一方、被災地では
「能登半島地震から1か月 今後2~3週間は最大震度5弱程度に注意」(NHK) 朝ドラ「ブギウギ」第18週「あんたと一緒に生きるで」 (85)で、
愛助さんが生まれ変わったように
元気な女の子が誕生しましたね。
史実を知っていても胸が痛くなります…
愛助さんの一字をとって「愛子」と名づけられるのかな?
元気な女の子が誕生しましたね。
史実を知っていても胸が痛くなります…
愛助さんの一字をとって「愛子」と名づけられるのかな?
(総集編を見ると第1話で「アイ子」と呼んでいました)
他局の番組の原作者の方が亡くなったのだけど
原作も番組も見ていないので無責任なことは言えませんが
まだ原作が完成していない段階で番組をスタートしたようです。
原作者にとって相当負担だったと思いますし、
脚本家も見通しが立たないので辛かったと思う。「第十三章 夜来香ラプソディー」つづき
侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を聞いていた野口久光さんがいきおいよく手をあげた。
「『夜来香(イェライシャン)』でいきましょう。本人の持ち歌だし、明るいルンバ、中国語でうたえる。去年、ヒットチャートのトップまでいった。『夜来香』を、服部さんの手でクラシック・ジャズ、中国調、とさまざまなメロディーとリズムに編曲してもらう。そのメドレーを、上海交響楽団と、胡弓(こきゅう)や笙(しょう)や琵琶(びわ)の中国音楽団が演奏する。全曲を李香蘭ひとりでうたいまくる、という趣向です」
(『李香蘭 私の半生』山口淑子 藤原作弥 新潮文庫 1990年) 野口さんはいきなり「那南風吹来清涼(ナナンフォンツォイライチンリャン)……」と「夜来香」の出だしを口ずさみ、手足でリズムをとりはじめた。
その興奮はすぐさま全員に伝わった。
服部さんは野口さんの手を握った。
「ありがとう、これで決まった。『夜来香幻想曲』つまり『夜来香ファンタジー』『夜来香ラプソディー』だね」
中川中尉も、「よい歌です。スロー・ルンバのリズムもまさにシンフォニック・ジャズむきだ。テーマも中国の名花だから、問題はない。暗い空気を吹きとばす明るいメロディー。中日合作音楽会と銘打てば大ヒットまちがいなし」一同は野口さんのアイディアにすっかり感嘆した。 野口さんは東和商事から出向した中華電影宣伝部所属のイラストレーターだったが、熱狂的なジャズ・ファンで、上海滞在中に日本では聴けないアメリカの新曲を聴きあさり、レコードを集めていた。
映画評論家としても活躍していたけれど、現在では、1930年(昭和5年)代のジャズ・エイジにどっぷり浸った日本ジャズ音楽評論の草分けとして知られている。 1933年(昭和8年)に上野の東京美術学校(現・東京芸術大学)工芸部図案科を卒業したが、洋画とジャズが大好きで、東和商事に就職した。
趣味の西洋映画をふんだんにみながらイラストの才能を生かし、『会議は踊る』『商船テナシチー』『白き処女地』『にんじん』など戦前、東和商事がヨーロッパから輸入してヒットした映画のポスターのほとんどを手がけている。 あの爽(さわ)やかなパステル・トーンの淡彩スケッチをおぼえているかたも多いだろう。
活字は一字も使わず、タイトルはもちろん、キャッチフレーズやスタッフ、キャスト名まで、すべてが手描き――。
つまり、ポスターそのものが画家の筆で描かれた一個の芸術作品だった。
戦後の代表作品には『第三の男』『禁じられた遊び』『居酒屋』などがある。
…中略… さて、中日合作音楽会「夜来香幻想曲」の構想は固まった。
製作は川喜多長政、草刈義人、音楽監督・編曲は服部良一、脚本構成・辻久一、野口久光、振付・小牧正英、舞台・小出孝のスタッフ。
演奏は上海交響楽団、指揮は陳歌辛、服部良一である。
服部さんは、まず横浜正金(しょうきん)銀行(現・東京銀行)上海支店長の河村さんのお宅に2週間とじこもり、約20曲を編曲する作業に没頭した。
河村さんのお宅にはヨーロッパの有名なグランド・ピアノがあり、服部さんは同家の応接間にお出入り自由だった。 楽譜ができあがると、私もよくお邪魔して練習をした。
服部さんは、私の声に合わせて何度もメロディーやリズムを訂正し、工夫を加えていった。
今度のリサイタルにかける意気ごみにはなみなみならぬものがあった。
服部さんは当時を回想して、「戦時下の日本では到底できなかったガーシュインの手法を取りいれた実験を、思う存分やってみました」と言われる。
構成を手伝った野口さんの思い出は、「リハーサルが終わると私の家によって、ビールやウィスキーをがぶがぶ飲みながら新しい旋律やリズムのアイディアを語りあい、夜のふけるのも忘れたものでした」
…つづく…
(『李香蘭 私の半生』山口淑子 藤原作弥 新潮文庫 1990年)
「野口久光デザイン」(鎌倉市川喜多映画記念館)今朝の父の一枚です(^^)/
フユザクラが満開になっています。
二章 ヒマラヤザクラを求めネパールへ
19 サクラの来た道の仮説
日本人が愛するサクラ、世界にも誇れる日本のサクラ。
そのサクラが春に咲くものと信じていると、250品種ものサクラの中に、秋に咲く十月桜や冬桜などの数品種があることを珍しいと思うだけでなく、花が先に咲くさまを「なぜ?」という疑問の淵にさまようことになった時、熱海市にネパールのビレンドラ国王から贈られたという秋咲きのヒマラヤザクラ野生種があることを知り、その生育ぶりと花の美しさに魅了されてしまいました。
秋に咲くサクラの品種の謎は、スギ科のビャクシンや品種改良の進んだミカンなどでみかける一種の「先祖返り」の現象ではないかと考えたのです。
…つづく…
(『桜の来た道―ネパールの桜と日本の桜―』染郷正孝 信山社 2000年)
「ヒマラヤ桜 開花情報」(熱海市 令和5年12月22日)
他局の番組の原作者の方が亡くなったのだけど
原作も番組も見ていないので無責任なことは言えませんが
まだ原作が完成していない段階で番組をスタートしたようです。
原作者にとって相当負担だったと思いますし、
脚本家も見通しが立たないので辛かったと思う。「第十三章 夜来香ラプソディー」つづき
侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を聞いていた野口久光さんがいきおいよく手をあげた。
「『夜来香(イェライシャン)』でいきましょう。本人の持ち歌だし、明るいルンバ、中国語でうたえる。去年、ヒットチャートのトップまでいった。『夜来香』を、服部さんの手でクラシック・ジャズ、中国調、とさまざまなメロディーとリズムに編曲してもらう。そのメドレーを、上海交響楽団と、胡弓(こきゅう)や笙(しょう)や琵琶(びわ)の中国音楽団が演奏する。全曲を李香蘭ひとりでうたいまくる、という趣向です」
(『李香蘭 私の半生』山口淑子 藤原作弥 新潮文庫 1990年) 野口さんはいきなり「那南風吹来清涼(ナナンフォンツォイライチンリャン)……」と「夜来香」の出だしを口ずさみ、手足でリズムをとりはじめた。
その興奮はすぐさま全員に伝わった。
服部さんは野口さんの手を握った。
「ありがとう、これで決まった。『夜来香幻想曲』つまり『夜来香ファンタジー』『夜来香ラプソディー』だね」
中川中尉も、「よい歌です。スロー・ルンバのリズムもまさにシンフォニック・ジャズむきだ。テーマも中国の名花だから、問題はない。暗い空気を吹きとばす明るいメロディー。中日合作音楽会と銘打てば大ヒットまちがいなし」一同は野口さんのアイディアにすっかり感嘆した。 野口さんは東和商事から出向した中華電影宣伝部所属のイラストレーターだったが、熱狂的なジャズ・ファンで、上海滞在中に日本では聴けないアメリカの新曲を聴きあさり、レコードを集めていた。
映画評論家としても活躍していたけれど、現在では、1930年(昭和5年)代のジャズ・エイジにどっぷり浸った日本ジャズ音楽評論の草分けとして知られている。 1933年(昭和8年)に上野の東京美術学校(現・東京芸術大学)工芸部図案科を卒業したが、洋画とジャズが大好きで、東和商事に就職した。
趣味の西洋映画をふんだんにみながらイラストの才能を生かし、『会議は踊る』『商船テナシチー』『白き処女地』『にんじん』など戦前、東和商事がヨーロッパから輸入してヒットした映画のポスターのほとんどを手がけている。 あの爽(さわ)やかなパステル・トーンの淡彩スケッチをおぼえているかたも多いだろう。
活字は一字も使わず、タイトルはもちろん、キャッチフレーズやスタッフ、キャスト名まで、すべてが手描き――。
つまり、ポスターそのものが画家の筆で描かれた一個の芸術作品だった。
戦後の代表作品には『第三の男』『禁じられた遊び』『居酒屋』などがある。
…中略… さて、中日合作音楽会「夜来香幻想曲」の構想は固まった。
製作は川喜多長政、草刈義人、音楽監督・編曲は服部良一、脚本構成・辻久一、野口久光、振付・小牧正英、舞台・小出孝のスタッフ。
演奏は上海交響楽団、指揮は陳歌辛、服部良一である。
服部さんは、まず横浜正金(しょうきん)銀行(現・東京銀行)上海支店長の河村さんのお宅に2週間とじこもり、約20曲を編曲する作業に没頭した。
河村さんのお宅にはヨーロッパの有名なグランド・ピアノがあり、服部さんは同家の応接間にお出入り自由だった。 楽譜ができあがると、私もよくお邪魔して練習をした。
服部さんは、私の声に合わせて何度もメロディーやリズムを訂正し、工夫を加えていった。
今度のリサイタルにかける意気ごみにはなみなみならぬものがあった。
服部さんは当時を回想して、「戦時下の日本では到底できなかったガーシュインの手法を取りいれた実験を、思う存分やってみました」と言われる。
構成を手伝った野口さんの思い出は、「リハーサルが終わると私の家によって、ビールやウィスキーをがぶがぶ飲みながら新しい旋律やリズムのアイディアを語りあい、夜のふけるのも忘れたものでした」
…つづく…
(『李香蘭 私の半生』山口淑子 藤原作弥 新潮文庫 1990年)
「野口久光デザイン」(鎌倉市川喜多映画記念館)今朝の父の一枚です(^^)/
フユザクラが満開になっています。
二章 ヒマラヤザクラを求めネパールへ
19 サクラの来た道の仮説
日本人が愛するサクラ、世界にも誇れる日本のサクラ。
そのサクラが春に咲くものと信じていると、250品種ものサクラの中に、秋に咲く十月桜や冬桜などの数品種があることを珍しいと思うだけでなく、花が先に咲くさまを「なぜ?」という疑問の淵にさまようことになった時、熱海市にネパールのビレンドラ国王から贈られたという秋咲きのヒマラヤザクラ野生種があることを知り、その生育ぶりと花の美しさに魅了されてしまいました。
秋に咲くサクラの品種の謎は、スギ科のビャクシンや品種改良の進んだミカンなどでみかける一種の「先祖返り」の現象ではないかと考えたのです。
…つづく…
(『桜の来た道―ネパールの桜と日本の桜―』染郷正孝 信山社 2000年)
「ヒマラヤ桜 開花情報」(熱海市 令和5年12月22日)