2024年1月10日水曜日

1月10日

曇り空で寒かったです。
大阪でこんなに寒いのに…

能登半島地震の被災地 厳しい寒さ続く 土砂災害にも警戒を」(NHK)
八代亜紀さんが亡くなりましたね…
熊本地震の時は駆けつけて被災者を歌で励ましておられた。
八代亜紀さんと淡谷のり子さんとのエピーソードを
美川憲一さんが話していたのを読んだことがあります。

あるとき美川さんと淡谷さんがエレベーターに乗っていたところに
八代さんが入ってきたのにそっぽを向いたそうです。
八代さんは、「おはようございます!」とあいさつをしたのですが、知らん顔をされました。
それでも八代さんはめげることなく淡谷さんの顔を見ながら
何度も「おはようございます!」と挨拶をしつづけていると
根負けして「おはよ」と返したそうです。
そして美川さんに「あの子は根性あるわよ」と褒めたそうです。
今朝の朝ドラ「ブギウギ」第15週「ワテらはもう自由や」 (69)

茨田りつ子の「別れブルース」(YouTube)は、圧巻でした♪

開演前に心に傷を負った茨田へのスズ子の言葉

ほんならこれからは ワテらの歌で生かさな。
今が どん底やったらあとは ようなるだけですもんね。
歌えば歌うだけ みんな元気になるはずや。
うまくやれるかやなんて 一旦 置くわ。
ワテは 好きに歌う!
ほんでお客さん全員 片っ端から元気にしたる!
日本維新の会の馬場代表によると
万博の準備と被災地の復興は同時並行でやるべきだ。
万博は北陸の皆さんにも夢や希望を持って明るい将来に歩みを進めてもらえる1つのイベントになる

(「首相 “新年度予算案 予備費増額に協力を” 与野党 党首会談」NHK 1月5日)

馬場代表の考えでは、来年、能登半島地震の被災地は復興を終えているのでしょうか?
1月10日は、
天満雑貨商の食
 Ⅰ 四季の食生活
 1 冬――「商売繁盛、笹持ってこい」とにぎわう十日戎
(えびす)

…前略…

 十日戎

 えべっさん(えびすさん)は商売繁盛の神さまである。
若奥さんは、奥さんや二人の子どもたちと一緒に堀川夷神社におまいりする。
「商売繁盛、笹持ってこい」の声もにぎやかに、境内は出店と福笹をかかげた参詣人でいっぱいである。
寺町から梅田新道まで出店が並ぶ。
おたはんのあめ(お多福あめ)、ねじりあめ(長寿あめ)、焼きいも、洋食焼き、豆板、甘酒、太鼓焼き(どら焼き)などの食べものの店、玩具、当てものの店もある。
玩具屋に小さいとび口を売っている。
福笹、ねじりあめ、おたはんのあめを買い求め、熱い素うどんを食べて帰る。
福笹は商売繁盛、福徳円満を祈念して、床の間に飾っておく。
(『聞き書 大阪の食事 日本の食生活全集27』代表 上島幸子 農山漁村文化協会 1991年)
1月10日は、織田作之助の命日です。

 流離と放浪――織田作之助の生涯 
 井村身恒

 …前略…

アプレ・ゲールを先取り

 織田作之助――勘亭流めいた毛筆で表札を掲げた野田村の家で、足かけ7年半、「夫婦善哉」から戦後の「表彰」まで、数々の作品が生み出されていく。
灯火管制の下、二階の書斎は夜通し煌々(こうこう)と電灯がともり、近所の刑事に注意されながら、傍らにはコーヒーを出し、辞書を持って控える一枝の内助の功があった。
(『織田作之助の大阪』編者 オダサク倶楽部 平凡社 2013年)
 昭和19年(1944)8月6日、一枝死去。
子宮がんだった。

   御弔みありがとう。呆然としてしまって、路傍の人とも女房の想出を語りたいくらい寂しく人なつこくなってしまった。女房は映画見なかった。可哀相な奴でした。寂しくて仕方がない。
    昭和19年8月15日付
      杉山平一宛の葉書

 映画とは「還って来た男」。
「清楚」と「木の都」を元に、オダサク自らが脚本を書き、川島雄三監督がメガホンをとった。
戦時下の困難な条件の中で、主演の佐野周二が相手役の田中絹代に早口で夢をしゃべりまくる「軽佻派」誕生を告げる記念碑的作品。
   ここに出て来る人物は、すべて五月のように生生として、明るくその日常を愉しみながら、生きていると思う。ここに出て来る人物には、不幸な人間、いやな人間、暗い人間はひとりもいない。その人に会うたとたん、心なごやむひとたちばかりである。
   『清楚』あとがき

 気分は、もしろアプレ・ゲール(戦後派)を先取りした。
杉山平一が「織田氏は、第二次大戦後の青春観と同じやうなことを、早く示して見せたのである。『近代』を、思想としてでなく体質的に感得していた」と言う所以である。
 三三年と七六日の人生
  
  彼等はただ老境に憧れ、年輪的な人間完成、いや、渋くさびた老枯を目標に生活し、そしてその生活の総勘定をありのままに書くことを文学だと思っているのである。(……)日本の伝統的小説には人間の可能性が描かれていない(……)
       「可能性の文学」

 坂田三吉の端歩(はしふ)とサルトルの実存主義文学をつなげて、大胆に文壇の権威(志賀直哉とその正流)を批判したかに見えたこの評論こそ、じつは作之助自身の小説作法の独立宣言に他ならなかった。
これを脱稿後間もなく、「土曜夫人(97)」とタイトルだけ書いた原稿用紙を鮮血で染めて救急車で運ばれる。
肺結核による大量喀血だった。
年が明けて昭和22年(1947)1月10日(十日戎の日!)、「ロマンを発見した」を最期の言葉に絶命する。
オダサクの遊歩人生も終わった。
…後略…
(『織田作之助の大阪』編者 オダサク倶楽部 平凡社 2013年)
太宰治も肺結核が悪化していました。

1948(昭和23)年
  1月10日

 今朝、血痰がひどく出られた由。
 お体も、めっきりおやせになられた。
 お体にいけないから、と言っても、大丈夫だよ、どうせもう永くはないんだから、と仰言って御一緒に……。

…後略… 
(『太宰治との愛と死のノート 雨の玉川心中とその真実』山崎富栄著 長篠康一郎編 学陽書房 1995年)
 1月31日

 結核、修治さんが御病気なので、野川家同居人一同の恐怖。
  一、ゴミ溜に棄てたちり紙の件
  一、御不浄の消毒の件
  一、洗物を井戸端でしてほしい件
 等について、今夜野川さんから聞かされる。
 はいはい済みません。
 こういうことは修治さんには言えぬこと。
「山崎さんも苦労しますね、済みませんけど頼みます」
 はいはい済みません。
 わたしは修治さんの幸せになることなら、どんなことでも致します。
昔のようにお家がいくらでもあれば、何のことはない事件なのだけれど。
今日はじめて「山崎便所」のわけが分かった。
あちこち使われることは、気持ちのよいことではなかったのでしょう。

…後略…

(『太宰治との愛と死のノート 雨の玉川心中とその真実』山崎富栄著 長篠康一郎編 学陽書房 1995年)

スズ子が愛助を看病している姿に山崎富栄さんを思い出していました。
野川家は山崎富栄さんが下宿していた家です。
太宰治と三鷹 ■太宰ゆかりの場所」(三鷹市)