公園に着いたときは、今朝も寒いなぁと思っていましたが
歩いているうちに日差しがポカポカしていて暑く感じるほどでした。
被災地にも暖かい日が訪れますように
「能登半島地震 被災地は断続的に雨や雪の見込み 地震にも注意を」(NHK)公園を歩いている時間帯に
「東京・神奈川で震度4 津波なし 専門家“日頃の備え進めて”」(NHK)
「2024年1月28日放送 アートシーン/展覧会情報」に
「フランク・ロイド・ライト 世界を結ぶ建築」(パナソニック汐留美術館)が紹介されていました。
ライトの設計した帝国ホテル二代目本館(ライト館)の開業の日(1923年9月1日)に関東大震災が東京を襲ったのです。
「ライト館 誕生と継承」(帝国ホテル)
「帝国ホテルより見たる丸の内の大火(関東大震災) 東京都千代田区内幸町」(NHKアーカイブス)前に書いたように火曜日に夕食をもどしてからひどい下痢に悩まされていました。
普段は、上が100を切ることもあるのに
金曜日の夜には、血圧が上が140(下が90)まで上り、
土曜日の朝も138(93)だったので
このままでは、心臓に負担がかかると思って病院に行きました。
土曜日は、循環器内科の診察がないので内科を受診。
担当の医師が症状を問診してくださって
循環器科で出ている薬をみながら頓服を処方してくれました。
心筋梗塞を発症する前は、市販薬を服用したりしていましたが
現在、6種類の薬を服用しているので飲み合わせに注意しないといけません。
今日は、下痢の症状も治まったみたいなので出かけました。
でも、腹痛は時々あるので無理をしないていどに歩きました。 朝ドラ「ブギウギ」についてネットで史実との違いを指摘する記事や書き込みをみることがあります。
史実通りに描くなら実名にすればいいのです。
たとえば第14週「戦争とうた」 (65)で描かれていた
上海での李香蘭(昆夏美)の歌「夜来香」(ブギウギオンステージ<フルバージョン>)
この時のリサイタルを再現しようとすれば、
服部良一物語として描かないと収まらないと思います。
昭和19年6月に三度目の中国に渡った服部良一氏は
陸軍報道班員として、軍刀を腰につるした奏任佐官待遇でした。
ドラマの中で羽鳥善一が軍服を着ていなかったのは上官の指示なんです。第十三章 夜来香ラプソディー
…前略…
フィリピン全域がアメリカ軍によって占領される状況になると、川喜多さんは華影の社員に家族を疎開させるよう命令し、特に必要な部署についている社員以外には帰国をすすめた。
1945年(昭和20年)4月――アメリカ軍が沖縄に上陸するころ、華影の映画製作は全面ストップした。
主要メンバーのうち渾大防五郎、筈見恒夫、清水晶さんたちは出征ないし帰国した。
川喜多さんはアメリカ軍が上海に上陸する事態を想定して、本社機能を北京に移転する計画を立てていた。
(『李香蘭 私の半生』山口淑子 藤原作弥 新潮文庫 1990年) 映画製作が不可能になったので、華影関係者は無聊(ぶりょう)をかこつ日々がつづいてた。
大音楽会を開催しようという企画が持ちあがったのはそのころである。
川喜多さん、野口久光さんらの頭には、不老不死の霊薬を飲んだ美女が月に飛翔する――とうミュージカル映画『嫦娥奔月』への未練がまだあったのでろう。
関係者は、素晴らしいミュージカル・ショウで景気をつけよう、と意気ごんだ。
上海報道部嘱託の作曲家・服部良一氏がそのアイディアにとびつき、李香蘭を起用するファンタジックなリサイタルを提案した。
服部さんは、ついに公開上映されることのなかった幻のミュージカル映画『私の鶯』を舞台で再現しようと思ったのかもしれない。
私と服部さんとは、デビュー時の『白蘭の歌』以来のおつきあいで気心が知れている。
ミュージック・ファンタジーの企画には、軍報道部も大乗気で、さっそく企画会議が開かれた。 服部さんが配属された上海陸軍報道部の音楽担当の将校が中川牧三中尉だったことは、幸運なめぐりあわせだった。
中川氏は慶応大学出身、昭和のはじめにヨーロッパに留学したイタリア仕こみのテノール歌手で、現在も関西に健在である。
背の高い、立派なヒゲをたくわえた好男子で、自身が芸術家だけに文化人に対する理解が深く、みんなから「ナカチュウ」の愛称で親しまれていた。
昼間は軍服だが、夕方になると、ダンディーな紳士として夜の社交界へさっそうと出かける。 報道員たちにも、夜は私服になることをしきりにすすめていた。
「上海は特殊なところです。軍人は嫌われる。軍服を着ていると身の危険もある。あなたたち報道班員は佐官待遇かもしれないが、そんな肩がきは中国人社会では通用しない。一人の芸術家として自由に上海の中国人や外国人とつきあってください」
服部さんは、おりから上海に来ていた渡辺はま子さんや妹の服部富子さんら歌手を集めた音楽会を大光明大戯院(グランド・シアター)で催した。
この音楽会は日本人聴衆が大部分だったが、まずまずの好評で、中川中尉は「この調子で文化工作をすすめてほしい」としきりに激励した。 その成功を受けてつぎに持ちこまれた企画が李香蘭のリサイタルだった。
プロデューサーの川喜多長政、上海交響楽団支配人・草刈義人、音楽総監督の服部良一らの呼びかけで馳せ参じたのが、野口久光、辻久一、小出孝といった上海残留組の華影スタッフやバレエの小牧正英さんたちだった。
関係者は、「日本人よりも、中国人や外国人が熱狂するような夢のある素晴らしいミュージカル・ショウを実現しよう」を合言葉にアイディアを持ちよった。
企画会議では中川中尉が「服部さんと李香蘭のコンビでヒットした映画の主題歌集を」と提案したが、服部さんは、「ここは上海交響楽団という世界的水準の外国人オーケストラがあるから、それを使ってシンフォニック・ジャズを基調とした李香蘭のミュージカル・ショウにしたい」と発言した。
上海交響楽団は、当時、東洋一と言われ、楽団員はイタリア人、ユダヤ系のドイツ人、オーストリア人、白系ロシア人が中心で、総勢60人。
服部さんの恩師メッテル氏も何度か客演指揮したことがある。「それは豪華だ。だがあの気位の高いオーケストラに流行歌やジャズの伴奏をさせるのは難しいでしょうな」と中川中尉。
しかし服部さんは、「李香蘭が歌うのは流行歌ではない。欧米や日本のクラッシク歌曲が大部分です。それにメインテーマをジョージ・ガーシュインばりのシンフォニック・ジャズにして、クラシック・ファンもジャズ・ファンも楽しめるものにしたい。中国人も欧米人も、つまりあらゆる人たちが楽しめるものに――」
服部さんは、かねてからガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」のようなシンフォニック・ジャズを一流オーケストラの演奏で指揮してみたいという強い希望を持っていた。
本来なら敵性音楽を取り締まる立場にある報道部将校の中川中尉は、しばらく考えていたが、音楽人・中川牧三として決断したのだろう。
「いいでしょう。そのかわり、タイトルはラプソディーとかファンタジーの横文字をつけないで、報道部には物わかりの悪い軍人がいますからね。日本語と中国語で表示して『幻想曲』という言葉を使いましょう」 リサイタルは、第一部を欧米および日本の歌曲、第二部を中国の歌曲、とすることまでは決ったが、肝腎の目玉である第三部のシンフォニック・ジャズによる幻想曲(ラプソディー)の主題曲がなかなか決らなかった。
「時局柄、欧米の曲は避ける」「明るく華やかなメロディーで、思わず踊りだしたくなるようなリズム」「文化工作の目的からいっても中国語でうたえる歌がよい」「李香蘭の声の特徴を生かすソプラノの歌曲で、しかもシンフォニック・ジャズにアレンジできる曲」……。
…つづく…
(『李香蘭 私の半生』山口淑子 藤原作弥 新潮文庫 1990年)
中川牧三氏については
「14.夜来香幻想曲」(日本イタリア協会)
「15.軍事法廷」今朝の父の一枚です(^^)/
「メジロ ✤甘いものが大好物」つづき
花の蜜を吸う小鳥たちの嘴や額などは、花粉がたっぷりふりかけられて黄色くなっている。
冬季には、昆虫などが少ないので、花粉の運び屋としてもメジロやヒヨドリは重要な役割を果している。
甘党の鳥にとっては、熟れた柿も大好物だ。
秋になって柿が色づいても、鳥のためにわざわざ取らないで放っておく人もいるくらいだ。
熟した柿は、中味がドロドロの液状になり、これをメジロ、ヒヨドリ、スズメ、ムクドリなどがつついて食べる。
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)