朝食抜きで帰宅してから食べることにしています。
病院の喫茶室で、私と父の昼食としてパンとゆで卵を買いました。
量が少ないと思うかもしれませんが、
いつもより朝食の時間が遅くなり、食べてすぐに昼食の時間になります。
待っている間、読んでいたのが図書館で借りた
予断・診断・独断 誰の内にもユダは棲む?
今から四十数年前の話である。
私がドイツに留学していた時、当時の西ドイツ・バイエルン州北部・オーバーフランケンの町のコーブルクの近郊、グループ・アム・フォルストという小村の牧師館で、ある日曜日の午後、お茶を飲みながら「牧師夫人」( Pfarrfrau )がふと私に洩らした。
「ユダヤ人の迫害に対する私たちのドイツ人の罪責を衝く夫の今朝の説教に、私は反対しません。その通りです。でも、正直言って私は、ユダヤ人を好きになれません。ユダをはじめとして、ユダヤ人はイエス・キリストを裏切り、キリストを死に追いやったのですから……」。
私はこの言葉を聞いて愕然とした。
ドイツ民衆の、いわば「敬虔」の象徴である牧師の連れ合いが、未だに胸の内なるユダヤ人憎悪を克服できないでいるのか、と。
しかしこれは、二千年にわたるキリスト教の、「キリスト者」に対する「刷り込み」の結果かもしれない。
あるいは、自らの罪を他者に帰し、自らは罪を免れようとする、人間の普遍的な「性(さが)」なのかもしれない。
省みて、われわれ日本人の場合はどうであろうか。
ドイツと結び、ヒットラー・ユーゲントを熱烈歓迎し、中国では「ホロコースト」を犯し、朝鮮人を強制連行して労働力を補充し、アジアの女性の「従軍慰安」を強い、それを恥とするところなかった日本人の罪責を、戦後日本人は自らのこととして担ってきただろうか。
少数の例外はあった。
しかし、その人々を「自虐」者と罵り、その舌の根も乾かないうちに、「美しい日本」をことあげする為政者をサポートする風景が「現代」なのではないか。
このような現代の風景を自らのこととして批判的に超え、新しい風景を切り拓く地平に立つことが、私たちにとって可能なのであろうか。
それを可能にする第一歩が、「裏切るユダは誰の内にも棲む」という絶望の共有にほかならないのではないか。
そして、この一歩はユダのいる最初の風景をなす福音書の中に潜んでいる、と私は思う。
ところが、その「潜み」に気づかず、福音書はユダをイエスに対する裏切り者としてマイナスに評価している、とみるのが一般的ではなかろうか。
たしかいに、このような傾向はマタイ、ルカ、ヨハネの三つの福音書にはすぐに見いだされる。
しかし、最初に著わされたマルコ福音書の場合はどうであろうか。
少なくともマルコによれば、ユダはペトロをはじめとする他の弟子たちの内にも棲んでいる、というのが私の見解である。
…後略…
(『ユダのいる風景』荒井献 岩波書店 2007年)
再版してくれないかなぁ…