2023年1月21日土曜日

チラッと…

晴れてはいたけど時々、雲が陽ざしを隠して冷たい風…
帰るときにチラッと白いものが舞っていた。

北日本 日本海側中心に猛吹雪か 来週火曜日から広範囲で大雪か」(NHK 1月20日)
24日夜 非常に強い寒気が九州 四国 近畿まで覆うそうです…(-_-;)
新型コロナ対策が見直されて
コロナ「2類相当」見直し「5類」になるとどう変わる? Q&A〟(NHK 1月20日)

邪推すると防衛費の予算を捻出するための一貫だろと思う。
中国がゼロコロナを突然、やめたおかげで

中国「春節」 香港には多くの人 東南アジア各国は観光客に期待〟(NHK)

だそうですが…

感染爆発、中国は世界を巻き込むな」(遠藤誉 1月15日)
中国国内で感染が落ち着く3月過ぎまで出国させるべきではない

素人の考えでは、観光客が新型コロナウイルスを世界に再び拡散させ
すでに国内で変異株が発生していると思われるのに
帰国した旅行者が国内に新たな変異株を持ち込んだと強弁するのだろうなぁ

日本でも中国でも感染死の大多数は高齢者や基礎疾患がある人になっている。
中国や日本のコロナ対策は社会の労働力として働けない者は必要ないということなんだろう。
だいぶ前に読んだ『七十歳死亡法案、可決』が現実のものとなりそうだなぁ…
7 エボラと日本
 日本はバイオテロ容認国?


 米国の生物兵器研究とバイオテロ対策に日本が深くかかわっていることは、ほとんど知られていない。
第2次世界大戦の最中に米国で前述のように生物兵器研究が始まった。
そのきっかけは七三一部隊長石井四郎の動向にかかわるものである。
1939年、彼の細菌研究室がある陸軍軍医学校助教授がロックフェラー研究所を訪ねてきて、黄熱ワクチン開発のためと称して強毒の黄熱ウイルスの分与を依頼した。
すでに国際連盟が黄熱ウイルスをアジアに持ち込むことを禁じていたため、この依頼は拒否された。
その後も別のルートで同じ依頼が持ち込まれた。
日本人が黄熱ウイルスの入手に2回失敗したことは、国務省に報告された。
(『エボラ出血熱とエマージングウイルス』山内一也 岩波科学ライブラリ― 2015年)
それから20ヶ月ほどのち、1940年10月4日、日本の飛行機が上海の南、浙江省で腺ペストの散布を行なった疑いが生じ、翌年11月4日にも江南省で同様の事態が発生した。
黄熱と腺ペストの事件から米国は日本からの生物兵器攻撃の潜在的脅威について議論を始めた。
その直後に真珠湾攻撃が起こり、生物兵器に関する委員会が設立されジョージ・メルク(製薬会社メルクの社長)が委員長に任命された。
この委員会の勧告により、1943年に陸軍のキャンプ・デトリック生物兵器実験施設が設立された。
これが終戦後フォート・デトリック生物研究所になり、現在はユーサムリッドになっている。
 東西冷戦終結の翌年、1992年、ソ連の生物兵器開発計画の最高責任者ケン・アリベックが米国に亡命した。
彼がもたらした情報は、ソ連が天然痘ウイルスを大量に製造し、その一部は北朝鮮、イラクなどに流出したというものだった。
この情報から米国がバイオテロの潜在的危険性を検討しはじめて間もなく、1995年にオウム真理教によるサリン事件が起きた。
そこで明らかになったことは、オウム真理教信者が1992年にザイールまで出かけてエボラウイルスの入手を試みていたこと、1993年には炭疽菌を東京・亀戸(かめいど)周辺で散布していたことである。
日本ではオウム真理教のエボラウイルスや炭疽菌に関する行動はあまり関心が寄せられなかったが、米国はサリンよりも炭疽菌テロ実行の事実を深刻に受け止めた。
それまで、バイオテロは起こるかもしれないと見なされていたが、いつ起こるかという現実の問題になったのである。
 1999年米国議会はバイオテロへの体制を強化することを決定し、CDCはバイオテロ対策室を設置した。
バイオテロに用いられるおそれのある病原体はA、B、Cの三つのカテゴリに分けられた。
もっとも危険性が高いカテゴリーAには、天然痘ウイルス、フィロウイルス(エボラとマールブルグウイルス)、ラッサウイスるなどが指定された。
炭疽菌の管理が野放しで世界最初のバイオテロを起こした日本はバイオテロ容認国とみなされ、日本への病原体やその遺伝子の分与は禁止された。
国立感染症研究所ではエボラウイルス抗体の抗原検査は、エボラウイルス遺伝子から産生した組み換えタンパク質に頼っているが、そのウイルス遺伝子はバイオテロ容認国になる前にCDCから分与されていたものである。
 現在、スーツ方式のレベル4実験室を長崎大学に設置する計画が進んでいる。
日本のウイルス学にとって大変歓迎すべきことである。
一方で、気にかかることは大学の施設でのバイオセキュリティの体制である。
レベル4実験室では、バイオセーフ―ティだけでなく、ウイルスがバイオテロなどに利用されるのを防止するバイオセキュリティがとくに重要視されており、海外では国の安全保障を担当する政府機関がレベル4実験室に深くかかわっている。
バイオテロが起きた場合、国としての責任が国際的に問われるのである。
ふたたびバイオテロ容認国のレッテルが貼られることがないよう、しっかりした責任体制を確立して、このレベル4実験室が安全に稼働されることを願ってやまない。

 この時に散布された炭疽菌は教団の製造責任者・遠藤誠一が細菌学の知識に欠けていて、毒力のないワクチン株を用いたため、病人はでなかった。
(『エボラ出血熱とエマージングウイルス』山内一也 岩波科学ライブラリ― 2015年)
 1月21日 慶応2年(1866.3.7) 
 萩藩士木戸孝允(きどたかよし)と鹿児島藩士西郷隆盛(さいごうたかもり)、坂本竜馬(さかもとりょうま)の斡旋により京都鹿児島藩邸で薩長合従の盟約を結ぶ(薩長連合)(維新史料綱要)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

薩長同盟」(小学6年)
第6章 動乱の幕末

 薩長同盟


…前略…

 1866年(慶応2)1月初旬、木戸孝允がひそかに薩摩藩邸に入り、西郷隆盛らと会見する。
戦火を交えた間柄であり、容易に打ち解けなかったが、坂本龍馬が仲をとりもち薩長同盟が合意された。
合意内容の確認を龍馬に求めた木戸の書状には、薩長同盟が日本の「大事件」にかかわる後世に遺(のこ)るものであることを、木戸たちがよくわかっていたことが記されている。
龍馬の返書には干支(えと)がわざわざ記され、書体も奔放な龍馬の手紙としては精一杯かしこまっている。
合意内容は藩内でも秘密にされた。
幕府との戦争の際には薩摩藩が京都と大坂に兵を出すこと、たとえ長州藩が敗戦しても薩摩藩が援助を続けること、幕府が朝廷を掌握してしまったときは薩摩藩が兵力で戦うこと、などである。
合意した箇条に「幕兵」と記されるように、もちろん幕府との戦いを覚悟していた。
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年)
 合意では、幕府を滅ぼすことには言及していない。
つまり、討幕(とうばく)ではなく、幕府の攻撃に対する防衛協定、攻守同盟であった。
それにしても、木戸の手紙によれば「将来見込みの辺(あたり)」についても、龍馬も「同座」して、木戸、西郷と小松との間で、「委曲(くわしく)了承」されたのであった。
龍馬の返書も、木戸の書状を確認し、「将来といへとも決して変り候事これなし」と応じている。
討幕の問題も、当然、議論されたはずである。
 のちに朝廷側から参加して、木戸たちが言うこの「将来見込みの辺」、討幕に形を与える役割をする岩倉具視(いわくらともみ)は、なお岩倉村に隠棲(いんせい)し、公家たちのほとんどが赦免(しゃめん)されても「奸物(かんぶつ)」と誹謗され、赦免からはずされる逆境にいたのであった。
大久保や龍馬が岩倉に接近するのは、この年1866年の末、幕長戦争の後である。
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年)