まずはお地蔵様にご挨拶。竈の神様にもお参り。
三が日を外しましたが、高校野球部の団体さんなどが参拝に来られていました。
賀
男山(をとこやま) 神にぞ幣(ぬさ)を 手向(たむ)けつる 八百万代(やほよろづよ)も 君がまにまに
男山の神に幣を供えて祈りました。
わが君のお心のままに、未来永劫お栄え下さいませ。
男山の石清水八幡宮に後鳥羽院の長寿を祈った形だが、箱根を越えたことのない実朝は、鶴岡(つるがおか)八幡宮が元来男山の神を勧請(かんじょう)したものであることから、鶴岡に祈念すれば男山に祈ったも同然と考えて詠んだものか。
◇男山 京都府八幡市にあり、頂に石清水八幡宮が祀られている。
◇幣 麻・木綿(ゆう)・紙などで作った神への供え物。
(『金槐和歌集』源実朝著 樋口芳麻呂校注 新潮社 平成28年)社務所で購入した『文化燦々 記念号』より一部を転記します( ..)φ
図などは省略していますので「境内のご案内」を参照してください。
なお、画像と講演内容は一致していません(^^ゞ
国宝 石清水八幡宮本社の祭祀と造営
石清水八幡宮研究所 主任研究員
東北福祉大学 教育学部教授
鍛代敏雄(きたい としお)先生
国宝の本社
境内の男山は、雄徳山とも書きましたが、標高142メートルほどの丘陵です。
京都府立総合資料館所蔵の「中井家文書」の石清水全図があります。
中井家は京都所司代(しょしだい)につかえた大工頭の家で18世紀後半に描かれた本図に「公儀御修覆所之分(こうぎごしゅうふくどころのぶん)」と記されているように、石清水境内における修覆された山上山下の社寺がわかる全図です。
本社を中心とする堂塔伽藍(どうとうがらん)の様相は、神仏霊場と見なして間違いありません。
(『講演録 文化燦々 記念号』石清水崇敬会 令和2年5月1日) 平成28年2月9日付けの国宝指定書には、「石清水八幡宮 10棟」を国宝に指定する、とあります。
本社に10棟も殿社がありましたでしょうか、不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれません。
そこで、現代の平面図(省略)を御覧ください。
番号の順に眺めていってください。
①は本殿で、内殿と外殿の二棟が前後に連接された八幡造です。
内殿はいわば奥にあたり、外殿は表になるものと考えています。
神様にも私の世界と公の世界があって、表にお出ましになって、祭儀をはじめとした日々の執務をはたされているわけです。
②は応神天皇につかえた紀氏の祖先、竹内宿禰を祀った摂社武内社本殿です。
③は本殿をぐるりとまわる瑞垣(みずがき)です。もっとも聖なる場の結界となっています。
④は、幣殿および舞殿です。いっぱんには拝殿といわれる場所ですが、奉幣する区域と舞楽を奉じたり、かつて読経がなされた区域が、石敷(応徳3年<1086>に完成)に線刻があって区画され、幣殿には独立した屋根がかけられています。
⑤は、正面のりっぱな楼門です。⑥は東門、⑦は西門です。
そして、神社建築で最大の⑧の廻廊が三区域にわけられます。
ひとつが楼門から東門までの東廻廊、また楼門から西門までの西廻廊、そして東門から西門までの北側、背面の廻廊をあわせて、以上、10棟と数えております。
本社は、寛永11年(1634)に再建されて、現在にいたっていますが、いくつか興味深い点に気づかされます。国宝 石清水八幡宮本社の祭祀と造営
石清水八幡宮研究所 主任研究員
東北福祉大学 教育学部教授
鍛代敏雄(きたい としお)先生
国宝の本社
境内の男山は、雄徳山とも書きましたが、標高142メートルほどの丘陵です。
京都府立総合資料館所蔵の「中井家文書」の石清水全図があります。
中井家は京都所司代(しょしだい)につかえた大工頭の家で18世紀後半に描かれた本図に「公儀御修覆所之分(こうぎごしゅうふくどころのぶん)」と記されているように、石清水境内における修覆された山上山下の社寺がわかる全図です。
本社を中心とする堂塔伽藍(どうとうがらん)の様相は、神仏霊場と見なして間違いありません。
(『講演録 文化燦々 記念号』石清水崇敬会 令和2年5月1日) 平成28年2月9日付けの国宝指定書には、「石清水八幡宮 10棟」を国宝に指定する、とあります。
本社に10棟も殿社がありましたでしょうか、不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれません。
そこで、現代の平面図(省略)を御覧ください。
番号の順に眺めていってください。
①は本殿で、内殿と外殿の二棟が前後に連接された八幡造です。
内殿はいわば奥にあたり、外殿は表になるものと考えています。
神様にも私の世界と公の世界があって、表にお出ましになって、祭儀をはじめとした日々の執務をはたされているわけです。
②は応神天皇につかえた紀氏の祖先、竹内宿禰を祀った摂社武内社本殿です。
③は本殿をぐるりとまわる瑞垣(みずがき)です。もっとも聖なる場の結界となっています。
④は、幣殿および舞殿です。いっぱんには拝殿といわれる場所ですが、奉幣する区域と舞楽を奉じたり、かつて読経がなされた区域が、石敷(応徳3年<1086>に完成)に線刻があって区画され、幣殿には独立した屋根がかけられています。
⑤は、正面のりっぱな楼門です。⑥は東門、⑦は西門です。
そして、神社建築で最大の⑧の廻廊が三区域にわけられます。
ひとつが楼門から東門までの東廻廊、また楼門から西門までの西廻廊、そして東門から西門までの北側、背面の廻廊をあわせて、以上、10棟と数えております。
その一は、本社が南面していること。
神社や寺院の向きはまちまちです。
おなじ八幡宮でも西向きもあれば南向きもあります。
わたしは、天子南面(てんしなんめん<君主は南に面して臣下と対面し政治をおこなう>)を意識した造営であったと思っています。 その二は、社頭は平坦に整地されておらず、傾斜地に本社が建っています。
その証拠に、東南隅の石積は2メートル55センチ、北西隅の石積は1メートル47センチですから、地面は少なくとも1メートルの傾きがあって、それを石積(もとは柱になる懸造<かけづくり>)をもって調整していることがわかります。
なお布積(ぬのづみ)とよばれる工法で花崗岩の切石を精巧に積み、表面を美しく整形しており、二条城に用いられた石積技法だと指摘されています。 その三は、先ほど述べました、他社に例を見ない大廻廊の存在です。
本社の廻廊が建造されたのは、天喜4年(1056)と記録に見えます。
創建から二百年間なかった廻廊がどうしてあらたに造られたのか、やはり祭祀から考えるべきではないでしょうか。
君主の玉座、将軍の御座所、参詣者・奉仕者の控えの間、休憩所や饗膳(きょうぜん)の場、祭器類の倉庫など、大廻廊は祭祀にあわせた多機能性を備えています。
…後略…
(『講演録 文化燦々 記念号』石清水崇敬会 令和2年5月1日)行き帰りの電車などで読んでいたのが、
図書館で借りた本(紙版は品切れになっています)、読んでいる途中ですが
たった四杯の「上喜撰」
…前略…
さて、京都の市井に「山紫水明処(さんしすいめいしょ)」(現上京区)と呼ばれる一荘がある。
『日本外史』を著した頼山陽(らいさんよう)の後年の住居で、山陽のまわりには天下国家の治乱興亡を論じる友人や弟子が集まり、尊王の精神を議論していた。
そこではしばしば煎茶(せんちゃ)会が催され、詩の交換や書画の展観なども行われ、煎茶会が文人の風雅な遊びとなり、抹茶とは異なる色・味・香を楽しむ新しい煎茶サロンを形成した。
煎茶「上喜撰(じょうきせん)」は、六歌仙の一人喜撰法師が庵を結んだと伝えられる宇治の喜撰山にほど近い山村、池尾(いけのお)の池尻(いけじり)村が村をあげての煎茶作りで成功をおさめた極上品の茶である。
ペリー来航時の狂歌、
太平の眠りをさます上喜撰
たった四杯で夜も眠れず
は単に蒸気船と上喜撰のごろ合わせであるが、狂歌を作った名もない人は、さかんに煎茶が飲まれるようになって、茶の世界を変えてきたことを知っていた。
天保初年には「玉露(ぎょくろ)」も創作され、外国人貿易が始まると煎茶・玉露は生糸とともに、輸出品の一、二位を競う商品になっていった。
黒船の来航はいやおうなしに、日本の社会を変えていくことになる。
…後略…
(『女たちの幕末京都』辻ミチ子 中公新書 2003年)
こんばんは~
返信削除今日は、青空が広がって良いお天気で、初詣日和りだったでしょうか!
お父様とご一緒に、石清水八幡宮へお詣りできて良かったです。
香里園に住んでいた頃に、一度だけ石清水八幡宮へお詣りさせてもらったことがあります。
懐かしく境内の様子を拝見いたしました。
良い年になりますよう。。
本年もよろしくお願いいたします。
カイさんこんにちは(^^)/
削除昨日は、冷たい風が吹いていましたが
遠く京都の山々が見えるほど青空が広がっていました。
寝屋川(香里園駅下車)に住んでいた頃は成田山にお参りに行ったり、石清水八幡宮もケーブルでなく参道を上がっていました。
三が日は参拝者が多いので避けましたが
5日はまあまあの人出でした。
平和で穏やかな年になりますように!
本年もよろしくお願いします(^^)/