曇り空でしたが風がなかったので歩いているとポカポカしました。
3年ぶりの一般参賀が行われました。
「新年一般参賀映像(令和5年1月2日 1回目)」(宮内庁)韓国のイテウォン転倒事故や明石の歩道橋事故のように
二重橋上で群衆が折り重なって倒れるなど混乱状態になったことがあります。
「参賀で死傷者多数 二重橋事件」(NHKアーカイブス 1954年1月2日)
公園内の電話ボックスでお孫さんたちに電話のかけ方を教えておられました。
スマホに慣れた子どもたちにとって大事なことだと思います。
「auなど通信障害の教訓 “もしも”に備え 知っておきたい対策は」(NHK 2022年7月5日)
〝公衆電話守り続ける 携帯普及でも「災害時に不可欠」 神戸の喫茶店主〟(産経新聞 2019年1月11日)先人たちの底力 知恵泉 スペシャル 正月料理「一年の計は“美味”にあり」で
正月料理が紹介されていました。
おせちの移り変わり
おせちの語源
江戸中期の『俚言集覧(りげんしゅうらん)』には、「せち 節日(せちにち)の食膳を節供(せちく)といふを略せる也。俗におせちといふ」とあります。
節日とは、正月や五節供などの祝いを行う日のことで、五節供は人日(じんじつ<1月7日>)、上巳(じょうし<3月3日>)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(ちょうよう<9月9日>)などです。
現在は節句と書きますが、古くは節供と書いていました。
このように節日に神饌(しんせん<神に供えた酒食>)を下げて祝食する食べ物がおせちでしたが、江戸後期から正月に限って、おせちと呼ぶようになりました。
(『江戸 食の歳時記』松下幸子 ちくま学芸文庫 2022年) おせちの原型は喰積
正月は新しい年神(としがみ)様を迎えて、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る農耕儀礼で、年神様に供えた神饌(祝い肴)を下げて祝食するのがおせちでした。
元日の祝いは奈良時代から宮廷の公式行事になりましたが、雑煮やおせちを祝食する風習は、室町時代から始まったものです。
おせちの原型は、三方に盛って供えた蓬萊(ほうらい)または喰積(くいつみ)と呼ばれたものといわれ、『傍廂(かたびさし)』(1853)には次のようにあります。
「初春の祝物くひつみといふは、春の始めに食(くひ)て薬となるべき物のみ取りあつめて、客も主も物語りしながら、つまみとりてくひし故に、くひつみとはいへるなり。今はくはぬ事としてなま米をつめれど、むかしは葩煎(はぜ)といひて、糯(もちこめ)を爆(いり)て孛婁(はぜ)しめたるなり。天明中頃までは、元日早朝より、江戸中葩煎売あまたありしきを、つぎつぎに絶えて、御丸の内のみあまたありきしを、それも寛政の頃より、やうやうすくなくなりて、今は稀にうりありく者あり」として、初春に食て薬になる物の名をあげています。
米・栢(かや)・かち栗・梅干・蜜柑・乾柿・熨斗(のし)・昆布・橙・九年母(くねんぼ)・野老(ところ)・神馬藻(ほんだわら)などで、みな効能が明らかなのに今は食べられなくなったのは残念であるとして「くひつみの名義をば、いづくにかはうらしけん。当世はくはぬつみとぞなりにける」と結んでいます。
このように天明(1781~89)頃までは食べられる喰積がありましたが、嘉永(1848~54)頃には食積は飾るものになっています。
『傍廂』と同じ頃の『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には喰積についておよそ次のようにあります。
「幕末には上方も江戸も正月には蓬萊を飾ったが、江戸では喰積と呼んだ。京坂の蓬萊は床の間に飾っておくが、江戸では年始の客に必ずこれを出し、客がすこしとって一礼すると元の所に戻し、食べる形だけで実際には食べないものであたた」。
図1(省略)は蓬萊の挿絵で、三方の中央に真物の松竹梅を置き、まわり一面に白米を敷き、その上に橙一つ・蜜柑・橘・榧(かや)・搗栗(かちぐり)・おにところ・串柿・昆布・伊勢海老などを積み、裏白・ゆずり葉・野老(ところ)・神馬藻(ほんだわら)を置いたものと説明しています。 喰積から重詰へ
江戸中期頃から正月の祝い肴は、田作り・数の子・煮豆・牛蒡などが主流になり、重箱に盛って供するようになりました。
文化10年(1813)頃に、幕府の奥儒者屋代(やしろ)太郎弘賢(ひろかた)が、諸藩に年中行事の風俗について問状(といじょう)を送り、その答書は16くらい現存していて『風俗問状答』として知られています。
131の質問項目があり、答書は貴重な史料ですが、回収率の低いアンケート調査だったようです。 その中の正月行事についての問状の一つに「組重の事、数の子、田作(たつくり)、たたき牛蒡、煮豆等通例、其外何様の品候や」というのがあります。
当時江戸では祝いの肴の重詰が通例になっていたようですが、各地からの答書の多くは、通例と同じとし、その他に牛蒡・こんにゃく・芋(里芋)・豆腐などの煮物をあげています。
幕末の江戸の風俗を記した『絵本江戸風俗往来』には、重詰の品は田作(ごまめ)・数の子・座禅豆(現在の黒豆)の三種で、家により多少の違いはあっても、この三種は通常用いられているとあります。
図2(省略)は安政2年(1855)の、ある公家の元日の昼の祝膳ですが、右下の重箱には、上からそれぞれ数の子、牛蒡、ごまめと串貝(鮑の腸を除き串にさして乾燥したもの)、黒豆と梅干が入っています。
また、慶応2年(1866)元日の、ある大名献立を見ると、二汁五菜の祝膳と、てり田作、数の子、酢牛蒡、煮豆の四重の重詰があります。 明治34年の『東京風俗志』には、元日には「御節(おせち)」といって、大根・人参・八つ頭・牛蒡・こんにゃく・焼豆腐・青昆布などを煮たものを食べ、塩引きの鮭を食膳に出すのが通例で、その他に「食積」といって鰊の子・煮豆・昆布巻・ごまめ・たたき牛蒡などを重箱に詰めておき、食膳の物として食べたり、年賀の客にもすすめるとあります。
江戸中期頃から通例となった祝い肴の重詰は明治になっても同じですが、食積の名で呼ばれています。 以上のような移り変わりをまとめてみると、喰積が食べられないものになった寛政(1789~1801)頃から、食べられる祝い肴を詰めた重詰めが作られるようになり、飾るだけの喰積は形式的なものとして重詰と並存し、明治になると喰積はすたれて、祝い肴の重詰に喰積の名だけが残ったと考えられます。
そしてその後、別の器に盛られていた煮物などの料理も重箱に盛り込むようになって、一の重に口取り、二の重に焼物、三の重に煮物、与(よ<四>)の重に酢の物というおせちの重詰が通例となりましたが、戦中戦後を経て時代の推移と共におせちも変化しているようです。
(『江戸 食の歳時記』松下幸子 ちくま学芸文庫 2022年)
蓬萊の挿絵 「守貞謾稿 巻26 8/48」(国立国会図書館)
今朝の父の一枚です(^^)/
しろはら【シロハラ】
ヒタキ科ツグミ亜科のムクドリ大の鳥。
雄は頭が灰黒色、背は茶褐色、尾は黒褐色、脇は淡褐色で、腹は白い。
冬鳥で低山や平地に住む。
クワクワと地鳴きをする。
室町時代からツグミ類を〝しなひ〟と呼んでいたが、江戸時代前期になって、シロハラまたはアカハラを〝しなひ〟と呼ぶようになり、さらに中期から〝しろはら〟と呼ばれるようになった。
〝しらはら〟〝しらはらしなひ〟〝はらしろ〟〝しろつぐ〟〝くはっとり〟など多くの異名がある。
アカハラに似ていて、腹が白いので、〝しらはら〟と呼ばれ、クワクワと地鳴きをするので〝くはっとり〟と呼ばれたのであろう。
(『図説 日本鳥名由来辞典』菅原 浩・柿澤 亮三編著 柏書房 1993年)