でも、遺族の方にとっては、昨日のように思えるだろうなぁ
「震災28年 宗教や国籍超え犠牲者を追悼 神戸 長田区」(兵庫NHK)
〝阪神大震災「あの日を刻んで」焼け残ったキリスト像〟(YouTube 朝日新聞デジタル 2014年1月9日)
「たかとり教会の宝物」(2017年5月15日)
〝国籍や文化の違いある多様な地域住民たちと「多文化共生」をつくりあげていく。FMわいわい 日比野純一さん〟(BE KOBE)関西だけなのかな?
土曜ドラマ「心の傷を癒すということ」のスペシャル版が
NHK総合で今夜午後11時45分から放送されます。 序
神戸大学医学部教授 中井久夫
安克昌はナイスな青年であり、センスのある精神科医であり、それ以上の何かである。
私などの世代が分裂病臨床を開拓しようとした後を承(う)けて、それに取り組みながら、すでに心的外傷の理論と臨床とにいちはやく着手して、この分野に先鞭(せんべん)をつけていた。
このひそかな準備性は阪神・淡路大震災によって明らかにされた。
地震がやってきた時、新しい何が待っているのか、それに対して何をなすべきかをもっともよくわきまえていたのは彼であった。
(『心の傷を癒すということ』安克昌 角川ソフィア文庫 2001年) それでも、新しい事態は常に予想外を伴ってくる。
彼は、戸惑い、ぶつかり、出口を模索しながら、こころのケアのネットワークの立ち上がりの一翼を担った。
それが、少数の不屈の人間たちによって、みるみるうちに形づくられてゆくのを、彼は、自身も現場に参加しながら、冷静に観察していた。
そうして、来援者のコーディネーション・システムの神戸側に加わった。
この、コーディネーション・システムの早期における自発的形成ということが、今回の震災の精神医学キャンペーンにおける大きな特徴である。 個人的アプローチとしては、避難所訪問は、彼のモデルによって初めて軌道に乗ったということができる。
彼は、その創始者であり、これによって全国から来援する精神科医たちが、その働く場を見つけることができた。
そうして初めて、数日交替でくる、地域に不案内な来園者たちが有効な何ごとかをなしえたのである。
それは希有(けう)な一次的予防精神医学の実践であった。 他方で、彼は神戸大学病院の常勤医師として、入院および外来の患者を診(み)つづけた。
さらに、「官房長官」に当たる「医局長」として人事を切り回さなければならなかった。
それは平時の人事ではなかった。
行方不明者がいないかどうかを探し、全員の安否を確認することから始まって、来援者を迎え、接遇し、配備し、他方で傷ついた精神科医を休ませ、再起の方法を考えた。
そのうちにも、通常の人事の季節はやってきた。
医局にいると、彼を求める電話がいつもかかりにかかっていた。 この震災の中で彼は多くのものをみた。
にもかかわらず、彼の筆致は淡々として、やわらかであり、まろやかでさえある。
その中に、彼の悼(いた)みと願い、怒りと希望とを読み取ることは読者が協同して行う仕事となるであろう。
私は一足先に報告書を書き、また一年間の報告書を書いて、この本と前後して出版する。
しかし、私は立場と年齢とによって、ほとんどすべて通信機能を備えた場所において、多くの情報は間接的なものであって、現場の瓦礫(がれき)を足の裏に感じながら書かれたこの本に一目を置くものである。
若さと果断沈着さとに敬意と一抹の羨望(せんぼう)とを感じつつ、記して序とする次第である。
1996年2月26日
(『1995年1月・神戸』 中井久夫編 みすず書房 1995年) 解 説
河村直哉(産経新聞記者)
安克昌医師は2000年12月2日、肝細胞がんのために、神戸市長田区の市立西市民病院で生涯を閉じた。
39歳だった。
最期の日々について報告させていただく。
その年の春、安医師は助手、講師として9年間勤務していた神戸大学医学部精神神経科をひとまず去り、西市民病院の精神神経科医長として赴任した。
おなじころ妻が三人目の子供を身ごもっていることがわかった。
公私ともに希望にはなやいだ春のはずだった。
だがかすかな体調不良を訴えていた安医師の体に5月、がんはみつかった。
すでに末期の段階に進行していた。 医師として自分の体の状態は客観的にわかっていた。
安医師は入院や化学療法をなるべく控え、代替療法によりながら極力、家族とふつうの日々をすごそうとした。
身ごもった妻をいたわってのことであったろうが、安医師自身も家族と、そして生まれてくるわが子とすごすことを何よりの支えと感じていたのだろうと思う。
さらりと妻に自分ががんであることを告げ、笑顔で励ました。
同時に西市民病院の医師として診察を続けた。 しかし夏が終わったころ、安医師の体調は急速に悪化しはじめた。
疲労感は極度に募り、10月20日、精神科医として最後の診察をして休職する。
死の約一か月半前まで医師として診察を続けたのは驚くべきことである。
11月になると腹水がたまりはじめ、足元がふらつくことも多くなった。
それでも安医師は入院しようとしなかった。
妻は臨月に入っていた。
安医師は漢和辞典を手に生れてくる娘の名前を考えた。
中旬、12日の日曜日には長男の七五三のおまいりのため一家で生田(いくた)神社に出かけている。
写真に残る安医師はやせて白髪に染まっているけれども、目に深いいつくしみをたたえて両脇の二人の子供に手を添えている。 30日、陣痛の始まった妻を自宅から産院へ送りだし、自らもタクシーで西市民病院へ赴いた。
夜、赤ちゃんは無事に生まれた。
12月1日。
赤ちゃんを抱いて妻が病院に駆けつけたとき、すでに安医師の意識はなかった。
妻は安医師の枕元にわが子を寝かせ、父親の手をとって小さい頬や頭をなでさせた。
二日未明、かすかな祈りのように「頼む」という言葉を何十回も繰り返して、安医師は息を引き取った。
…中略…
2001年秋
あとがき
…前略…
私がここに示したのは、阪神・淡路大震災による人々の心の傷つきである。
この途方もなく大きく複雑な災害は、間違いなく歴史に残る特別な事件であり、また災害における心のケアの問題がこれほど注目をあびたという点でもはじめての事例となるだろう。
人々の心の傷つきははかり知れない。
まだたくさんの人々が苦しんでいる。
現在でも、診察の中で思わぬところに震災の影響があることに気づき、はっとすることがある。
しかしまた、心を傷つける出来事は、日常的に私たちの身近にころがっている。
震災によって私たちは、改めて心的外傷の重要性に気づかされたと思う。
震災体験は私たちに、「心の傷と癒(いや)し」という普遍的な問題を垣間(かいま)見せたのである。
奇(く)しくも、震災は戦後五十年目に起きた。
廃墟(はいきょ)となった神戸の町は、終戦直後の風景を彷彿(ほうふつ)とさせるものであった。
戦後社会の繁栄がなおざりにしてきた心の問題を、神戸の焼け跡は問いなおしているような気がする。