霜が降りていて雲が覆っていたので指先が冷たかったです…
途中で、青空になりお日さんが届くと暖かくなりました。
でも、火曜日くらいには強烈な寒波が来襲するようですね…
「24~26日にかけ この冬一番の非常に強い寒気 雪や低温へ備えを」(NHK 1月22日)寒波は日本だけでなく太田光のつぶやき英語で
アメリカのSNSの投稿の「#Coldwave」が紹介されていました。
12月22日、バイデン大統領が
「子どものころ遊んだ雪の日とはちがいます。
とても深刻な問題です。
とにかくこの嵐を極めて深刻に受け止めてください。」
“once in a generetion”
(1世代に1度の寒波)
一方、同じ北半球なのにヨーロッパでは「#MildWinter」の投稿…
幕末の時代の女性について『女たちの幕末京都』から「静寛院宮の誉れ」を転記しました( ..)φ
幕末の動乱期、胆が据わった女性たちが活躍しています。
村山たかもその一人です。
2011年6月12日に蕪村の墓を金福寺を訪ねた時に
村山たかのことを初めて知りました(プロバイダーのサービス停止でblogは閉鎖)。
(2016年5月9日の再び訪ねました)大老・井伊直弼(いいなおすけ)を助けた美しき愛妾(あいしょう)
村山たか
幕末の京都に暗躍した影の大老の手先となった女
村山たかは、文化6(1809)年、近江(おうみ)の多賀大社(たがたいしゃ)の僧と彦根の芸妓との間に生れたという。
かず江(え)と呼ばれていた幼い頃から、三味線をはじめ和歌、茶の湯、華道などを習い、当時の女性としては十分なほどのたしなみを身につけていた。
(『京を彩った女たち』川端洋之文、中田昭写真、学研グラフィックブックス 2004年) 18歳になった彼女は彦根藩主・井伊家に侍女(じじょ)として勤めたが、武家勤めが性に合わなかったようで、しばらくして京へ出て祇園の芸者となった。
祇園では母親譲りの彼女の美貌と芸達者が活きて、またたく間に売れっ子芸者・可寿江(かずえ)として名をはせた。
やがて金閣寺の僧に落籍(らくせき)され北野近くに囲われる。
その後、多田一郎(いちろう)の妻となって一子・帯刀(たてわき)をもうけた。
しかし、家の中にじっとしている性分のたかではなかった。
再び、近江彦根へ戻って暮らし始めた。 その頃、後に大老となる井伊直弼はわずか三百俵の捨扶持(すてぶち)をもらう部屋住み。
埋木舎(うもれぎのや)と名付けた屋敷で、将来への望みもなく茶や花などの風流三昧の生活を送る男だった。
このような直弼のもとへ、天保10(1839)年頃、歌会が縁となりたかが訪れるようになった。
しばしば訪れる美貌の女、たかと直弼との間は急速に接近する。
やがて「京都大老」とか「影の大老」とまでいわれ、直弼の腹心となる、国学者の長野主膳(ながのしゅぜん)も出入りするようになる。
折りしも時代は、ペリー来航による開国要求とそれに反対する尊王攘夷(そんのうじょうい)運動が激しさを増していた。 京は政局の渦中にあり、大老となった直弼は長野主膳を京へ遣わし、反対派の弾圧を始めた。
たかは御高祖頭巾(おこそずきん)に顔を隠し、主膳の手先となって働いた。
たかは、しだいに主膳に惹(ひ)かれていった。
安政の大獄へと向かって進んでいく、暗黒の時代のなかであった。 尼となって一乗寺(いちじょうじ)の穏やかな風景のなかで過ごした晩年
万延(まんえん)元(1860)年3月3日、直弼が江戸城桜田門外の雪を血に染めて倒れると、たかの周囲も俄然(がぜん)騒がしくなってきた。
移りゆく時代のなかで尊王攘夷と声高に叫ぶ者たちが、じわじわと彼女を追い詰めてゆく。
直弼の右腕として、安政の大獄に暗躍した長野主膳は藩によって斬罪(ざんざい)に処せられ、スパイ活動の仲間であった九条関白(くじょうかんぱく)家の島田左近(しまださこん)も天誅(てんちゅう)として惨殺されてしまった。 文久(ぶんきょう)2(1862)年11月、北野に息子、帯刀と隠れひそんでいるところを浪士30名に襲われた。
首謀者は人斬り新兵衛(しんべえ)と呼ばれた薩摩の田中新兵衛や土佐の岡田以蔵(おかだいぞう)であったという。
たかは捕らわれ、一度は逃げた帯刀も斬殺されてしまう。
「村山かずえ、この女、長野主膳の妾にて戊午年以来主膳の奸計(かんけい)助け稀なる大胆不敵の所業をすすめ、赦(ゆる)すべからざる罪科にこれあり候(そうら)えども、その女子たるをもって面縛転の上、死罪一等これを減ず」というのは、両腕と腰を荒縄で縛られ三条大橋のたもとに生き晒(さら)しとなったときの高札書きである。 直弼、主膳、帯刀というかけがえのない男たちを失い、女の身として最も恥ずかしい生き晒しの刑に遭った彼女は、身も心もボロボロになっていた。
縄目を解かれたたかは、いったん清凉寺(せいりょうじ)へ落ちつき、やがて一乗寺の圓光寺(えんこうじ)へ入り、名を妙寿(みょうじゅ)という尼となった。
その後、近くの金福寺(こんぷくじ)の寺守となり明治の世まで生き延び、67歳の天寿を全(まっと)うした。
現在、金福寺にはたかの位牌と筆蹟などが残されているが、その力強い筆致の墨痕には、彼女らしい気性の激しさがうかがわれる。
金福寺のすぐ近くに、尼となるために修業した圓光寺がある。
楓があざやかな緑陰をつくる庭の奥、竹林に囲まれた墓地に、清光素省禅尼(せいこうそせいぜんに)という法名でたかは静かに眠っている。
「村山たかの墓(画像省略) 文久2(1862)年に金福寺に入って寺守となった彼女は、明治9(1876)年に没し、修業した圓光寺の墓地に葬られた」
(『京を彩った女たち』川端洋之文、中田昭写真 学研グラフィックブックス 2004年)
今朝の父の一枚です(^^)/
コゲラがイラガの繭を駆除している。
能あるタカは爪を使う
「行儀が悪いから、そんな食べ方をしてはいけません!」
足でおかずを食べていたら、お母さんに怒られるか雑技団に放りこまれるかのどちらかです。
しかし、タカのなかまは作法などどこ吹く風と、足で獲物を捕らえます。
オオタカはウサギを、ミサゴは魚を、トビはアブラアゲをつかんで飛んでいきます。
一方でカラスやカモメは、足を使わずに口にくわえて飛んでいきます。
こちらはサザエさんに追いかけられそうですが、彼らは足に獲物をつかんで飛ぶのが苦手です。
その違いは、爪の形にあります。
タカやフクロウなど足でつかむ鳥の爪は、弧を描いて湾曲しています。
そのおかげで対象をしっかりとホールドできるのです。
鳥の爪を見れば、種によって形が違うことがわかります。
枝にとまるシジュウカラの爪は、曲がっている方が枝をつかみやすいので湾曲しています。
垂直な木の幹を自由に歩き回るキツツキは、さらに爪がフックのように湾曲しています。
逆に地上をよく歩くハトの爪はまっすぐです。
草原にすむヒバリは、後ろ向きの指の爪が指と同じぐらい長く伸びています。
足の表面積を広げて、地上での安定感を高めているのでしょう。
爪やくちばしのように外部のものと直接触れる部分は、対象に合わせて独自に進化しやすいのです。
ちなみに、タカはどんなに頭がよくても爪を隠すことができません。
もし爪を隠せるタカに出会ったら、それは多分ネコの見間違いです。
(『トリノトリビア 鳥類学者がこっそり教える 野鳥のひみつ』川上和人 マツダユカ他 西東社 2018年)