2022年12月31日土曜日

大晦日

歩いているうちに雲が広がってきましたが、今日も穏やかな朝でした。
年越しそばのニュースが流れる中で

異変「作付けをやめる」年の瀬の風物詩に何が〟(NHK 12月28日)
国の方針変更で耕作放棄地が増える懸念も…

ウクライナ情勢などをきっかけとして、
食料の安全保障強化の議論が盛んに行われるようになった中で、
どうすれば農家の人たちが腰を据えて生産を続けられるのか
 うばたまの この夜(よ)な明けそ しばしばも まだ旧年(ふるとし)の うちぞとは思はむ

大晦日の今夜は明けないでほしい。
まだ旧年中だ、新年でないと、たびたび思いたいから。

「うばたまの今宵な明けそ明け行かば朝行く君を待つ苦しきに」(『拾遺集』恋二、柿本人麻呂)による。


 乳房(ちぶさ)吸ふ まだいとけなき 嬰児(みどりご)と ともに泣きぬる 年の暮かな

母の乳房を吸う、まだがんぜない幼児ともども泣いてしまった。この年の暮れに…。

実朝には実子がないので、他人の子を見て詠んだもの。
火のついたように泣く嬰児に同情して泣いたのか、心中に何か別の悲哀があってことのかは不明。
素直な心優しい実朝像が現れている。
◇いとけなき 幼い。
◇嬰児 生後間もない赤ん坊。
(『金槐和歌集(旧版)』昭和56年)
今朝、再放送された
こころの時代~宗教・人生~シリーズ「問われる宗教と“カルト”」VOL.2 

小原克博
宗教リテラシーの視点からちょっと、整理し直してみたいんですよ。
フランスは、ヨーロッパの中でもカルトの犠牲者の数がすごく多かったんです。
だから、ああいう反セクト法を作らざるをえないぐらいまで追い込まれたんですよね。
他方ですね、ドイツはそれほどではなかったんですよ。
どこに差があるかなんです。
フランスの場合には、厳格な政教分離、ライシテと言いますけど
その下にですね、公教育からも宗教教育を、徹底して排除していきます。
これ、戦後日本と非常に似た状況です。
いわば、もう、宗教に対するアンテナが全然働かないんですよね。
ですから、スーッと何かこう、入り込んできても
それが怪しいものだっていうことに気付くことができない。
だから、簡単に、だまされるんですよ。
他方、ドイツの場合には、基本法によって宗教教育が命じられていて
かつてはですね、カトリックかプロテスタントか、ちゃんと勉強しなさいと。
そのあとどちらも嫌だという人にはですね倫理という授業を教えて
最近では、イスラムの授業もあります。
そういうことをきちんと学ぶことによって
やはり、その伝統宗教の基本がまさにリテラシーとして身につくことが
カルト的なものに対する防波堤になってるんですよ。
ですから もちろんカルト対策を考えてですね
ドイツはやったわけじゃないんですけども
結果として、フランスとドイツの犠牲者の数の差として
表れてきてるということを考えれば櫻井さんが望んだように
宗教リテラシーというものをある程度、広げていくことによって
カルト問題は解決するんではないかということの
一つのですね、事例として見ることができます。
釈徹宗

中央教育審議会でも、公教育でも宗教を、ちゃんと教育して下さいという答申は3度ぐらい出てました。
理由は、3つほどあるんですが
1つは、グローバル化。
我々、あまり なじみのないような信仰を持った人たちと一緒にこれから社会を運営していかねばならない。
だから、宗教についての知識は当然必要。
2つ目が、カルト宗教問題。
宗教への知識がなく、免疫がない。
マインドコントロールや勧誘の手法について全然、知識がないというのはやっぱり危ない。
3つ目が、宗教っていうのは人類の知恵の結晶という面があるので
それを学ぼう、あるいは、我々の社会とはまた別の価値体系を学ぼうという
3つぐらいの理由があるんですよね。

徹底討論!問われる宗教と“カルト”』(NHK出版新書)が1月10日に出版されるようです。

シリーズ「問われる宗教と“カルト”」 VOL.3も見逃し配信で視聴できます。
12月31日の出来事は、明治になってから。
江戸時代、265年ほどの間、戦争はなかったのですが、

1942(昭和17)年
   6月5日 ミッドウェー海戦(4空母喪失)
  12月31日 大本営、ガダルカナル島撤退を決定。
(『新版 日本史年表』歴史学研究会 岩波書店 1984年)

このことは国民に知らされていませんでした。
小学生だった母が、日本軍の飛行機が飛んできたと手を振っていると、アメリカ軍の艦載機。
機銃掃射の中を逃げ、アメリカ艦艇からの艦砲射撃の鉄の雨の中を逃げ惑うことになりました。
艦載機の機銃掃射で頭を砕かれた遺体も目撃しています。

徹子の部屋に出演したタモリさんの言葉「新しい戦前になるんじゃないですかね」がトレンド入りしていました。
100分de名著中井久夫スペシャル4▽精神科医が読み解く「昭和」と「戦争」

戦争開始当初指導者が陥りがちなのは 「願望思考」。

ほとんどすべての指導層が
戦争は一ヵ月か、たかだか三カ月のうちに
自国の勝利によって終わると考える傾向がある。
願望思考の破綻が明々白々となった後、
容易に堕落して
「終結の仕方が見えないという形での堕落した戦争」となる。

戦争と平和 ある観察[増補新装版] 』(中井久夫 人文書院 2022年)
第4章 大陸と太平洋を敵として
 最後の攻防


 1941年(昭和16)7月18日、外相を松岡から豊田貞次郎(とよだていじろう)に代え、第三次近衛内閣が成立した頃、軍司令部では「ジリ貧論」が勢いを得てくる。
同月31日、木戸日記の記すところでは、永野軍令部総長は天皇に対し「国交調整不可能なりとし〔中略〕此儘(このまま)にては二年の貯蔵量を有するのみ、戦争となれば一年半にて消費し尽すこととなるを以て、寧ろ此際打って出るの外なし」と奏上し、早期開戦を勧めた。
しかし同時に、永野は、勝敗の見込みについては「勝ち得るや否も覚束なし」とも答えていた。
英米を敵とする武力戦への天皇の不安は、アメリカとの外交交渉期限を10月上旬、対米英蘭戦争準備完整を同月下旬とした「帝国国策遂行要領」決定のための9月6日の御前会議前日に頂点に達した。
近衛首相と両総長を前に天皇は、外交と戦争準備を並行的に行うのではなく、外交を優先させよと述べた後、「南方作戦は予定通り出来ると思うか」、「上陸作戦はそんなに楽々と出来ると思うか」、「予定通り出来ると思うか」と繰り返し質していたことが『杉山メモ』から知られる。
日米交渉に希望をつなぐ内閣と、備蓄燃料が漸減してゆくなか、アメリカ側の軍備が増強される前、つまり勝機が少しでもあるうちの即時開戦を主張する統帥部とのあいだで、開戦まで4回開催された御前会議は揺れた。
(『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』加藤陽子 講談社学術文庫 2018年)
 交渉継続論者の弱点は、東条陸相(41年10月18日から首相)と統帥部が、いわゆる、ハル四原則(①一切の国家の領土保全及主権の不可侵、②他の国家の国内問題に対する不干与、③通商上の機会及待遇の平等を含む平等、④紛争の防止及平和的解決、並に平和的方法及手続きに依る国際情勢改善のため、国際協力及国際調停尊重)と、中国・仏印からの撤兵を認められないとして強硬に反対したため、この二点で対米譲歩が困難だったことである。
いっぽう、即時開戦論者の弱点は、対米英武力戦に勝利できるか、また戦争を終結させる戦略があるのかという点で、開戦に不安を感じていた天皇を説得することが困難だったことである。
…中略…

 この頃、東条は、陸軍省軍務局軍務課高級課員石井秋穂と海軍省軍務局第二課首席局員藤井茂に、「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」を作成させていた。
これは、11月15日の大本営政府連絡会議決定となり、国策として決定されいった。
本案は、日独伊が協力するだけでなく、日本が独ソ和平を斡旋し、ドイツの戦力をイギリスに集中させれば、イギリスを屈服させることができる、との見通しが語られた点で重要だった。
イギリスの屈服を導けば、アメリカの「継戦意欲」をなくせる、とみられていた。
アメリカを武力戦で打倒できるとは考えられていない分、とにかくイギリスさえ屈服させられれば、との希望的観測は抱かれやすかった。
こうした見通しは、企画院総裁鈴木貞一(すずきていいち)による「物的国力」とともに、迷う天皇の背中を強く押すことになる。
鈴木は、民需用船舶300万トンが維持できれば戦争遂行可能であると述べた。
このようにして、10月から11月にかけてなされた、開戦への天皇の不安を除くことに全力を集中した統帥部主導の説得工作により、和戦は決定された。
 ハーヴァード大学留学中であった鶴見俊輔(つるみしゅんすけ)は、日米交渉をアメリカにいて見ていた。
本当に戦争は起こるかとアメリカ人と議論したとき、鶴見は「戦争は起きる」と明確に述べたとう。
鶴見は回想して「自分だけだまさずに他人をだますのはむずかしい。日本の政治家はそこまでかしこくない。長い間日本の軍事力と工業力について国民をだましてきたツケをやがて払わなくてはならないだろう」と考えていたという。
…中略…

 この裏面に、尾崎秀実が、満鉄の部内誌において描写していた、日本社会の当時の現実を見ることは不当ではないはずだ。
「日本国内の庶民的意向は支配層の苦悩とは殆んど無関係に、反米英的」であるが、これは、「満州事変以来十年、民衆は此の方向のみ歩む事を指導者階級に依って教えられ続けて来たのであって、何等不思議とするに足らない」。
熱河(ねっか)作戦の後、上海作戦の後にそれぞれ出された勅語の文言を思い浮かべれば、まさに尾崎が述べるとおりの過程を日本は10年歩んで来ていた。
 負ける戦争

緒戦の勝利にひきずられた陸海軍は、それぞれ、海軍がオーストラリア進攻へ、陸軍がビルマ占領からインド・インパール方面への侵攻へと当初の作戦計画を拡大させた。
極東根拠地の確保、南方石油地帯の確保といったつつましい作戦目的では終わらなかった。
また、開戦後着手するはずの独ソ講和斡旋は、1942年(昭和17)3月の段階で、見送られることとなった。
戦争終結の見通しを支える柱であった、イギリス屈服を保証するはずの道はこうして遠のいたのである。
…中略…

42年6月のミッドウェー海戦での敗北を皮切りに、43年2月のガダルカナル撤退開始、44年6月のマリアナ沖海戦での敗退、同10月のレイテ沖海戦など、連戦連敗を喫した日本には、戦争終結しか道はなかった。
しかし、43年1月24日のカサブランカ会談で英米は、枢軸国の降伏型式は無条件降伏によらねばならぬと決定していた。
真珠湾攻撃の報に接して南原繁(なんばらしげる)が詠んだ歌に「人間の常識を超え学識を 超えておこれり日本世界と戦ふ」があったが、このような、自力での最終勝利があり得ない戦争を始めた国家の前途に、無条件降伏以外の選択肢がなかったとすれば、戦争終結にいたる道はきわめて狭き門となることが予想された。
無条件降伏は国体の変革を伴うはずだと予想できたからでる。
まさに抗戦継続を主張する軍部は天皇に対して「米国は我国体の変革迄も考え居る」との観測を奏上していた。
…後略…
(『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』加藤陽子 講談社学術文庫 2018年)
今朝の父の一枚です(^^)/
カルガモが朝ご飯を探しているのかな?

 子どもができない 秋や冬にも交尾する?

 鳥類の交尾は繁殖行動なので、ふつうは当然、繁殖期に見られるものです。
しかし非繁殖期の秋~冬にカモ類が交尾していることがよくあります。
カルガモの場合では、交尾するのはふつう、早春~春頃のはずです。
 向かい合うオスとメスが首を上下させながら近づき、オスはメスの背中に乗ります。
まさに交尾の姿勢です。
なぜ子育てができないような時期に、交尾をしているのでしょうか?
 実はこれは「疑似交尾」と呼ばれ、交尾の練習や求愛行動の一種とも考えられます。
…後略…
(『身近な「鳥」の生きざま事典』一日一種著 SBクリエイティブ 2021年)

ご訪問いただきありがとうございました。
くる年が皆さまにとって平安で心穏やかな年でありますように祈念しています。